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◇ 闇に沈む天才
復活の鍵
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須藤の指導を受けて以降、早弥香は徐々に調子を回復させてゆく。といっても、早弥香本来の実力には、まだ程遠い状態にある。
彼女は、もう萌美の幻影に脅えることはないのだが、まだなにかが引っかかっている様子を感じさせる。
須藤の顔に、焦りの色がにじみ出る。六月もそろそろ終わろうかというのに、早弥香は本来の調子をとりもどす気配が、まったく見られない。
全国大会は七月の終わりに行われるのだが、日程に目を向ければ、あと一ヶ月を切っている。
──これでは、間に合わないかもしれない
過ぎ行く日々が、須藤の焦りを募らせてゆく。
須藤の指導により、早弥香がこれ以上、泥沼に沈むのを防いだのは良かったが、思うように調子が上がらない。まだまだ、満足な演奏ができる状態には至らない。須藤は頭を痛めていた。
それは早弥香も同様だった。早弥香自身、いま以上になんとかしないと、とても全国大会には間に合わないと痛感している。
二人そろって同じ悩みを抱える彼女たちは、もうひとつ同じことを気にかけていた。それは、二人とも「単なる噂」だと信じようとしている正也の存在である。
須藤も早弥香も、正也には会ったこともなく名前さえ知らない。だが、まったく素性の知れない彼こそが、早弥香が完全に復活するための「カギ」をにぎるのではないかと、二人とも直感するのだ。
萌美がコンクールの本選で披露した、あの素晴らしい演奏は、彼が関係しているのではないか?
彼女たちは、そう思うのである。
ある日の昼休みに、早弥香は須藤のところへ相談に行く。妹の世梨香から、思わぬ情報を得たのだ。
正也の名前がわかったのである。
これまで、まったく素性の知れなかった正也の存在は、早弥香の深層心理にまで足をふみ入れていた。
無意識に考えてしまう正也の影が、早弥香が本来の調子にもどるのを妨げ続けていた。
ある日、早弥香が自宅に帰ったとき、彼女はふと妹の世梨香にたずねた。
「世梨香ちゃん、仲田さんよりピアノが上手な人の名前、わかる?」
世梨香は眉をよせて首をかしげながら「わからないなあ」と答えた。
しかし、姉がスランプにみまわれ、これまでにないほど悩んでいることを知っている世梨香である。彼女は姉のために一肌脱ごうと、行動に移るのだった。
世梨香は、まず早弥香がスランプに陥った原因を突き止めようとした。なんにせよ、原因さえわかれば、あとは難しく考えなくてよいのではないか。
姉の様子がおかしいと感じたのは、コンクールの本選以降だ。
世梨香は、自分の知っている早弥香の友人を訪ね、コンクール本選のもようを聞き出した。
「本当に、すごかったよ」
会場に足をはこんでいた彼女の話に、世梨香の目が点になる。
本選は、早弥香と萌美の熾烈な戦いとなり、審査員たちもどちらを優勝させるか、非常に悩んだらしい。結果発表の時刻は、予定より三〇分も過ぎたという。
世梨香は、まさか自分と同じクラスの萌美がそれほどの実力者だとは、これっぽっちも思っていなかった。
ふと、コンクールが終わった日に、早弥香と交わした会話を思い出す。そのとたん、世梨香は顔が真っ青になるほど愕然となる。
姉がここまで苦しんでいるのは、他の誰でもない自分が原因だったのではないか?
──馬鹿か、わたしはっ!
世梨香は心の中で自分に叫んだ。また、姉が考えていることが、世梨香にもわかってきた。
世梨香の記憶が二ヶ月前にさかのぼる。あの日、放課後の音楽室でのぞき見た、萌美のそばでピアノを弾いていた男子生徒。なんとしてでも、その彼を探し出さないといけない。必ず見つけるのだと、世梨香は決心するのだった。
正也の名前を聞くには、考えるまでもなく萌美に直接たずねるのがはやい。しかし、萌美とはろくに話したこともなく、仲が良いともいえない世梨香である。
なにより萌美にとって、自分の姉はライバルであろう。はっきりいって、萌美には訊きにくい。
そこで世梨香は、ときどき萌美にくっついている小柄な女の子に目をつけた。
──あの子は、確かあの日もいっしょに、音楽室に……
世梨香は、その女の子が一年生の弓友ルミであることを知る。
さらに、ルミには三年生の兄がいることを突き止める。
──もしや、あの子のお兄さんが?
やがて世梨香は、正也の名前をどうにか調べあげるのだった。
ただ、あの日、ピアノを弾いていた男子が正也であるとは断言できない。顔は見ていないのだ。
しかし正也でないとすると、萌美とルミがつながる理由がわからない。
世梨香は自分のカンを信じて、弓友正也の名前を姉に教えたのだった。
条万学園の職員室では、須藤が早弥香の話に、じっと耳をかたむけていた。
「一度でいいので、弓友正也という人の演奏を聴きたいのです」
「………」
須藤は慎重になる。早弥香はまだ本調子でないとはいえ、徐々にではあるが確実に回復してきているのである。
ここまでくるのに、須藤も早弥香も本当に必死だった。
それなのに、もし弓友正也という他校の生徒の演奏を聴いて、ふたたび立ち直れないほどのショックを受けたときは……。
そう考えると、須藤はどうしても慎重にならざるを得なかった。
どうするか悩んでいる彼女に、早弥香は熱心にすがってくる。
本当は、須藤も正也に強く興味をもっている。早弥香以上に、正也の演奏を聴いてみたいと思う彼女である。
しかし、ヘタをすると取り返しのつかない事態になりかねない。
須藤は、なかなか判断しかねる。だが、このままでは、早弥香は本来の自分をとりもどせずに終わるかもしれない。
それもまた事実だと思う須藤である。
彼女は考えぬいたあげく、もしものときは自分の教師生命をかける覚悟で、英断を下すのだった。
須藤は早弥香に告げる。
「わかりました。閃葉高校へ連絡してみましょう」
早弥香の顔から、笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、先生」
礼をいう早弥香は、須藤の覚悟を知ることもなく職員室をあとにする。
須藤にすれば、どういう結果になるか非常に不安なのだが、早弥香の復活を信じて事に当たるしかない。
閃葉高校の連絡先を調べながら、そんなことを考えていた須藤は、緊張した面持ちで電話の受話器をとる。
しかし──正也の性格をまったく知らない須藤は、初っぱなから壁にぶち当たるのだった。
彼女は、もう萌美の幻影に脅えることはないのだが、まだなにかが引っかかっている様子を感じさせる。
須藤の顔に、焦りの色がにじみ出る。六月もそろそろ終わろうかというのに、早弥香は本来の調子をとりもどす気配が、まったく見られない。
全国大会は七月の終わりに行われるのだが、日程に目を向ければ、あと一ヶ月を切っている。
──これでは、間に合わないかもしれない
過ぎ行く日々が、須藤の焦りを募らせてゆく。
須藤の指導により、早弥香がこれ以上、泥沼に沈むのを防いだのは良かったが、思うように調子が上がらない。まだまだ、満足な演奏ができる状態には至らない。須藤は頭を痛めていた。
それは早弥香も同様だった。早弥香自身、いま以上になんとかしないと、とても全国大会には間に合わないと痛感している。
二人そろって同じ悩みを抱える彼女たちは、もうひとつ同じことを気にかけていた。それは、二人とも「単なる噂」だと信じようとしている正也の存在である。
須藤も早弥香も、正也には会ったこともなく名前さえ知らない。だが、まったく素性の知れない彼こそが、早弥香が完全に復活するための「カギ」をにぎるのではないかと、二人とも直感するのだ。
萌美がコンクールの本選で披露した、あの素晴らしい演奏は、彼が関係しているのではないか?
彼女たちは、そう思うのである。
ある日の昼休みに、早弥香は須藤のところへ相談に行く。妹の世梨香から、思わぬ情報を得たのだ。
正也の名前がわかったのである。
これまで、まったく素性の知れなかった正也の存在は、早弥香の深層心理にまで足をふみ入れていた。
無意識に考えてしまう正也の影が、早弥香が本来の調子にもどるのを妨げ続けていた。
ある日、早弥香が自宅に帰ったとき、彼女はふと妹の世梨香にたずねた。
「世梨香ちゃん、仲田さんよりピアノが上手な人の名前、わかる?」
世梨香は眉をよせて首をかしげながら「わからないなあ」と答えた。
しかし、姉がスランプにみまわれ、これまでにないほど悩んでいることを知っている世梨香である。彼女は姉のために一肌脱ごうと、行動に移るのだった。
世梨香は、まず早弥香がスランプに陥った原因を突き止めようとした。なんにせよ、原因さえわかれば、あとは難しく考えなくてよいのではないか。
姉の様子がおかしいと感じたのは、コンクールの本選以降だ。
世梨香は、自分の知っている早弥香の友人を訪ね、コンクール本選のもようを聞き出した。
「本当に、すごかったよ」
会場に足をはこんでいた彼女の話に、世梨香の目が点になる。
本選は、早弥香と萌美の熾烈な戦いとなり、審査員たちもどちらを優勝させるか、非常に悩んだらしい。結果発表の時刻は、予定より三〇分も過ぎたという。
世梨香は、まさか自分と同じクラスの萌美がそれほどの実力者だとは、これっぽっちも思っていなかった。
ふと、コンクールが終わった日に、早弥香と交わした会話を思い出す。そのとたん、世梨香は顔が真っ青になるほど愕然となる。
姉がここまで苦しんでいるのは、他の誰でもない自分が原因だったのではないか?
──馬鹿か、わたしはっ!
世梨香は心の中で自分に叫んだ。また、姉が考えていることが、世梨香にもわかってきた。
世梨香の記憶が二ヶ月前にさかのぼる。あの日、放課後の音楽室でのぞき見た、萌美のそばでピアノを弾いていた男子生徒。なんとしてでも、その彼を探し出さないといけない。必ず見つけるのだと、世梨香は決心するのだった。
正也の名前を聞くには、考えるまでもなく萌美に直接たずねるのがはやい。しかし、萌美とはろくに話したこともなく、仲が良いともいえない世梨香である。
なにより萌美にとって、自分の姉はライバルであろう。はっきりいって、萌美には訊きにくい。
そこで世梨香は、ときどき萌美にくっついている小柄な女の子に目をつけた。
──あの子は、確かあの日もいっしょに、音楽室に……
世梨香は、その女の子が一年生の弓友ルミであることを知る。
さらに、ルミには三年生の兄がいることを突き止める。
──もしや、あの子のお兄さんが?
やがて世梨香は、正也の名前をどうにか調べあげるのだった。
ただ、あの日、ピアノを弾いていた男子が正也であるとは断言できない。顔は見ていないのだ。
しかし正也でないとすると、萌美とルミがつながる理由がわからない。
世梨香は自分のカンを信じて、弓友正也の名前を姉に教えたのだった。
条万学園の職員室では、須藤が早弥香の話に、じっと耳をかたむけていた。
「一度でいいので、弓友正也という人の演奏を聴きたいのです」
「………」
須藤は慎重になる。早弥香はまだ本調子でないとはいえ、徐々にではあるが確実に回復してきているのである。
ここまでくるのに、須藤も早弥香も本当に必死だった。
それなのに、もし弓友正也という他校の生徒の演奏を聴いて、ふたたび立ち直れないほどのショックを受けたときは……。
そう考えると、須藤はどうしても慎重にならざるを得なかった。
どうするか悩んでいる彼女に、早弥香は熱心にすがってくる。
本当は、須藤も正也に強く興味をもっている。早弥香以上に、正也の演奏を聴いてみたいと思う彼女である。
しかし、ヘタをすると取り返しのつかない事態になりかねない。
須藤は、なかなか判断しかねる。だが、このままでは、早弥香は本来の自分をとりもどせずに終わるかもしれない。
それもまた事実だと思う須藤である。
彼女は考えぬいたあげく、もしものときは自分の教師生命をかける覚悟で、英断を下すのだった。
須藤は早弥香に告げる。
「わかりました。閃葉高校へ連絡してみましょう」
早弥香の顔から、笑みがこぼれる。
「ありがとうございます、先生」
礼をいう早弥香は、須藤の覚悟を知ることもなく職員室をあとにする。
須藤にすれば、どういう結果になるか非常に不安なのだが、早弥香の復活を信じて事に当たるしかない。
閃葉高校の連絡先を調べながら、そんなことを考えていた須藤は、緊張した面持ちで電話の受話器をとる。
しかし──正也の性格をまったく知らない須藤は、初っぱなから壁にぶち当たるのだった。
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