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第一章 モルモットに利尿薬を与える

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「なあ、大丈夫か?」
「……う、うるさい。話しかけないで、もらえるかしら……」
 水晶みあきは内股の姿勢を取っており、強がってはいるものの、すでにかなり辛そうな表情を浮かべている。
 内服の効果が現れるのは早くても30分後からだそうだ。だが、おそらく俺が目を覚ます前から水分補給をしていたであろう水晶は、利尿作用に先んじて自然な尿意を催していたのだろう。気絶により水分摂取が遅れた俺は幸運だったのだ。
 しかし、さっきサウナで気を使ってもらったんだ。何かできることはないだろうか。俺は床に落ちている空のペットボトルを一列に五つ並べた。
「水晶、ちょっとこれ見て。ほら、ドミノ」一番端をドミノの要領で押した。「あぁ、くそっ、一個残った」
 だが、順調に倒れたのは四つだけで、最後の一つは残ってしまった。
「ふ……ふふっぅう……あんたねぇ、私を殺す気! 膀胱にくるじゃない!」
「い、いや、気を紛らわせてあげようと……ごめん漏らした?」
「漏らしてないわ! ああもう最悪! 何で? 何でこんなことしなきゃなんないの?」
「頑張れよ水晶。我慢できるって」
「だったらあんたが漏らしてよ。どちらかが、死ぬんだよ……?」
「そう、だけど……」
 俺は口ごもった。制限時間まで耐えればいいわけではない。生き残ることができるのは一人だけ。先に失禁した方が死亡するのだ。
 やがて水晶は力なく床にペタンと腰をついた。その額には脂汗が浮かび、股間を押さえうずくまっている。服薬による利尿作用の追撃が始まったのだ。俺の方もまだ余裕はあるが、何となく尿意を感じ始めていた。
「嫌……嫌よ! こんなことで死ぬなんて! ねえ、お願い。見逃して……ください」
 水晶の涙にもメビウスは一貫して無反応。
 女性が――否、老若男女問わず――人前で失禁するのは相当恥ずかしいことだろう。もう可哀想で見ていられない。命賭けでなければ、故意に失禁して負けてやってもいいのだが、この場合はどうすればいい?
 水晶はゆらりと立ち上がり、腹部を押さえながら大浴場をふらふらと歩き始めた。振動で膀胱が刺激されるような気がするが、その方が楽なのだろうか。
「水晶、その辺濡れてるぞ。危ないって」
 水晶はほっといて、と首を振った。しかし、俺は彼女に近き、腕を掴んだ。
「こっち来いって。そこお湯で滑るから」
「ちょ、放して……ッ。いいからッ」
「滑るって。危ないってそこ」
「もうっ、何なの――きゃ」
 二人分の大きな水飛沫。
 俺と水晶は揉み合ったあげく、湯船の中に転落した。やれやれ、せっかく乾いてきたのにお湯でずぶ濡れだ。
「ぷはっ。あー、耳に水入った」
 俺はお湯の中から顔を出し、右耳を下にして頭を振った。水晶はゆっくりと顔を水面から上げ、しばらくうつむいていた。俺は耳の穴に指を入れて掻き出したり、濡れた髪を整えたりして、できるだけ時間を稼いだ。
「いやいやいや、ごっめーん水晶。大丈夫?」
「あ、あんた……」
 その顔には戸惑いこそあれ、切迫感は消えていた。
「さ、続きをやろうか。ほら」
 水晶は少し間を空けてから、俺の手を握ってお湯から体を出した。すると、濡れた手術着が水晶の体に張り付き、体のラインがくっきりとわかった。レースのついた下着まで透けて見えてしまっている。 
「あー水晶さんや、上と下隠した方がいいかもしれんぞよ」
「何よそのうざい喋り方」
「びしょびしょに濡れてすっけすけだぞ」
「へ?」水晶は自分の体を舐めるように視線を動かした。「……いやぁ!」
 ようやく状況を理解したようだ。勢いよくお湯にざぶんと浸かった。
「そういう時は気づかないふりをするのっ。スケベ……」
 心なしか刺々しさが和らいでいるように感じた。
 ボタボタとお湯を滴らせながら湯船から出た俺たちは、服を絞って水を出した。
「お二人とも怪我はありませんか?」
 その様子を静観していたメビウスが近寄ってきた。
「ああ。全く滑るって言ったのに……。しょうがないやつだ、水晶は」
 心臓がどくどくと脈打つのを感じる。緊張している。あまりにも茶番すぎて、メビウスの目には明らかだっただろうか。
「ま、とにかく続きを――」
「その必要はありません双海さん。これにて第一フェイズは終了です。鳴瀬なるせさんの首輪を見てください」
 水晶の首輪のランプが赤く点灯していた。さっきまでは光っていなかったはずだ。
「その首輪はバイタルサインを読み取ることができます。排尿はいにょうの際、膀胱括約筋ぼうこうかつやくきんが収縮する動きを感知した場合、赤く点灯するように設定されていました。あなたの首輪は点灯していない。だから、鳴瀬さんはお湯の中で失禁したのです」
 首輪の点灯……ッ!
 やはり、誤魔化すことはできなかったのか……。
 水晶は顔を赤らめて小さく震えていた。失禁による羞恥心しゅうちしんとその先にちらつく死の影。
「しかし、双海さんの先ほどの行動――湯船の中に彼女を転落させたことが、ルールに抵触している可能性があります」
 矛先は何故かこちらに向いた。
「ば、馬鹿言うなよ。俺はルールを守ることにおいては定評があるんだぞ」
「白々しいですね。湯船に転落させた衝撃で鳴瀬さんの失禁を狙ったんでしょう?」
「え? い、いや違う――」
 俺は慌てて首を振った。横目で水晶を見たが、視線はメビウスに注がれている。なんという穿った考えをするんだ。そんなこと思いつきもしなかった。
「いえ、それはいいんです。転落による全身の筋肉の緊張。それに伴い膀胱括約筋を収縮させ、排尿を促す。暴力行為はタブーとは言っていません。問題は双海さんが臨床試験の進行を妨げるために転落させたのではないかということ。要するに濡れたお湯の中であれば失禁を隠すことができるという意図です。私の目からね。どうなのでしょうか?」
「それは……」
 俺の意図は完璧に見透かされていた。しかし、それがルールに抵触するだなんて……。水で濡らそうが結局は首輪で明確に判別できるじゃないか。
 どう回答するのがベストだろう。答え方によって命運が大きく左右される。俺は脳を総動員させ、出た結論を口にした。
「わかりません」
 裁判でも心身喪失は罪が軽くなる。政治家は答弁の際、窮地に追いやられると記憶にないと言う。余計なことは言う必要はない。
「わからない? 自分でしたことがわからないのですか?」
 彼の圧力を感じながらも、俺は黙って頷いた。
 どちらかが必ず死ぬ勝負で相手を助けるということは自分が死ぬということだ。では死んでもいいのかというとそんなはずはない。ただ、水晶を放っておけなかった。苦しんでいる女の子を放っておくのはマイルールに違反するからだ。
「そうですか……。では、第一フェイズで脱落する被験者を発表します」
 そんな俺の胸の内はつゆ知らず、メビウスは臨床試験を粛々しゅくしゅくと進行させる。
「第一フェイズで脱落する被験者は――」
 双海紅葉ふたみくれはか。
 成瀬水晶なるせみあきか。
 そのどちらかが――。
「――いません」
 いません、って誰だ?
 聞き間違えたのかとそう思った。
「先に失禁したのは鳴瀬さんで確定です。一方で、双海さんにはルール違反の疑いがあります。ただし双海さんの件については確証がありません。検証も難しいです。また、被験者をすでに四人失っていることから、さらにこのフェイズで一人失うのは、惜しいと思いました。実験データとして非常に乏しいものになってしまいます。よって、今回だけ特別に不問とし、お二人の第二フェイズへの進出を認めます」
 水晶はぺたんと膝をついた。 
 俺も大きくため息をひとつ。
 とりあえずは生き延びたようだ。
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