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夜食べると肉憑(にくつき)に取り憑かれる
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伊田裕美(いだ ひろみ):幽霊探偵、旅行ルポライター
伝兵衛(でんべい):旅行雑誌編集長
聡美(さとみ):女子大生
直人(なおと):聡美の彼氏
村田蔵六(むらた ぞうろく):白髪で長い髭をたくわえ、着物に羽織をまとった古風な陰陽師。
【信用に足らない都市伝説】
「夜中に食べると、肉憑(にくつき)が来るらしいよ」
そんな噂が、ある街の片隅で静かに囁かれていた。
最初に話題にしたのは、誰だったのか。
学生たちがコンビニの前で缶コーヒーを片手に怯えたように話している。
居酒屋のカウンターで、会社帰りの男たちが苦笑いしながら噂話をしている。
公園のベンチでは、主婦たちが顔を寄せ合い、不安げに囁いている。
「深夜に食べると取り憑かれるんだって」
「……肉憑って、何?」
「私も詳しくは知らないけど、最初はただの食欲が止まらなくなるらしいよ」
「それって、夜食べすぎた言い訳じゃなくて?」
「そう思うでしょ? でもね、取り憑かれた人はどんどん痩せていくの」
「え? 太るんじゃなくて?」
「逆。食べても食べても、満たされないらしいんだよ」
最初は、誰も本気にしなかった。
ただの都市伝説。
ダイエットへの戒め。
深夜の食事を正当化するための、くだらない作り話。
けれど、街の片隅で次第に異変が起こり始めた。
夜中、どこからともなく聞こえる くちゃっ……くちゃっ…… という咀嚼音。
零時を過ぎたコンビニの駐車場で、ひとり何かを抱えて貪る影の目撃談。
「いくら食べても、お腹が空くんだ……」と呟きながら憔悴していく人々。
ある者は、自分の手を噛みちぎろうとしていた。
ある者は、暗闇の中で何かと話しながら食事をしていた。
ある者は、食べ物のない部屋で、ただひたすらに口を動かしていた。
「ねえ、これ……本当にただの噂なの?」
誰かが呟く。
最初は、ただの冗談だった。
深夜の退屈しのぎだった。
でも、今では誰も夜中に食事をしようとはしない。
街の住人たちは、不安そうに時計を睨みながら、零時を迎える前に食事を終えるようになった。
夜食の誘惑に負け、冷蔵庫を開ける者もいた。
だが、次の日から彼らは姿を消したり、何かを恐れるように怯え始めたりするのだった。
「ねえ……聞いた? また一人、消えたんだって」
噂は、確信へと変わりつつあった。
今夜、深夜零時を迎えたとき、また誰かが取り憑かれるのかもしれない——。
「くちゃっ……くちゃっ……」
夜の闇の中、その音だけが響いていた。
【過酷なダイエット】
聡美は、ごく普通の大学生だった。成績はそこそこ、友人も多く、サークル活動にバイトにと、忙しくも充実した日々を送っていた。けれど、彼女にはひとつのコンプレックスがあった。
「もう少し痩せたら、もっと可愛くなれるのに……」
そんな思いを抱きながらも、つい夜遅くにスナック菓子や甘いものを食べてしまう自分がいた。だが、ある日、状況は大きく変わった。
聡美に恋人ができたのだ。
「やっぱり、もっと綺麗にならなきゃ……」
彼とのデートのたびに、もっと細く、もっと美しくなりたいという欲望が膨らんでいった。そこから、聡美のダイエット生活が始まった。朝はスムージー、昼はサラダ、夜はプロテインだけ。糖質も脂質も極力カットし、毎日ジョギングを欠かさず、ジムにも通い詰めた。
最初のうちは、成果がすぐに現れた。服のサイズが変わり、鏡に映る自分の姿が少しずつ引き締まっていくのを実感する。周囲の友人たちからも「痩せたね!」「綺麗になったね!」と褒められ、満足感に満たされた。
だが、その幸福は長くは続かなかった。
体重が一定のところで止まってしまったのだ。どんなに努力しても、それ以上落ちない。焦燥感が募る。もっと痩せなければ、もっと美しくならなければ——。
しかし、体は正直だった。極端な食事制限と運動に疲れ果てた彼女の体は、強烈な飢えを訴え始めた。
「……少しくらいなら、大丈夫」
そう自分に言い聞かせ、夜中にこっそり冷蔵庫を開けた。残り物のパスタ、チーズ、ハム。ひとくち、またひとくち。口にした瞬間、押し寄せる幸福感。ずっと我慢していた分、抑えが効かない。もっと食べたい——。
その瞬間だった。
くちゃっ……くちゃっ……
どこかで、何かを噛み砕く音がした。
背筋が凍る。静まり返った部屋の中、冷蔵庫の光だけがぼんやりと宙を照らしている。周囲には誰もいないはずなのに、まるで誰かが隣に立っているような気配を感じる。
聡美はゆっくりと顔を上げた。
冷蔵庫のドアに映る自分の姿。その隣に、もうひとつの影があった。
青白く透けた肉の塊。粘りつくような黒い瘴気。異様に裂けた口がゆっくりと開き、そこから滲むように何かを呟いた——。
「……くちゃっ……くちゃっ……」
肉憑(にくつき)。
その存在を知る者は少ない。
夜中に食事をした者の前に現れ、飢えを植え付ける霊。いくら食べても満たされず、やがて自分の肉さえ喰らい始めるという、呪われた存在。
聡美は、取り憑かれてしまったのだ——。
【母親の疑問】
聡美の異変は、最初はただの食生活の乱れに見えた。
夜中、母親が寝静まった頃、彼女は台所へ向かう。冷蔵庫を開け、手当たり次第に食べ物を口に運ぶ。残り物のパスタ、コンビニで買ったおにぎり、パン、冷凍食品——何でも構わなかった。まるで食べることだけが彼女の存在理由であるかのように、咀嚼し、飲み込んだ。包み紙や容器が次々と床に転がる。
しかし、奇妙なことが起こった。
彼女は確かに食べている。それも常軌を逸した量を。それなのに、日に日に痩せ細っていくのだ。頬はこけ、腕は骨ばり、肌には青白い血管が浮き上がる。目の下には深い隈ができ、目の奥には虚ろな光が宿る。
「聡美……本当に大丈夫なの?」
母親が心配そうに問いかけるが、聡美はただ虚ろな目で微笑み、首を横に振るだけだった。
【病院での診断】
異常な食欲、しかし痩せていく体。これは明らかに病的だ。母親はすぐに病院へ連れて行った。検査室で血液検査や内臓のエコー、CTスキャンが行われる。結果を待つ間、母親は椅子に座り、落ち着かない様子で手を握りしめていた。
医師は眉をひそめながらカルテをめくり、慎重な口調で言った。
「特に異常は見当たりませんね。胃腸も問題ないし、甲状腺の働きも正常です。ただ……極端な栄養不足の兆候が見られます。」
「でも先生、娘は毎晩ものすごい量を食べているんです!」
母親は思わず声を荒げる。しかし、医師は困惑した表情を浮かべるばかりだった。
「それは……どう説明したらいいのか……。普通なら体重が増えて当然なのに、おかしいですね。ストレスや精神的な要因が関係しているかもしれません。一度、精神科の診察を受けてみては?」
母親は納得できなかった。病気ではない。精神の問題でもない。何か得体の知れないものが起こっている——。
【占い師の警告】
医学では解決できない。そうなると、頼るべきは霊的な視点だった。
母親は、近所で「よく当たる」と評判の占い師のもとを訪れた。古びた木の扉を叩くと、中から香の煙が漂い、年老いた女が現れた。
「娘さんに何か問題があるのですね?」
母親が頷くと、占い師は水晶玉の前に座り、手をかざす。目を閉じ、何かを視ているかのように沈黙する。
やがて、低い声で言った。
「……見えますね。娘さんは、何かに喰われています。」
「喰われている……?」
「ええ。目に見えぬ何かに取り憑かれています。普通の霊とは違う……これは『喰らう霊』です。」
母親の背筋が凍った。
「どうすればいいんですか? 娘を助けてください!」
占い師はしばらく沈黙し、それから首を横に振った。
「これは私の手には負えません。もっと力のある霊媒師に頼むべきです。」
占い師ですら手を出せない何かが、娘に取り憑いている。母親は絶望的な気持ちで家に帰った。
【霊媒師の儀式】
最後の頼みの綱は霊媒師だった。紹介された人物は、厳格な顔つきをした壮年の男。彼は聡美をじっと見つめ、何かを感じ取ったのか、表情を険しくした。
「……これは、普通の霊ではない。もっと深く、もっと根源的なものだ。」
「どういうことですか?」
霊媒師は低く呟く。
「これは、『肉憑(にくつき)』というものだ。」
母親は息を呑んだ。
「肉憑……?」
「夜中に食事をする者の前に現れ、飢えを植え付ける霊だ。どれだけ食べても満たされず、最後には——」
言葉を濁す霊媒師。母親は震える声で問いかける。
「最後には……何が起こるのですか?」
霊媒師は静かに目を閉じ、長い溜息をついた。
「……自分の肉を食べ始める。」
母親は絶句した。目の前が暗くなったような気がした。
「た、助ける方法はないんですか?」
霊媒師は考え込み、やがて言った。
「ただひとつ。この霊の存在を視ることができる者に頼るしかない。」
「視ることができる者?」
「そう。普通の人間ではない。幽霊と対話し、異形のものを追う者……。」
霊媒師は静かに呟いた。
「幽霊探偵……伊田裕美。」
こうして、聡美の母親は最後の希望を求め、幽霊探偵を訪ねることになる——。
【幽霊探偵・伊田裕美参上!】
母親は懸命に幽霊探偵・伊田裕美を探したが、なかなか見つけられなかった。
そんなある日、彼氏の直人が訪ねてきた。
インターホンの音が響き、母親が直人を聡美の寝室へと案内した。
「聡美、大丈夫か?」
扉が開いた瞬間、直人は絶句した。
そこにいたのは、かつての愛らしい聡美の面影を失った姿だった。頬はこけ、肌は病的に青白く、目は落ち窪んでいる。それだけではない。彼女の口元には、赤黒い何かが滲んでいた。どこかにぶつけたわけではない。それなのに、その色はまるで——。
「……っ!」
直人は腰を抜かし、かろうじて支えようとしたものの、足がすくんで動けなかった。
「……お腹、空いたの」
聡美の声は、か細く、異様に響いた。
母親はこれ以上待てないと判断し、最後の望みをかけた。SNSで話題になっていた“幽霊探偵”の存在を頼ることにしたのだ。夜を徹して調べ、ようやく彼女の連絡先を見つけ出した。
【旅行会社の応接室にて】
翌日、母親と直人は伊田裕美に会うため、彼女が仕事をしている旅行会社を訪れた。応接室に案内されると、そこにはショートカットの黒髪を持ち、痩身の女性が座っていた。黒のスーツに身を包み、どこか鋭い眼光を持つその姿は、ただの旅行ルポライターには見えなかった。
「あなたが……幽霊探偵?」
母親が恐る恐る問いかけると、裕美は静かに頷いた。
「まあ、そう呼ばれてるみたいですね。で、依頼っていうのは?」
「娘が……肉憑に憑かれているんです!」
母親は声を震わせながら、これまでの経緯を説明した。直人も同席し、昨夜の衝撃的な出来事を語った。
その話を黙って聞いていた男が、一人、苦笑しながら腕を組んだ。
「馬鹿馬鹿しい……幽霊なんて信じるなって。医学で説明できないことなんて、ありゃしないんだよ。」
編集長の伝兵衛だった。
彼は裕美の上司であり、旅行記事一筋で、一切の超常現象を信じない男だった。
「またオカルトネタか? くだらねえ。で、あんたは何ができるってんだ?」
「まあまあ、信じなくてもいいですよ。でも、事実を見てもらえれば、話は別かもしれませんよ?」
裕美は伝兵衛に意味深な笑みを向け、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「まずは、本人に会わせてもらえますか?」
【裕美と聡美の対面】
数時間後、裕美は聡美の部屋へ足を踏み入れた。
カーテンが閉め切られた暗い室内。床には食べ散らかした包装紙が散乱し、異様な匂いが充満している。部屋の奥に、布団にくるまるようにして、聡美はうずくまっていた。
「……聡美さん?」
裕美が声をかけると、その瞬間——
「ガッ……!!」
聡美が跳ね起きた。
その動きは、人間のものとは思えなかった。
顔はゆがみ、口から涎が滴り落ちる。目は見開かれ、焦点が合っていない。異様なほど骨ばった手が痙攣するように震えていた。
「お、お腹……空いた……!」
聡美の声が響いた瞬間、異変が起こった。
ずるり……
背後の闇から、粘つく肉の塊が浮かび上がった。瘴気を纏いながら、その禍々しい存在が、聡美の肩に絡みつく。
「肉憑……!」
次の瞬間——
聡美が、襲いかかってきた!
牙のように剥き出しになった歯を見せ、異常な力で裕美に飛びかかる。ぎりぎりで身をかわした裕美は、床を転がりつつも鋭い目を向けた。
「さて……これは、厄介そうですね。」
幽霊探偵・伊田裕美の戦いが、ここから始まる——。
【村田蔵六の登場】
その夜、裕美は古い町外れの屋敷を訪れた。
「ここか……。」
屋敷の門をくぐると、奥からゆっくりとした足音が響く。
「お前さんが、幽霊探偵か。」
現れたのは、白髪の長髪を束ね、和服を纏った老人だった。名を村田蔵六という。かつて名を馳せた陰陽師であり、今は世間から離れ、密かに怪異の研究を続けている人物だった。
「……お前さん、肉憑のことをどこまで知っとる?」
蔵六の鋭い眼差しが裕美を貫く。
「まだ、すべてを知っているわけではありません。」
「ならば……知る覚悟はあるか? あれはただの幽霊じゃない。」
老人は、奥の部屋へと裕美を導いた。
「肉憑を倒すには、普通の方法では駄目じゃ。」
そして、ゆっくりと語り始める——。
幽霊探偵・伊田裕美の戦いの行方は、村田蔵六の知識にかかっていた。
【肉憑の正体】
村田蔵六は、静かに腕を組みながら語り始めた。
「肉憑とは、飢えに囚われた怨霊の集合体じゃ。」
蔵六の言葉に、裕美は眉をひそめる。
「集合体……?」
「そうじゃ。昔、飢饉や戦乱の時代、食い物がなくなり、生きるために人間が何をしたか……お前さんなら想像がつくだろう?」
裕美の背筋が凍った。
「……人が、人を……?」
「その通りじゃ。極限の飢えに耐えかねて、自らの肉を喰らった者、あるいは他人の肉を奪って生き延びた者たちの魂が絡み合い、今もなお飢えを求めて彷徨っている。それが肉憑よ。」
裕美は息をのんだ。
「つまり、肉憑はただの亡霊ではなく、強烈な飢えの呪いそのもの……?」
「そういうことじゃ。肉憑に取り憑かれた者は、どれだけ食べても満たされぬ飢えに苦しむ。体は痩せ細り、やがて己の肉を喰らい始める。そうなったらもう……人ではなくなる。」
蔵六の声は低く響いた。
「そんな……どうすれば、取り憑かれた者を救えるんですか?」
裕美は真剣な眼差しで尋ねた。
「普通の祓いでは意味がない。奴らは肉体に根を張り、宿主が完全に力尽きるまで離れようとしない。祓うだけでは、次の宿主を求めてさまようだけじゃ。」
「では、どうすれば……?」
蔵六はゆっくりと、部屋の奥から古びた巻物を取り出した。
「方法は二つじゃ。ひとつは、宿主が肉憑の呪いを断ち切ること。つまり、極限の飢えを自ら受け入れ、断食によって肉憑を弱らせる。」
「そんなの……普通の人には耐えられません。」
「そうじゃ。だからもう一つの方法——肉憑を『満腹にする』のじゃ。」
「……満腹?」
「そう。肉憑は飢えそのもの。ならば、飢えを超えるほどの霊的な供物を食わせれば、奴は力を失い消滅する。」
「供物って……?」
「たとえば、神社で供えられる清めの塩や、特殊な儀式で作られた『餓鬼封じの飯』など。それらを宿主に食わせることで、肉憑は取り憑くことができなくなる。」
裕美は深く息をついた。
「……つまり、このままでは聡美さんは……?」
蔵六はゆっくりと頷いた。
「放っておけば、間もなく奴の完全な養分となる。時間はないぞ。」
裕美は拳を握った。
「やるしかないですね。」
こうして、幽霊探偵・伊田裕美は肉憑との戦いに挑むこととなる——。
【決戦:幽霊探偵 vs. 肉憑】
部屋の空気が変わった。肌にまとわりつくような湿り気、異様な腐臭。裕美は全身の神経を研ぎ澄ませ、霊視の力を解放する。
「出てこい……!」
その言葉に応じるかのように、闇の奥から何かがうごめいた。
ずるり……
壁の隙間から、天井の影から、黒く粘つく何かが流れ出す。それはゆっくりと形を成し、巨大な肉塊へと変貌していく。無数の手が絡み合い、うごめく。無数の目がぎらつき、牙を持つ口が次々と裂けるように開く。
「……これが、肉憑の正体……!」
裕美の喉がひりつく。
「グチャァ……グチャァ……」
それは咀嚼するような音を立て、獲物を待ち望むように揺れた。宿主を乗り捨て、完全な姿を現した肉憑。その怪異が、地を這うような唸り声を響かせる。
「ヒト……ヨコセ……」
瞬間、肉憑が飛んだ。異常な速さで裕美へと迫る。だが、彼女はそれを読んでいた。足元を蹴り、横に転がる。
「そんな直線的な攻撃……見切れる!」
肉憑の巨大な手が床を抉る。木材が弾け、部屋全体が軋んだ。
「くそっ……!」
裕美は距離を取ると、懐から護符を取り出した。
「村田蔵六の言葉を信じるなら……飢えを断ち切るか、満腹にするか……!」
しかし、相手は霊でありながら、実体を持つ異形の怪物。力で抑え込むには、ただの退魔では通用しない。
「なら……!」
裕美は護符を握りしめ、霊的な力を流し込む。すると護符が青白い光を放ち、強烈な熱を帯びた。
「こいつを……食らえ!!」
彼女は護符を肉憑の口へと叩き込んだ。
バチンッ!!!
焼けるような音とともに、肉憑は咆哮を上げた。体が痙攣し、黒い瘴気を吹き出す。
「ギャアアアアア……!!」
だが、それでも崩れ落ちることはない。憤怒のごとく身を震わせ、再び襲いかかった。
「……くっ!」
裕美は息を整え、さらに別の手を打った。これが最終局面だ。
「最後の手段……あんたを、飢えさせる!」
彼女は素早く結界を張り、肉憑を包み込んだ。
「これは“絶食封印”の陣! もう食らうことはできない!」
肉憑の動きが鈍る。飢えの概念を封じられたそれは、まるで餓鬼のように悶え苦しむ。
「アアア……タリナイ……タリナイ……!!」
その呻き声が次第に細くなり、やがて消え去った。
部屋には静寂が戻った。
裕美は深く息をついた。額には汗がにじんでいた。
「……終わった……のか?」
村田蔵六の言葉を信じ、最後の手段を使った結果だった。
【エピローグ】
夜明けの光が、静かに部屋を照らしていた。戦いが終わり、重く澱んでいた空気も、今はすっかり澄んでいる。
聡美は穏やかな寝息を立てながら眠っていた。彼女の顔色は回復し、以前の健康的な姿を取り戻しつつあった。母親はその姿を見つめ、目に涙を浮かべながらそっと彼女の手を握った。
「よかった……本当によかった……」
傍らでは直人が安堵の息をついていた。
「信じられない……。まるで夢みたいだよ。」
裕美は静かに微笑みながら、彼らの様子を見守っていた。
「ええ。でも、これは現実。聡美さんはもう大丈夫です。」
母親は裕美の方を向き、深く頭を下げた。
「本当に……本当にありがとうございました!」
直人も裕美に向かい、力強く頷いた。
「あなたがいなかったら、俺たちはどうなっていたかわかりません……。感謝してもしきれません。」
裕美は軽く手を振り、穏やかに微笑んだ。
「いえ、大切な人を守るのは当たり前のことですよ。」
聡美の寝顔を最後に確認し、裕美は静かに部屋を後にした。ドアを閉めると、夜の冷たい風が頬をかすめる。
「さて……次はどこに行こうかな。」
彼女は夜空を見上げ、かすかに微笑んだ。
幽霊探偵・伊田裕美の旅は、まだ終わらない——。
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