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1話

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「……遅い」


 シアは内心の苛立ちをまったく包み隠さず呟いた。いつもであれば「お嬢、〈姫〉にあるまじき声の低さとドスの効き具合と刺々しさですよ」などと背後から聞こえてくるところだったが、現在シアがこんなところ――無人の薄暗い教会――で無為に時間を浪費する原因となった待ち人こそがシアにそんな茶々を入れてくる唯一の存在であるので、つまりシアの心底からの怒りをこめた三音は、ただの独り言となるはずだった。
 ……のだが、そうはならなかった。応える声があったからだ。


「お嬢、〈姫〉にあるまじき声の低さとドスの効き具合と刺々しさですよ。ついでに一応そこそこ美形に仕分けられる顔が今にも人を殺しそうな感じに」


 予測と一言一句違わずどころか余計な文言まで足されて、シアはますます渋面になった。ちなみに目つきが悪いのは地なので『人を殺しそう』の原因のかなりの部分がそこに拠っているとしてもどうしようもない。


「人を待たせておいて謝罪の一つも言えない上におちょくるしかできないような口なら、縫い付けた方が世のため人のため主に私のためになるんじゃないかと思うんだけど、どうかしら」

「発想が一足飛びで猟奇的すぎません? とはいえ確かに俺が悪かったです、待たせてすみませんでした、お嬢」


 音もなく突然に、一瞬前までシア以外の誰もいなかった空間に現れた人物の名を、リクという。茶髪に緑色の目、それなりに見栄えのする背丈とそれなりに鍛えた体とそれなりに整った顔を持つが、総評として致命的に華のない風貌の、シアの〈騎士〉である。
 しかし致命的に華がない――何を基準にかというとシアとリクの身分というか立場というか役割というかそこに付随する呼称というか、つまるところ〈姫〉と〈騎士〉として――というのはお互いさまであり、ついでにそこの辺りの相互認識もとうの昔に済んでいたりする。

 今更のようにそんなことが思考に浮かんだのは、つまるところシアも多少はこれから赴く場所に対して気後れのような感情を抱いているということなのだろう。柄ではないと自分でも思うが、当然のこととも言える。

 何せ、これから向かおうとしている場所――これから住まうことになる場所は、『神にいと近き御園』エデルファーレなのだから。


 エデルファーレとは、長ったらしい二つ名が示す通り、神がおわすところに限りなく近い場所である。通常人間が住まう世界とは異なる位相に存在し、言うなれば人間が住まう世界と神が存在する世界を繋ぐ形で存在していて、そこには神の意志を受け取り世界を運営する神子が住まうという。まだ行ったことも見たこともないので、シアも伝聞でしか知らない。

 そんなどこからどう説明してもトクベツな感じの場所なので、普通であれば人間がそこを訪れることはない。つまり、シアとリクがそこに赴くことになっているのは、普通ではない事情によるものだった。

 その『普通ではない事情』に、シアとリクの身分というか立場というか〈姫〉と〈騎士〉という逃れえない役割が絡んでいるわけで、好き好んで行くわけでは全くなかったりする。かと言って、〈姫〉と〈騎士〉という役割を負ったまま、通常人々が住まうこの世界に留まりたいかと言われると心の底から首を横に振りたいのがシアの正直な気持ちだった。まあ、そもそも最初から選択肢などないのだが。

 そんなこんなでエデルファーレに赴く日が今日であり、行くならさっさと行ってしまいたいシアの意思に反して、直前になってリクが「ちょっと待っててください」などと言っていなくなったのだ。
 エデルファーレへの〈門〉を作り出せるのは〈騎士〉のみであり、更には〈姫〉と〈騎士〉が揃っていないと――つまりシアとリクが揃っていないとエデルファーレへの〈門〉は開かないので、為すすべなくシアは足止めを食ったわけである。機嫌が悪くなるのも当然だった。


「一応これからあらゆる人々が夢見る楽園エデルファーレに足を踏み入れるんですから、あからさまに不機嫌ですーって顔はどうかと思いますよ、お嬢」

「誰が見てるわけでもないでしょう。表情くらい好きにさせてちょうだい」

「それはそうですけど。……ほら、これでも見て機嫌なおしてくださいよ」

「なに……。……っ!! これっ、……どうして!?」


 差し出されたものを目にし顔色を変えたシアに、リクは得意げな顔をするでもなく、いつもどおりのぼんやりした無表情で答える。


「ちょちょいっと裏の伝手を使いました。お嬢、望めば何でも叶えられる〈姫〉の立場のくせして、早々に諦めるんですもん」

「……〈姫〉としての立場を濫用したくないだけよ。それはあなたも知ってるでしょう」


 受け取るように身振りで促され、シアはリクが差し出したもの――一冊の本を受け取りながら、そう返した。


「ええ、お嬢が〈姫〉になってから、ずっと一緒にいましたからね。いやってほどに知ってますよ。だから〈騎士〉としてじゃなくて、個人的な伝手を使って手に入れたんじゃないですか」

「…………頼んでないけど、お礼は言っておくわ。ありがとう」

「いえいえ、俺が勝手にやったことですから」


 常の通りの何を考えているんだかいまいちわからない平坦な声音で告げるリクに、シアは礼を重ねることはしなかった。リクがシアからの感謝などというものを期待して行ったわけではないのは、シアもわかっていたからだ。これでも長い付き合いである。

 渡された本に視線を落とす。その本は、別にとんでもなく高価だとか、希少価値が高いだとか、そういう付加価値がある本ではなかったが、エデルファーレに出立する日が決まった時、シアが手に入れるのを諦めた本だった。
 理由はとても単純で、その流通日が出立日より後であったからだ。先程リクが口にしたように、〈姫〉としての立場を利用すれば、手に入れられるだろうことも知っていた。知っていたが、そうするつもりはなかった。
 だから諦めたというのに――説明もなく出発直前に消えた理由がこれだとわかってしまえば、不機嫌でい続けることはできなかった。シアは気を取り直して、リクに向き合う。



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