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◇ 正也の秘密
サラブレッド
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ピアノコンクールの全国大会も終わり、八月となった現在、いうまでもなく学校は夏休みに入っている。
いまの萌美は、ピアノを弾くのが本当に楽しい。 正也からアドバイスを受けて以降、音楽に対する考え方が、ガラリと変わった。
音楽は、みんなを競わせるために作られたものではない。正也から教えられたことが、萌美から競争心という呪縛を解きはなった。
萌美は心が軽くなった分、音楽を楽しむ余裕が生まれた。
正也から伝えられた「音楽を想う、感じる、楽しむという心が、技術を磨くんだよ」という、あの言葉。話を聞いた当初はひどく戸惑ったが、いまでは、だんだんと理解できるようになってきたと萌美は自分でも思う。
コンクール本選での演奏が、正也の教えが正しかったことを証明している。
──もっと、音楽における自分の感性を磨きたい
正也にはまだまだ遠く及ばない自分だとわかっている萌美だが、追いつくことが不可能だとしても、少しでも近づきたい。
正也の演奏を思い浮かべながら、そういう考えを胸に抱いて日々を過ごす萌美だった。
ある日、萌美はCDショップに向かって歩を進める。彼女が目指す店は、デパートの四階にある。
屋内に入ってエスカレーターにのると、四階に上がるまえに、服を見たくなった。三階の婦人服売り場に立ちより、あれこれと物色しながら、萌美は思う。
──この服を着れば、正也先輩はかわいいといってくれるかな?
いつの間にか、正也のことが萌美の頭の中を占領している。ここへ来た本来の目的を思い出すまで、しばらく時間がかかった。
エスカレーターにのった萌美が、四階のフロアに到達する直前だった。
萌美の前にいた女性がなにを思ったのか、四階のフロアに上がったところで立ち止まる。正也のことで頭がいっぱいで、前を見ているようで見ていない萌美は、その女性にぶつかった。
「!」
完全にバランスを崩し、「落ちるっ」と思ったとき、後ろにいた人が萌美の背中を支える。
萌美はあわててフロアに上がり、後ろの人とぶつからないように距離をとった。
自分を支えてくれた人に、お礼を述べようとしてふり向いた萌美は、その人物を見て顔をひきつらせる。
長髪で背が高く、異様に目つきの鋭い若い男が、萌美の前に立っている。
「ご、ごめんなさいっ」
恐怖を感じた萌美は、思わず謝った。すると、彼の口から意外な言葉が出てきた。
「あれ? 君は、確か……」
低い声で話す彼は、萌美のことを知っているらしい。
萌美が呆然としていると、彼の後ろから、もう一人の男があらわれる。角刈りの頭に、ガッチリとしたその身体は、見覚えがある。
「ん? 君は、本屋の近くでルミちゃんといっしょにいた、あの子か?」
以前、本屋の付近で、ルミが他校の生徒に絡まれているのを助けようとしたとき、いつの間にか萌美の後ろにいた先輩たちだ。
当時、正也といっしょだった二人は、正也のことをよく知っている友だちではないかと萌美は思う。
考えてみれば、この状況は、自分の知らない正也のことを訊く願ってもないチャンスである。萌美は正也について知りたいことが、いっぱいあった。
「あ、あの、その、あの、まま正也せんぴゃい……」
焦るあまり、まともな日本語が口から出てこない。角刈りの先輩が、萌美の肩にポンと手をかけて微笑んだ。
「はい、落ち着こうね」
萌美は、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、真っ赤になってうなだれる。
長髪で細身の先輩が、低い声を響かせる。
「立ち話もなんだから、上の喫茶店に行くか」
デパートの五階に喫茶店がある。三人は五階の喫茶店に入り、萌美はオレンジジュースを、正也の親友たちはアイスコーヒーを注文する。
先ほど大失態を演じた萌美は、テーブルをはさんで向かい合って座る先輩たちに、話を切り出そうにも躊躇してしまう。
なにも話せずにいると、しばらくして低い声が、ふたたび萌美にとどく。
「エスカレーターにのったときは、ちゃんと前を見てなきゃダメだよ」
「は、はい、ごめんなさい」
異様に目つきの鋭い彼だが、その目の奥には優しさがうかがえる。
いろいろと誤解されるのではないかと思われる彼だが、サラッとした長髪に細身で長身の彼は、誤解さえ受けなければ、女子からかなりモテるだろう。
そんな彼のひと言で、萌美はいくぶん楽になった。正也のことをストレートに訊くまえに、この二人について話をふってみる。
「先輩たちも、楽器を演奏するんですか?」
角刈りの先輩が答える。
「いや、俺は、楽器は全然ダメだけど」
彼はそういって、右手の親指を自分の右側に座る相方に向ける。
「ユウは、ベースを弾くんだ」
長髪で目つきの鋭い先輩が「ユウ」と呼ばれることを、萌美は覚えた。
そのユウが、ボソッとつぶやく。
「エレキだけどな」
ユウが弾くのはエレキベースで、クラシックとはかかわりがありそうにない。
その彼は、右手の人差し指を、自分の左側に座る友人に向ける。
「ヒロは楽器はやらないが、アニソンオタクなんだ」
もう一人の「ヒロ」と呼ばれる先輩は、アニメの歌をこよなく愛する男である。
萌美の目が点になる。角刈りでガッチリとした体格は、どう考えても体育会系で、アニソンオタクといわれても全然ピンとこない。
いずれにしても、萌美はこの二人が正也と結びつく理由が、さっぱりわからない。
思考を切り替える萌美は、そろそろ本題に入ろうとする。
「あの、正也先輩は、なぜピアノがきらいなんですか」
「……なんでかなあ」
適当に、はぐらかされる。
「正也先輩は、いつもどんな楽器を弾いているんですか」
「……さあ」
まともに答えてくれない。思えば、正也の妹のルミに訊いても、言葉を濁して教えてくれなかったのだ。
ヒロが、その目に憂いを帯びた残念な表情を、萌美に見せる。
「悪いが、マサとの友情を壊すことはできない」
訊きたいことは山ほどあった萌美だが、そのひと言に、あきらめるしかなかった。
──自分はまだ正也先輩に、そこまで信用されてはいないのだ
正也と自分との間には、いまだに分厚い壁があるという現実を思い知らされたとき、萌美の心は悲しみにおおわれる。
がっかりして、うつむいている萌美に、ヒロから目の覚めるような言葉が投げかけられた。
「あいつの両親のことは、知ってるかい?」
萌美は、跳ねるように顔を上げる。その目には好奇心が宿り、キラキラと輝いている。
ヒロがユウに顔を向けて、確認をとる。
「マサの両親のことなら、話してもいいよな?」
「そうだな。この子なら、いいだろう」
萌美は、まったく予想もしなかった正也の両親の話を、ヒロから聞かされる。
その間、萌美は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたまま、固まっていた。
──ま、正也先輩は……ただの天才じゃ……ない
すぐさま「サラブレッド」という言葉が頭に浮かんだ萌美だった。
いまの萌美は、ピアノを弾くのが本当に楽しい。 正也からアドバイスを受けて以降、音楽に対する考え方が、ガラリと変わった。
音楽は、みんなを競わせるために作られたものではない。正也から教えられたことが、萌美から競争心という呪縛を解きはなった。
萌美は心が軽くなった分、音楽を楽しむ余裕が生まれた。
正也から伝えられた「音楽を想う、感じる、楽しむという心が、技術を磨くんだよ」という、あの言葉。話を聞いた当初はひどく戸惑ったが、いまでは、だんだんと理解できるようになってきたと萌美は自分でも思う。
コンクール本選での演奏が、正也の教えが正しかったことを証明している。
──もっと、音楽における自分の感性を磨きたい
正也にはまだまだ遠く及ばない自分だとわかっている萌美だが、追いつくことが不可能だとしても、少しでも近づきたい。
正也の演奏を思い浮かべながら、そういう考えを胸に抱いて日々を過ごす萌美だった。
ある日、萌美はCDショップに向かって歩を進める。彼女が目指す店は、デパートの四階にある。
屋内に入ってエスカレーターにのると、四階に上がるまえに、服を見たくなった。三階の婦人服売り場に立ちより、あれこれと物色しながら、萌美は思う。
──この服を着れば、正也先輩はかわいいといってくれるかな?
いつの間にか、正也のことが萌美の頭の中を占領している。ここへ来た本来の目的を思い出すまで、しばらく時間がかかった。
エスカレーターにのった萌美が、四階のフロアに到達する直前だった。
萌美の前にいた女性がなにを思ったのか、四階のフロアに上がったところで立ち止まる。正也のことで頭がいっぱいで、前を見ているようで見ていない萌美は、その女性にぶつかった。
「!」
完全にバランスを崩し、「落ちるっ」と思ったとき、後ろにいた人が萌美の背中を支える。
萌美はあわててフロアに上がり、後ろの人とぶつからないように距離をとった。
自分を支えてくれた人に、お礼を述べようとしてふり向いた萌美は、その人物を見て顔をひきつらせる。
長髪で背が高く、異様に目つきの鋭い若い男が、萌美の前に立っている。
「ご、ごめんなさいっ」
恐怖を感じた萌美は、思わず謝った。すると、彼の口から意外な言葉が出てきた。
「あれ? 君は、確か……」
低い声で話す彼は、萌美のことを知っているらしい。
萌美が呆然としていると、彼の後ろから、もう一人の男があらわれる。角刈りの頭に、ガッチリとしたその身体は、見覚えがある。
「ん? 君は、本屋の近くでルミちゃんといっしょにいた、あの子か?」
以前、本屋の付近で、ルミが他校の生徒に絡まれているのを助けようとしたとき、いつの間にか萌美の後ろにいた先輩たちだ。
当時、正也といっしょだった二人は、正也のことをよく知っている友だちではないかと萌美は思う。
考えてみれば、この状況は、自分の知らない正也のことを訊く願ってもないチャンスである。萌美は正也について知りたいことが、いっぱいあった。
「あ、あの、その、あの、まま正也せんぴゃい……」
焦るあまり、まともな日本語が口から出てこない。角刈りの先輩が、萌美の肩にポンと手をかけて微笑んだ。
「はい、落ち着こうね」
萌美は、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、真っ赤になってうなだれる。
長髪で細身の先輩が、低い声を響かせる。
「立ち話もなんだから、上の喫茶店に行くか」
デパートの五階に喫茶店がある。三人は五階の喫茶店に入り、萌美はオレンジジュースを、正也の親友たちはアイスコーヒーを注文する。
先ほど大失態を演じた萌美は、テーブルをはさんで向かい合って座る先輩たちに、話を切り出そうにも躊躇してしまう。
なにも話せずにいると、しばらくして低い声が、ふたたび萌美にとどく。
「エスカレーターにのったときは、ちゃんと前を見てなきゃダメだよ」
「は、はい、ごめんなさい」
異様に目つきの鋭い彼だが、その目の奥には優しさがうかがえる。
いろいろと誤解されるのではないかと思われる彼だが、サラッとした長髪に細身で長身の彼は、誤解さえ受けなければ、女子からかなりモテるだろう。
そんな彼のひと言で、萌美はいくぶん楽になった。正也のことをストレートに訊くまえに、この二人について話をふってみる。
「先輩たちも、楽器を演奏するんですか?」
角刈りの先輩が答える。
「いや、俺は、楽器は全然ダメだけど」
彼はそういって、右手の親指を自分の右側に座る相方に向ける。
「ユウは、ベースを弾くんだ」
長髪で目つきの鋭い先輩が「ユウ」と呼ばれることを、萌美は覚えた。
そのユウが、ボソッとつぶやく。
「エレキだけどな」
ユウが弾くのはエレキベースで、クラシックとはかかわりがありそうにない。
その彼は、右手の人差し指を、自分の左側に座る友人に向ける。
「ヒロは楽器はやらないが、アニソンオタクなんだ」
もう一人の「ヒロ」と呼ばれる先輩は、アニメの歌をこよなく愛する男である。
萌美の目が点になる。角刈りでガッチリとした体格は、どう考えても体育会系で、アニソンオタクといわれても全然ピンとこない。
いずれにしても、萌美はこの二人が正也と結びつく理由が、さっぱりわからない。
思考を切り替える萌美は、そろそろ本題に入ろうとする。
「あの、正也先輩は、なぜピアノがきらいなんですか」
「……なんでかなあ」
適当に、はぐらかされる。
「正也先輩は、いつもどんな楽器を弾いているんですか」
「……さあ」
まともに答えてくれない。思えば、正也の妹のルミに訊いても、言葉を濁して教えてくれなかったのだ。
ヒロが、その目に憂いを帯びた残念な表情を、萌美に見せる。
「悪いが、マサとの友情を壊すことはできない」
訊きたいことは山ほどあった萌美だが、そのひと言に、あきらめるしかなかった。
──自分はまだ正也先輩に、そこまで信用されてはいないのだ
正也と自分との間には、いまだに分厚い壁があるという現実を思い知らされたとき、萌美の心は悲しみにおおわれる。
がっかりして、うつむいている萌美に、ヒロから目の覚めるような言葉が投げかけられた。
「あいつの両親のことは、知ってるかい?」
萌美は、跳ねるように顔を上げる。その目には好奇心が宿り、キラキラと輝いている。
ヒロがユウに顔を向けて、確認をとる。
「マサの両親のことなら、話してもいいよな?」
「そうだな。この子なら、いいだろう」
萌美は、まったく予想もしなかった正也の両親の話を、ヒロから聞かされる。
その間、萌美は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたまま、固まっていた。
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