翔んだディスコード

左門正利

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◇ 才能を秘める天才

逆説的な理論

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 正也の言葉に、萌美は夢見るような世界から、一気に現実にひきもどされる。
 あとに続く正也のひと言は、萌美の心臓をえぐるほどに冷酷だった。 

「おまえは、コンクールを捨てろ」

 萌美の表情が、そくざに固くなる。不調ながらも自分がいままでがんばってきたのは、コンクールのためではないか。 
 いくら正也のいうことでも、これだけは受け入れられない。 

 萌美は正也に対して、反抗の意思をその目にあらわす。 
 
 ──なにか勘違いしているな

 そう思った正也は、萌美に理解できるように話さねばならないと考える。ほんのしばらく思考したあと、萌美にわかるように説明しようと言葉をならべる。

「コンクールに出場するなといってるんじゃない」
「え?」
「おまえの頭から、コンクールのことを切り離せといってるんだ」
「………」

 さらに続く正也の話を、萌美は口をはさまず黙ったままきいている。 
 正也がいうには、あまりにもコンクールに執着しすぎると、そのために練習してきた技術は、あくまでもコンクールのための技術でしかなくなる。 
 その技術で演奏される音楽も、やはり「コンクールのための音楽」としか聴こえないというのだ。 

 すなわち、コンクールにこだわり続けた結果としての音楽は、自分のためだけの音楽ということである。
 コンクールの採点をなによりも重視する音楽に、魅力など感じない。伝わるものが、なにもない。
 正也は、ふだんから自分の考えていることを萌美に語る。

 しかし萌美は、正也の話に戸惑いを覚える。正也が話すことは正論だとは思うのだが、萌美はどうしてもコンクールにかける想いを手放すことができない。

 正也は、ひどく冷静な口調で萌美に語るのだった。

「それほどコンクールに固執して、得るものといえば」

 正也から放たれる次の言葉が、無防備な萌美に強烈なショックを与える。

「どんなことをしても勝ちたいと思う競争心と、相手のミスを喜ぶ卑屈な心だ」

 その響きは鋭い槍となり、萌美の胸にグサッと突き刺さる。
 萌美の胸が、ズキンと痛む。彼女は心の中で叫んだ。

 ──わ、わたしが求めてきたのは、そんなものじゃない! そんなものじゃ……ない……はず……

 萌美は、正也の言葉に必死で抵抗する。だが、あまりにも核心を突いた正也の論理に、萌美は自分の想いに自信がもてない。
 心の芯がグラグラと揺れる彼女に、正也は追撃をゆるめない。

「おまえは、そんなにも醜い演奏を目指しているのか?」
「ち、ちがいます!」

 萌美は全力で否定する。彼女の目には涙があふれ、いまにもこぼれ落ちそうだ。 

 ──仲田……

 正也はちょっとかわいそうになり、やわらかな口調で話した。

「音楽のほとんどは、みんなを競わせるために作られたものではないだろう?」

 それをきいた萌美は、ハッとする。萌美のなかで、なにかがパキーンと弾けた。

 萌美は、これまでの自分を省みる。小学生のころから様々なコンクールに出場するたびに「誰にも負けたくない」という想いが、強くなっていった。
 勝つために腕を磨いてきた。技術を身につけてきた。
 そのかわり、とても大事なものを忘れてしまった気がする。

 過去をふり返っている萌美に、正也が告げる。

「おまえは、もっと音楽を感じろ。心の奥にある『感性の扉』を開け」
「感性の扉?」
「もっと音楽を楽しめ、ということだよ」

 考えてみれば、最近は音楽を聴いても楽しいと思ったことがない。 
 楽しい──なにか懐かしい響きだ。 

 萌美がとても大切なものを思い出そうとしていると、正也がふたたび口をひらいた。 

「おまえの指は、自分の思いどおりに動くか?」

 萌美はギクッとする。まるで、正也にいまの自分の状態を見透かされているようだ。 

「感性の扉を閉じたままでは、その指は思いどおりに動かないだろうな」

 たぶん、そのとおりなのだろう。正也は、本当に大事なことを知っている。 

 ──わたしが立ち直るためには、やっぱりこの人が必要だった

 萌美は、正也に会えた運命に感謝するのだった。 

 その後も正也の話は続く。だが、萌美は、話をきけばきくほど混乱してくる。正也の話は、常識をくつがえすほどに逆説的なのだ。 
 例えば、萌美は演奏する際には、まず技術を磨き、その技術の上に感情をのせるものだと思っていた。 
 ところが、正也がいうには 

「音楽を想う、感じる、楽しむという心が、技術を磨くんだよ」

 と、まったく逆のことを語るのである。しかし萌美は、彼が非常に重要なことを自分に話してくれていることは理解できた。 

 正也の話が終わると、萌美は「きょうは、ありがとうございました」と礼をいい、音楽室をあとにする。 
 そして、わき目もふらずに自宅に帰って行くのだった。 

 帰り際に、正也に「俺がピアノを弾けることを、絶対に誰にもいうなよ」と、念を押された。
 なぜだろうと気になったが、とにかくいまは、ピアノを弾きたくてたまらない。


 自宅に帰り着いた萌美は、自分の部屋にかばんを置くと、着替えもせずにピアノのある部屋に向かう。 

 ピアノの前に座った萌美は、さっそく演奏の準備にとりかかる。これから弾こうとする曲は、数あるショパンのエチュードのひとつ。それは、コンクール予選の課題曲である。

 萌美は両手を鍵盤の上にかざしながら、正也の話を思い浮かべる。

 ──この曲に対する、わたしの想いは……

 萌美は心の中で、自分の想う曲の世界を創ろうとする。 
 このとき、心の奥にある「感性の扉」が、静かに開きはじめる。

 萌美の指が、無意識に鍵盤を叩いた。一瞬、萌美はびっくりする。

「ゆ、指が動く!」

 萌美の指は、彼女の想いを的確に伝えるかのように、鍵盤の上を行き来する。 

 ピアノを弾きながら、萌美は思い出す。はじめてピアノを買ってもらったときのことを。 
 鍵盤を叩くと音が出る、ただそれだけで楽しかった日々のことを。 

 ──ああ、やっぱりわたしは、ピアノが好きなんだ

 そう思うと、自然に涙があふれてくる。萌美は、ポロポロとこぼれる涙を拭おうともせず、曲を弾き続けながら、胸の中で正也に礼をいうのだった。

 ──正也先輩、ありがとうございますっ

 萌美は、正也に巡りあうきっかけとなったルミと、大切なことを教えてくれた正也に、心から感謝するのだった。 


 一方、自宅に帰った正也は、すでに自分の部屋で着替えて、ベッドでくつろいでいる。
 正也は、萌美のことを思い浮かべていた。

「あいつ、俺の話を理解できたのかな?」

 正也は、自分の音楽に対する考え方が、ふつうの人たちとは異なることを知っている。 
 そういう自分の考えを、必死になって他人に説明したところで理解してもらうのは難しいことも、正也にはわかっている。 
 むろん、萌美にしても例外ではない。

「まあ、どうでもいいや」

 結局、いつものパターンに落ち着く正也であった。 

「もう、ピアノを弾くことも、ないだろうしな」

 もう、ピアノを弾くことはない……正也はそう思っているが、自分の思ったとおりに事が進まないのが「人の人生」だということを、彼はのちに思い知らされる。 

 この日、正也の演奏を聴いていたのは、ルミと萌美だけではなかった。 
 音楽室の扉の外で、正也の演奏にじっと耳をかたむけている女子生徒がいたのである。正也たちは、その女子生徒にまったく気づいていなかった。 

 彼らの知らない女子生徒は、音楽室の扉を少し開いて正也の演奏に聴き入っていた。彼女は、信じられない体験を味わったかのように驚いた。 

 ──すごいっ、お姉ちゃんより上手かな?

 正也の意識の外にある彼女が、あとあと自分をふり回すことになろうとは、いまの正也には知るよしもなかった。 



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