翔んだディスコード

左門正利

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◇ 正也の演奏ふたたび

次元のちがう実力

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 音楽室に到着したみんなが、ぞろぞろと室内に入る。 

 五十嵐が、条万学園からやって来た客たちを導いていると、正也だけが真っ直ぐにピアノに向かって行く。 
 ふと、須藤に感じるものがあった。

 ──おや?

 正也の雰囲気が一変する。いままで抱いていた頼りなさそうな感じが、完全に消え失せている。 
 逆に満ちあふれた自信が、その姿から伝わってくる。 

 ピアノの前まできた正也は、静かに椅子に座る。 
 すると──正也の顔が変わる。それは、顔の表情が変わるというよりも、顔そのものが変わるといった方がよいぐらい、彼の顔つきはガラリと凛々しく変わるのだった。 

 みんなは、不思議なものを見るかのように呆気にとられる。
 須藤は、年甲斐もなくドキッとする。また彼女は、ピアノの前に座る正也の、その姿勢でわかる。 

 ──レベルが……全然ちがう……

 正也は高校生のレベルをはるかに超えた地点に、すでに到達している。 
 須藤は、まだ演奏がはじまっていないにもかかわらず、まだ見ぬ正也の実力を肌で感じるのだった。 

 須藤と同様に、早弥香も直感する。 

 ──この人、できるっ

 それは、天才同士だけがわかりあえる、ある種の感覚というべきか。 
 もうひとつ早弥香が感じたのは、正也は自分の求めているものを秘めている。いまの自分が見失っている、とても大事なものを。
 早弥香の心が、そのことを彼女自身に教えている。 

 正也は、みんなに「ちょっと練習しますね」というと、その指がピアノの鍵盤に触れる。 
 彼の指が奏でる曲は、例の『インベンションとシンフォニア』だ。ピアノから流れてくる音は、とても優しく滑らかに響き、その音色は心の奥にまで浸透してくる。 

 萌美は、条万学園から来たみんなの方に、ちらっと視線を向ける。須藤と早弥香は、ただただ呆然となり、下級生たちは顔をひきつらせて青くなっている。 
 彼女たちのプライドが、跡形もなく粉砕されているのが、よくわかる。

 単なる練習曲だと思っていたこの曲が、正也が演奏すると、至高の芸術にまで昇華された名曲に聴こえるのだ。 
 条万学園の下級生たちは、痛感せずにはいられない。 

 ──わたしとくらべて、こんなにもちがうのか!

 正也の演奏は、やはり萌美の演奏と同質である。須藤と早弥香の思ったとおりだ。 

 しかし同質とはいっても、正也のレベルは段違いというほど、萌美よりもずっと先へ進んでいる。
 ピアノから出てくる音が、全然ちがう。
 厳密にいえば、同じピアノであれば誰が弾いたところで、その音質は変わらない。だが、演奏する人物によって音の感じがちがって聴こえるのは、めずらしいことではない。

 正也は、自分が奏でる音のひとつひとつを、とても大切に想いながら大事に扱っている。正也の演奏からは、そういうことがひしひしと伝わってくる。

 このことは、条万学園の下級生たちにとって、非常に大きなショックを与えていた。正也は、彼女たちが出せない音を奏でている。 

 技術的な面においても、下級生たちは正也に遠く及ばない。 
 彼女たちは、確かに才能がある。だが、才能あるがゆえに、自分たちと正也とのちがいをまざまざと思い知らされるのだ。 

 不思議に思うのは、これほどの演奏ができるのに、なぜコンクールにエントリーしなかったのか? 
 みんなには理解できなかった。 

 別の意味で理解が追いつかず、頭が混乱しているのは、閃葉高校の音楽教師である五十嵐だ。
 正也に音楽という授業を教えて三年目になるが、彼女は正也がピアノを弾けるとは、これっぽっちも思っていなかった。しかも、正也は明らかに、音楽教師の自分よりもレベルが格段に上である。 
 五十嵐はずっと頭を混乱させたまま、正也の演奏に聴き入っているのだった。 

 やがて正也の指が、その動きを静かに止める。指ならしの終わった正也は、これから演奏する曲をみんなに告げるのだった。 

「じゃあ、演奏に入りますね。曲は」

 みんなはドキドキしながら、正也の声に集中する。
 当の正也は、まったく緊張感のなさそうな声を響かせるのだった。 

「バッハの『イギリス組曲第3番プレリュード』」

 曲名をきいたルミは、ブスッとする。萌美のときもイギリス組曲だったからだ。

 ──他の曲にすればいいのにっ

 ルミはそう思うのだが、萌美のときは第2番であり、今回は第3番だ。この曲は、イギリス組曲のなかでは演奏されることの多い曲である。 
 とはいっても、実際にピアニストたちの多くが演奏するバッハの曲といえば、やはり『平均律』だろう。
 それにくらべると、イギリス組曲第3番は、平均律の陰に隠れるような曲といえるかもしれない。 

 緊張感の漂う空気のなかを、正也の奏でるピアノの音が唐突になだれこむ。
 メリハリのあるリズミカルな響きが、先陣をきるように音楽室にひろがる。加えて、メロディアスな音色が交叉する主題が、曲を聴く者の心を瞬時にとらえる。

 正也から生命を吹きこまれた音が、正也が想う曲の世界を創ってゆく。生徒たちがはじめて聴く正也の演奏は、みんなの胸の奥に、感動の芽を呼び覚ますように浸透してゆく。

 条万学園の下級生たちは、曲の主題を聴いた時点ですでに心を揺さぶられ、その目に涙をためている。
 これ以上、正也の奏でる音を受け入れてしまうと、一度こぼれ落ちた涙は止まらなくなるにちがいない。彼女たちは、必死で心のドアを閉じようとする。

 しかし

 ──ダメ……がまんできない

 彼女たちは、こらえきれずに心のドアを開けてしまう。あとはもう、自分で思ったとおりに、その顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らす女子生徒たちだった。

 高校生にしては、やや速いと感じられる正也の演奏は、思いのほか聴きやすい。
 全体的に安定感がある。聴こえてくる音の速さ、大きさに、違和感を覚えるような乱れがない。
 要所要所で駆使されるアーティキュレーションが、音楽を存分に語らせる。

 かの有名な指揮者であったニコラス・アーノンクールは、こう話している。

「バロック音楽は語り、ロマン派の音楽は描く」

 正也は、偉大なる指揮者の言葉を証明するかのように、自分の演奏を表現している。

 須藤は思う。正也の演奏は、心に感じるものが全然ちがう。
 ふつう、一般にピアノを学ぶ人が必死で練習して自分のものにするのは、まず「技術」だろう。
 正也の場合、高校生ばなれした己の技術でさえ、それはあくまで「あとからついてくるモノ」なのではないか?

 須藤には、正也が技術的なことを重視して、練習してきたとは思えない。一般の人たちとは、まったく異なる音楽性が、正也の演奏からあふれ出てくる。
 それは、音楽を教える立場にある者ほど、敏感に感じられるものだ。

 ──技術以上に大切なものを、彼は磨き続けてきたのではないか?

 須藤が思うことを、正也の演奏は訴えている。

 曲の主題部が、主調から平行長調へ移り、さらに属調へ、そして主調へと循環する。 
 正也が生みだす音は、曲調が変わるたびに表情を変えながら、異なる世界を創り続ける。それが、なんの違和感もなくスムーズに切り替わるのは、正也の演奏に淀みがないことを証明している。 

 曲を聴くみんなは、感動の想いが絶えない。技術もさることながら、正也がもっとも大切に思っているなにかが、ひたすら正也の演奏を魅了し続ける。 
 須藤の生徒たちに、同じように演奏しろと命じたところで、不可能だろう。

 ──格が……いや、次元がちがうというべきか

 須藤は目を丸くしながら、正也の実力に感嘆するほかはなかった。 

 正也の創る音の世界は、彼独特の斬新な世界であり、同時にどこか懐かしい世界でもある。
 いままで味わったことのない、不思議な感覚に浸っている早弥香は、胸の奥にキラリと輝く光を感じた。

 早弥香は、心の目を光の方に転じる。それは、早弥香のもとを離れてしまい、闇のなかに沈んだと思われた希望の光。 

 光のなかにあるのは

 音楽に対する無限の可能性。
 果てしない喜び。 
 そして、限りない愛しさ。 

 ──見つけた

 早弥香が求めていたものが、ここにあった。 

 早弥香が失っていたものは、いま見つけた光のなかで、静かに眠っている。 
 早弥香は、光に向かって心の手をのばす。これこそが、自分の求めていたもの。自分にとって、なによりも大事なもの。

 早弥香が手にした希望の光が、彼女を優しく包んでゆく。
 光の中心にあるそれは、ゆっくりと目を覚まし、早弥香に微笑んだ。

 音楽への愛──自ら手離して見失っていた、自分にとって、もっとも大切なもの。

 ──わたしは、音楽が好き。音楽を……愛してる……

 忘れていた音楽への愛が、一気によみがえる。失ったものをとりもどした早弥香の目から、涙がこぼれた。 

 正也が演奏を開始して三分半の時間が過ぎたとき、正也が創る曲の世界は静かに終わりを迎える。 

 山坂教頭は目から鼻から涙を流し、感動の余韻に浸っている。音楽教師の五十嵐は、生徒たちに負けないほど、涙で顔がぐしゃぐしゃだ。 
 誰もが、その目を涙で潤ませているなかで、ルミだけが爽やかな顔をしている。 

 主役の正也だが、彼は素晴らしい演奏とは裏腹に、なにか不満気な雰囲気をたたえていた。 

 須藤も早弥香も腑に落ちない。

 ──なぜ?

 彼女たちは、そんな正也を不思議に思うのだった。 



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