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◇ はばたく若者たち
萌美が奏でる世界
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第1曲目の「朝」が、真綿のような気持ち良さをともない、会場に広がってゆく。
曲名は知らなくとも、聴いたことがあるという人は多いだろう。「朝」(「朝の気分」と称されることもある)と題されたこの曲はモロッコでの朝を表現しているのだが、のんびりした感じの温かさが肌に伝わってくるような感覚は、いまの時期のスペインを思わせる。
萌美がゆっくりと奏でる音が、聴衆を一瞬で魅了する。
審査員たちは、予選のときから思っていた。萌美には技術以外のなにかがある。それがどういうものなのかはわからないが、彼女は他の出場者が持たないものを備えている。
それは萌美独自の才能といってよい。感性の扉が開かれた萌美は、会場にいる人々を己の世界に優しく誘ってゆく。
決勝に進んだ各国代表者たちは目を丸くしながら、萌美の演奏に聴き入っている。萌美は難しい曲を奏でているわけではないのだが、彼らの出せない音を響かせているのだ。
なんとも心地よい、癒しの空間にいるようだ。他の代表者たちは決勝での演奏が終わり、緊張から解放されたこともあるだろうが、萌美の音はそんな彼らにまたとない安らぎを与えてくれる。
この空間にいつまでも浸っていたいという気分のまま、萌美の演奏は第2曲「オーセの死」へ移る。
悲しみに満ちた旋律が、会場を漂う。ペール・ギュントの物語では、彼の母親が寿命を迎えるシーンで流れる曲だ。
陰鬱な雰囲気におおわれる審査員たちは、予選がはじまるまえの暗い気分を思い出す。
今年の大会は、注目に値するほどの演奏者はいない。このコンクールが開始されて以来の、レベルの低い大会になりそうだ……と、勝手にそのように評価した彼らの、会場へ到着するまでの足取りは重く、また予選がはじまるまでの時間が長く感じたものだ。
そんな審査員の前評判を真に受け、信じて疑わない観客たちもがっかりしていた。まあ、せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてみようと期待感がまったくない想いで会場に足を運んだのである。
そういう彼らの心情とこの曲の叙情的な旋律が、やけにマッチする。
萌美の演奏は、次なる曲へ移行する。
第3曲目は「アニトラの踊り」だ。ペール・ギュントを虜にして全財産を奪う、村の酋長の娘アニトラ。
審査員たちの心に浮かぶのは、ペール・ギュントを魅了するアニトラの妖艶な踊りではなかった。
今大会の予選がはじまると、審査員も観客たちも、各国を代表する出場者のレベルの高さに驚かされた。突出して目立つ演奏者はいないが、平均的には昨年のレベルを上回り、熾烈な優勝争いとなることが予想された。
審査員が雑誌のインタビューで語った前評判は、取り消すことができない。どうやって自分の間違った評価をつくろえばよいのか。
それで悩み焦っている己の姿が、彼ら自身の心に映ってくる。
批判精神が旺盛な観客は「審査員の前評判と、ちがうではないか」という戸惑いを覚え、困惑している自分の様子が目に浮かぶ。
──これは……まさか……
ようやく気づいた。萌美が表現しようとしているのは、ペール・ギュントの物語ではない。
彼女の演奏は、この大会における彼らの想いを正確に再現しているのだ。
それがわかったとき、みんなはゾッとした。
──こ、この日本代表の演奏者は、わたしの心が読めるのか?
萌美は、彼らの心を読んでいるわけではない。
彼女が創る世界は、音楽を聴く者の想いを鏡のように反射して本人に認識させる。そういう世界なのだ。
自分が想っていることを省みることなく、ひたすら垂れ流してきた人間にとっては、恐怖の世界に他ならない。
審査員も観客たちも、第1曲目から萌美の創る世界へ無警戒で近づき、足をふみ入れていた。
大会初日の天気が晴れであることが、この世界を創る萌美にとっては絶対条件だったのである。
萌美の心の奥にある感性の扉は二つ目が開かれ、さらに三つ目までが開かれている。ここまでくると、もう後戻りはできない。
そして、四つ目の扉が静かに開かれる。彼らにとっては地獄である萌美の世界に、射程内に収まっているみんなは、一気に引きずり込まれた。
萌美が最後に奏でる曲は、第4曲「山の魔王の宮殿にて」。
どうにか聴きとれるという低音の旋律が、会場にいる人々を潮が満ちるように徐々に網羅する。
序奏の旋律は、一度聴けばその胸に爪痕が深く刻まれるというほどの印象を与える。この曲の演奏では、それが何度も繰り返される。
小学生だった萌美がこの曲をはじめて聴いたとき、変わった曲だと思って飽きるほど練習したものだ。
ゆっくりとした音の響きにともなって審査員たちが引きずり込まれたのは、暗闇におおわれた真っ暗な世界。
背後に不気味な気配を感じた彼らは、後ろをふり返る。暗闇の奥から声がきこえる。それは他の誰でもない、自分自身の心の声。
「今年の出場者は、小粒ぞろいで面白くなさそうだ」
「決勝も、例年にないレベルの低い優勝争いになりそうだな」
「才能のある演奏者は、誰もいないようだ。つまらない演奏会を聴かされそうだ。一人ぐらいは、まともな演奏が期待できないかな」
「せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてやるか」
スペインに集った各国代表の若き演奏者たちを、上から目線で見下す不遜で傲慢な想い。それが魔王を眠りから目覚めさせる。
曲名は知らなくとも、聴いたことがあるという人は多いだろう。「朝」(「朝の気分」と称されることもある)と題されたこの曲はモロッコでの朝を表現しているのだが、のんびりした感じの温かさが肌に伝わってくるような感覚は、いまの時期のスペインを思わせる。
萌美がゆっくりと奏でる音が、聴衆を一瞬で魅了する。
審査員たちは、予選のときから思っていた。萌美には技術以外のなにかがある。それがどういうものなのかはわからないが、彼女は他の出場者が持たないものを備えている。
それは萌美独自の才能といってよい。感性の扉が開かれた萌美は、会場にいる人々を己の世界に優しく誘ってゆく。
決勝に進んだ各国代表者たちは目を丸くしながら、萌美の演奏に聴き入っている。萌美は難しい曲を奏でているわけではないのだが、彼らの出せない音を響かせているのだ。
なんとも心地よい、癒しの空間にいるようだ。他の代表者たちは決勝での演奏が終わり、緊張から解放されたこともあるだろうが、萌美の音はそんな彼らにまたとない安らぎを与えてくれる。
この空間にいつまでも浸っていたいという気分のまま、萌美の演奏は第2曲「オーセの死」へ移る。
悲しみに満ちた旋律が、会場を漂う。ペール・ギュントの物語では、彼の母親が寿命を迎えるシーンで流れる曲だ。
陰鬱な雰囲気におおわれる審査員たちは、予選がはじまるまえの暗い気分を思い出す。
今年の大会は、注目に値するほどの演奏者はいない。このコンクールが開始されて以来の、レベルの低い大会になりそうだ……と、勝手にそのように評価した彼らの、会場へ到着するまでの足取りは重く、また予選がはじまるまでの時間が長く感じたものだ。
そんな審査員の前評判を真に受け、信じて疑わない観客たちもがっかりしていた。まあ、せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてみようと期待感がまったくない想いで会場に足を運んだのである。
そういう彼らの心情とこの曲の叙情的な旋律が、やけにマッチする。
萌美の演奏は、次なる曲へ移行する。
第3曲目は「アニトラの踊り」だ。ペール・ギュントを虜にして全財産を奪う、村の酋長の娘アニトラ。
審査員たちの心に浮かぶのは、ペール・ギュントを魅了するアニトラの妖艶な踊りではなかった。
今大会の予選がはじまると、審査員も観客たちも、各国を代表する出場者のレベルの高さに驚かされた。突出して目立つ演奏者はいないが、平均的には昨年のレベルを上回り、熾烈な優勝争いとなることが予想された。
審査員が雑誌のインタビューで語った前評判は、取り消すことができない。どうやって自分の間違った評価をつくろえばよいのか。
それで悩み焦っている己の姿が、彼ら自身の心に映ってくる。
批判精神が旺盛な観客は「審査員の前評判と、ちがうではないか」という戸惑いを覚え、困惑している自分の様子が目に浮かぶ。
──これは……まさか……
ようやく気づいた。萌美が表現しようとしているのは、ペール・ギュントの物語ではない。
彼女の演奏は、この大会における彼らの想いを正確に再現しているのだ。
それがわかったとき、みんなはゾッとした。
──こ、この日本代表の演奏者は、わたしの心が読めるのか?
萌美は、彼らの心を読んでいるわけではない。
彼女が創る世界は、音楽を聴く者の想いを鏡のように反射して本人に認識させる。そういう世界なのだ。
自分が想っていることを省みることなく、ひたすら垂れ流してきた人間にとっては、恐怖の世界に他ならない。
審査員も観客たちも、第1曲目から萌美の創る世界へ無警戒で近づき、足をふみ入れていた。
大会初日の天気が晴れであることが、この世界を創る萌美にとっては絶対条件だったのである。
萌美の心の奥にある感性の扉は二つ目が開かれ、さらに三つ目までが開かれている。ここまでくると、もう後戻りはできない。
そして、四つ目の扉が静かに開かれる。彼らにとっては地獄である萌美の世界に、射程内に収まっているみんなは、一気に引きずり込まれた。
萌美が最後に奏でる曲は、第4曲「山の魔王の宮殿にて」。
どうにか聴きとれるという低音の旋律が、会場にいる人々を潮が満ちるように徐々に網羅する。
序奏の旋律は、一度聴けばその胸に爪痕が深く刻まれるというほどの印象を与える。この曲の演奏では、それが何度も繰り返される。
小学生だった萌美がこの曲をはじめて聴いたとき、変わった曲だと思って飽きるほど練習したものだ。
ゆっくりとした音の響きにともなって審査員たちが引きずり込まれたのは、暗闇におおわれた真っ暗な世界。
背後に不気味な気配を感じた彼らは、後ろをふり返る。暗闇の奥から声がきこえる。それは他の誰でもない、自分自身の心の声。
「今年の出場者は、小粒ぞろいで面白くなさそうだ」
「決勝も、例年にないレベルの低い優勝争いになりそうだな」
「才能のある演奏者は、誰もいないようだ。つまらない演奏会を聴かされそうだ。一人ぐらいは、まともな演奏が期待できないかな」
「せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてやるか」
スペインに集った各国代表の若き演奏者たちを、上から目線で見下す不遜で傲慢な想い。それが魔王を眠りから目覚めさせる。
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