天ノ恋慕(改稿版)

ねこかもめ

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第5章:選択

不平等で下劣な命

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◇◇◇

 ──数日後。

 その日の授業を全て受け終え、アインズは帰路についた。相も変わらず西日をその青き眼に受け、自宅前最後の角を曲がった。往来を進みながら、自宅の庭を覗き込む。

「あれ」

 この時間、アインズの母は庭の手入れをしている事が多い。しかし、今日は姿が見えなかった。

 とは言っても、毎日そうという訳ではない。特に疑問を呈することもなく、アインズは玄関をくぐった。

「ただいま……?」

 靴を揃えて居間を覗くと、やけに暗いことが分かった。夕日が差す時間であれば、もう灯りを灯していても良い。

 それに、今日は父親の仕事が休みのはずであった。なおさら、暗い事に対する違和感が増していく。

「出かけてるのかな……?」

 灯りをともそうと、居間を一歩ずつ進んでいく。その最中で、誰かの脚が見えた。テーブルと壁の間、人ひとりが横たわってちょうど良いスペースに、それはあった。

「もう、お父さん。そんな所で寝てると、風邪ひくよ?」

 休日だからとワインを飲み過ぎたのだろう。そう推測し、暗い部屋を歩く。

「……ん?」

 ピチャという音が耳に届いた。それと同時に、生暖かい感覚が彼女の足の裏を包んだ。

「お父さん?」

 その場でしゃがみ、横たわった父の脚を揺する。反応がない。

 よほど深い眠りに就いているのかと、視線を顔の方へ──

「えっ?!」

 父親の腹に、何かが刺さっているのが見えた。木製で薄い茶色の円柱型。少し湾曲していたり、文字が刻まれていたりと、どこかデザイン性があった。

 彼女はそれがナイフの柄であると、すぐに気づく。驚いてしりもちをついてしまい、アインズの手や尻は足の裏と同じ感覚に支配された。

「そんな、そんな! お父さん! 嫌だよ!」

 父親の体にもたれかかり、必死に呼びかける。しかし、やはり返事は無い。すでに息絶えていたのだ。

 何かの悪戯ではないだろうか。そんな淡い期待を込め、アインズはナイフを抜いた。傷口から、それ以上血液が流れることは無い。

「お父さん……なんで? 誰がこんな──」

「お、お助け下さい!」

 ふと、台所から女性の声が聞こえた。また、見知らぬ男の怒鳴り声も同時に響く。

──お母さんは、まだ!

 抜いたナイフを右手に持ったまま、アインズは気配を殺して台所へと向かった。

◇◇◇

 刃物で脅され、家中からありとあらゆる金品を回収。更に「殺すぞ」と言葉でも脅されたアインズの母は、それらを必死に袋に詰めた。手が震えており、時折、手から床へ落ちる物もあった。

「おい、これで全部だろうな?!」

 そう母親に問い質したのは、全身を黒い衣服で包み、顔に不気味なドクロの仮面を着けた男である。その手にはナイフを持っている。何本かの予備を携えてアインズの家を襲撃しに来ていたのだ。

「は、はい! 家にはもう財さ──」

「ガタガタ言うな、早く寄越せこのババア!」

「ひぃっ!?」

 左頬に男の拳を受けたアインズの母は、その場に倒れた。ちょうどその場面を見たアインズ。一歩、台所へ足を踏み入れた。

「お母さん……!」

「あ?」

「アインズ! 来てはダメよ!」

「んだ、ガキかよ。めんどくせぇな」

 すっかり腰を抜かした母親に背を向け、男はアインズへ向かって歩み始めた。

「やめて!」

 一人娘は殺させまいと、必死に男の足にしがみついて止める。そんな母の行動を見て、アインズの心に亀裂が走った。

「離せクソが!」

「娘は! 娘だけはっ!」

 どうして母は、私「だけ」は殺させまいと言うのだろうか。私が死のうが、自分が死のうが、同じく命が失われるだけなのに。そう思考を巡らせた彼女の心の亀裂は、さらに大きくなる。

「邪魔すんならテメェからだ!」

 母親の妨害に激昂した男は、再びアインズに背を向ける。

「や、やめて!」

 静止を促すアインズであったが、やはり聞き入れられることはなく、ナイフが振り上げられた。このまま見ていると、遺体が一つ増える事になるだろう。

「くっ!」

 アインズは歯を食いしばった。ナイフの持ち手が軋むほど力を込めた。心のヒビ割れは一周し、ついに二つに分裂した。

──お母さん、ごめんなさい

 刃先を男に向けたまま、柄を掴んだ右手を引いた。空いている左手は、刃先と同じ方向へ。足に力を込める。拍動が全ての音をかき消した。

 この瞬間、アインズは初めて母の言いつけを破った。命は、全てが等価な訳ではなかった。守るべき命がある限り、その踏み台となる命がある。

 それすなわち、アインズは強盗殺人犯の命を、母のそれよりも価値の低いものと評価したのであった。

 今にも、男のナイフが振り下ろされようとしている。

──速く

──出来る限り速く

──そして、一撃で

 その想いに支配され、一度、瞬きをした。次に目を開けた時には、男の左肩甲骨と背骨の間にナイフが刺さっていた。

「うぐっ……ク……クソ、ガ、キ──」

 男は右手に持ったナイフを床に落とし、そのまま倒れた。動いて反撃に出ることはなく、父親と同じ状態になった。

 アインズもまた、凶器から手を離し、その場に立ち尽くしていた。

「ア……アインズ……」

「ごめん……なさい……ごめんなさい……」

 あっけにとられる母親の前で、彼女は涙を流す。薄暗いはずの台所は、アインズを包む黄金のオーラによって、仄かに照らされていた──。
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