翔んだディスコード

左門正利

文字の大きさ
上 下
34 / 36
◇ はばたく若者たち

萌美が奏でる世界

しおりを挟む
 第1曲目の「朝」が、真綿のような気持ち良さをともない、会場に広がってゆく。

 曲名は知らなくとも、聴いたことがあるという人は多いだろう。「朝」(「朝の気分」と称されることもある)と題されたこの曲はモロッコでの朝を表現しているのだが、のんびりした感じの温かさが肌に伝わってくるような感覚は、いまの時期のスペインを思わせる。

 萌美がゆっくりと奏でる音が、聴衆を一瞬で魅了する。
 審査員たちは、予選のときから思っていた。萌美には技術以外のなにかがある。それがどういうものなのかはわからないが、彼女は他の出場者が持たないものを備えている。

 それは萌美独自の才能といってよい。感性の扉が開かれた萌美は、会場にいる人々を己の世界に優しく誘ってゆく。

 決勝に進んだ各国代表者たちは目を丸くしながら、萌美の演奏に聴き入っている。萌美は難しい曲を奏でているわけではないのだが、彼らの出せない音を響かせているのだ。

 なんとも心地よい、癒しの空間にいるようだ。他の代表者たちは決勝での演奏が終わり、緊張から解放されたこともあるだろうが、萌美の音はそんな彼らにまたとない安らぎを与えてくれる。

 この空間にいつまでも浸っていたいという気分のまま、萌美の演奏は第2曲「オーセの死」へ移る。



 悲しみに満ちた旋律が、会場を漂う。ペール・ギュントの物語では、彼の母親が寿命を迎えるシーンで流れる曲だ。

 陰鬱な雰囲気におおわれる審査員たちは、予選がはじまるまえの暗い気分を思い出す。

 今年の大会は、注目に値するほどの演奏者はいない。このコンクールが開始されて以来の、レベルの低い大会になりそうだ……と、勝手にそのように評価した彼らの、会場へ到着するまでの足取りは重く、また予選がはじまるまでの時間が長く感じたものだ。

 そんな審査員の前評判を真に受け、信じて疑わない観客たちもがっかりしていた。まあ、せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてみようと期待感がまったくない想いで会場に足を運んだのである。

 そういう彼らの心情とこの曲の叙情的な旋律が、やけにマッチする。



 萌美の演奏は、次なる曲へ移行する。

 第3曲目は「アニトラの踊り」だ。ペール・ギュントをとりこにして全財産を奪う、村の酋長の娘アニトラ。
 審査員たちの心に浮かぶのは、ペール・ギュントを魅了するアニトラの妖艶な踊りではなかった。

 今大会の予選がはじまると、審査員も観客たちも、各国を代表する出場者のレベルの高さに驚かされた。突出して目立つ演奏者はいないが、平均的には昨年のレベルを上回り、熾烈な優勝争いとなることが予想された。

 審査員が雑誌のインタビューで語った前評判は、取り消すことができない。どうやって自分の間違った評価をつくろえばよいのか。
 それで悩み焦っている己の姿が、彼ら自身の心に映ってくる。

 批判精神が旺盛な観客は「審査員の前評判と、ちがうではないか」という戸惑いを覚え、困惑している自分の様子が目に浮かぶ。

 ──これは……まさか……

 ようやく気づいた。萌美が表現しようとしているのは、ペール・ギュントの物語ではない。

 彼女の演奏は、この大会における彼らの想いを正確に再現しているのだ。
 それがわかったとき、みんなはゾッとした。

 ──こ、この日本代表の演奏者は、わたしの心が読めるのか?

 萌美は、彼らの心を読んでいるわけではない。

 彼女が創る世界は、音楽を聴く者の想いを鏡のように反射して本人に認識させる。そういう世界なのだ。
 自分が想っていることを省みることなく、ひたすら垂れ流してきた人間にとっては、恐怖の世界に他ならない。

 審査員も観客たちも、第1曲目から萌美の創る世界へ無警戒で近づき、足をふみ入れていた。
 大会初日の天気が晴れであることが、この世界を創る萌美にとっては絶対条件だったのである。

 萌美の心の奥にある感性の扉は二つ目が開かれ、さらに三つ目までが開かれている。ここまでくると、もう後戻りはできない。

 そして、四つ目の扉が静かに開かれる。彼らにとっては地獄である萌美の世界に、射程内に収まっているみんなは、一気に引きずり込まれた。



 萌美が最後に奏でる曲は、第4曲「山の魔王の宮殿にて」。

 どうにか聴きとれるという低音の旋律が、会場にいる人々を潮が満ちるように徐々に網羅もうらする。

 序奏の旋律は、一度聴けばその胸に爪痕つめあとが深く刻まれるというほどの印象を与える。この曲の演奏では、それが何度も繰り返される。
 小学生だった萌美がこの曲をはじめて聴いたとき、変わった曲だと思って飽きるほど練習したものだ。

 ゆっくりとした音の響きにともなって審査員たちが引きずり込まれたのは、暗闇におおわれた真っ暗な世界。

 背後に不気味な気配を感じた彼らは、後ろをふり返る。暗闇の奥から声がきこえる。それは他の誰でもない、自分自身の心の声。

「今年の出場者は、小粒ぞろいで面白くなさそうだ」
「決勝も、例年にないレベルの低い優勝争いになりそうだな」
「才能のある演奏者は、誰もいないようだ。つまらない演奏会を聴かされそうだ。一人ぐらいは、まともな演奏が期待できないかな」
「せっかく手に入れたチケットだから、聴くだけ聴いてやるか」

 スペインに集った各国代表の若き演奏者たちを、上から目線で見下す不遜で傲慢な想い。それが魔王を眠りから目覚めさせる。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

切り札の男

古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。 ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。 理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。 そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。 その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。 彼はその挑発に乗ってしまうが…… 小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

秘密のキス

廣瀬純一
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

女豹の恩讐『死闘!兄と妹。禁断のシュートマッチ』

コバひろ
大衆娯楽
前作 “雌蛇の罠『異性異種格闘技戦』男と女、宿命のシュートマッチ” (全20話)の続編。 https://www.alphapolis.co.jp/novel/329235482/129667563/episode/6150211 男子キックボクサーを倒したNOZOMIのその後は? そんな女子格闘家NOZOMIに敗れ命まで落とした父の仇を討つべく、兄と娘の青春、家族愛。 格闘技を通して、ジェンダーフリー、ジェンダーレスとは?を描きたいと思います。

亡き少女のためのベルガマスク

二階堂シア
青春
春若 杏梨(はるわか あんり)は聖ヴェリーヌ高等学校音楽科ピアノ専攻の1年生。 彼女はある日を境に、人前でピアノが弾けなくなってしまった。 風紀の厳しい高校で、髪を金色に染めて校則を破る杏梨は、クラスでも浮いている存在だ。 何度注意しても全く聞き入れる様子のない杏梨に業を煮やした教師は、彼女に『一ヶ月礼拝堂で祈りを捧げる』よう反省を促す。 仕方なく訪れた礼拝堂の告解室には、謎の男がいて……? 互いに顔は見ずに会話を交わすだけの、一ヶ月限定の不思議な関係が始まる。 これは、彼女の『再生』と彼の『贖罪』の物語。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

善意一〇〇%の金髪ギャル~彼女を交通事故から救ったら感謝とか同情とか罪悪感を抱えられ俺にかまってくるようになりました~

みずがめ
青春
高校入学前、俺は車に撥ねられそうになっている女性を助けた。そこまではよかったけど、代わりに俺が交通事故に遭ってしまい入院するはめになった。 入学式当日。未だに入院中の俺は高校生活のスタートダッシュに失敗したと落ち込む。 そこへ現れたのは縁もゆかりもないと思っていた金髪ギャルであった。しかし彼女こそ俺が事故から助けた少女だったのだ。 「助けてくれた、お礼……したいし」 苦手な金髪ギャルだろうが、恥じらう乙女の前に健全な男子が逆らえるわけがなかった。 こうして始まった俺と金髪ギャルの関係は、なんやかんやあって(本編にて)ハッピーエンドへと向かっていくのであった。 表紙絵は、あっきコタロウさんのフリーイラストです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...