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プロローグ
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俺は正気だ。
誰が何と言おうと絶対に正気なんだ。
毎朝目を覚まして最初にすることは、この確認だった。
「いや、お前は狂っている」「どうでもいいから早く起きろ」「もう少し寝たほうがいい」「遅刻するぞ」「急げば十分間に合う」「紅葉、朝食を食べろ」
相変わらず頭の中で声が響くが、今ではもうスムーズに起き上がることができる。以前は何度もベッドに出たり入ったりを繰り返し、結果的に日常生活に多大なマイナスの影響を及ぼしていた時期もあった。
だから何も考えなくて済むようにルールを定め、その通りに動くことを決めた。
ルールは大切だ。
一時停止などの交通ルールや、強盗や殺人をしてはいけないという法律、学校や会社での細かい決まりごとなど、あらゆる場所にルールが存在する。
それを破れば社会的制裁を受けたり、窮地に追いやられたりと、つまりは損をすることになる。たとえ運良く処罰を免れたとしても、そんなことを繰り返していては、いずれは痛い目を見ることになるだろう。
しかし、ここで俺が言いたいのは、そのような社会一般的な決まりごとではなく、プライベートなマイルールのことだ。
過去の失敗から自分がやってはいけないタブーを明確に定め、その制限された中で最大限楽しみを見つけて生活する。そのルールを守っている間は、疼痛に苦しむ末期癌患者がモルヒネを打った時のように穏やかな気分でいられることが分かっている。
だからこんな風に、ここからのルーチンも365日毎日一緒だ。
7時に目を覚まして一階に降りるとテレビのスイッチを入れる。キッチンへ行き、お湯を沸かし、トースターを5分にセット。その間にトイレを済ませる。まだ頭は寝起きでぼんやりとしているが気にしない。
そして、地下室で飼っているぺットに餌と水をやったら、じょうろの水を二階のプランターの植物にやる。清々しい朝日を受け、紅葉のような形の葉が水を弾いて揺れている。
「俺の名前は紅葉じゃなくて紅葉だっつーの。ふふっ」
こんな独り言まで毎朝一緒だ。
階段を降りて行く途中でトースターがチンと鳴って焼き上がりを教えてくれる。昨日と同じで下から3段目だ。正確さに思わず頰が緩んだ。
焼きあがったトーストを食卓に並べ、コーヒーの苦味を口に感じると、脳がすっきりと覚醒する。これも同じタイミングだった。
テレビを点け、トーストを齧った。やっているのはニュースではなく、自分で撮影し、編集した動画だった。変わった趣味だねと言われることもあるが、ニュースは毎日違うものを流すし、映画などもそれほど好きじゃない。自作動画が一番テンションが上がるのだ。今日も頑張って大学生するかという気にさせてくれる。
これ以上は割愛するが、毎日こんな感じだ。やむを得ない場合を除き、できる限りこのルールに沿って行動するように心がけている。相手が誰であろうと、マイルールの遵守を侵害されるのは不快だ。それがくだらない理由ならなおさらだ。
だから身支度を整え、楽しいキャンパスライフを満喫するかと意気込んだ矢先、玄関のチャイムが鳴ったのには驚いたし、げんなりした。
セールスだろうか。落ち着かない気分だ。心臓がドキドキする。ルール通りであれば、アポなし訪問には居留守を使うということになっているのだが……。
「早く出ろ」「ビクビクしすぎよ」「早く出ろって」
俺は脳内音声を無視しつつ、ソファに腰を下ろしてスマホで暇を潰し始めた。しばらくすれば諦めて帰るだろう。
しかし、来訪者は二度目のチャイムを鳴らしてくる。何だか気分が悪くなってきた俺は冷蔵庫から座薬を取り出し、トイレで挿入した。これから大学だというのに吐いたら困る。
三度目のチャイムで俺は苛々し始めた。時計を見ると8時10分。いつもの時間をオーバーしていることも背中を押した。
「そうだ、いけいけ」「ルールは?」「でけぇ声で、オラッって言ったれ!」
鞄を持って、靴を履く。頭の中でセールスを断るシュミレーションをしつつ、玄関のドアを勢い良く開けた。あわよくばぶつけてやろうという悪意も持っていた。
今思えば明らかに不用心だったと反省している。
最初に目に飛び込んで来たのは真っ黒なスーツだったが、セールスの類でないことは明らかだった。
その人物は奇妙な仮面を被っていたからだ。
気づけば玄関の床に突っ伏していた。何をされたのかわからない。身体中が痺れているような感覚に覆われ、力が抜けていく。助けを呼ぶことすらできそうにない。
薄っすらと残された視界には、さらに複数の人影。もっとも足元しか見えず、誰なのかはわからない。
だが、これだけはわかった。
やはりルールに外れた行動をすると、ろくなことにはならないのだ。
意識を失う前、そんなことを思った。
アマテラス財団 担当者様
いつもお世話になっております。
被験者全員を確保しましたのでオルシア製薬に依頼された「人格交代誘発薬」、通称Aドラッグの臨床試験を予定通り開始いたします。
例のギムナジウムを五日間貸していただきます。つきましては、一般人の施設への出入り禁止、周辺道路の封鎖と警備の徹底をお願いします。
スケジュールはこのメールに添付したファイルの通りです。
最後に、必要ないかとは思いますが、最終日には腕利きの人間を何人か施設の周りに配置させておいてください。万が一がないようにするのが私の仕事ですが、念には念をというやつです。
開発業務受託機関「ツキヨミ」メビウスより。
誰が何と言おうと絶対に正気なんだ。
毎朝目を覚まして最初にすることは、この確認だった。
「いや、お前は狂っている」「どうでもいいから早く起きろ」「もう少し寝たほうがいい」「遅刻するぞ」「急げば十分間に合う」「紅葉、朝食を食べろ」
相変わらず頭の中で声が響くが、今ではもうスムーズに起き上がることができる。以前は何度もベッドに出たり入ったりを繰り返し、結果的に日常生活に多大なマイナスの影響を及ぼしていた時期もあった。
だから何も考えなくて済むようにルールを定め、その通りに動くことを決めた。
ルールは大切だ。
一時停止などの交通ルールや、強盗や殺人をしてはいけないという法律、学校や会社での細かい決まりごとなど、あらゆる場所にルールが存在する。
それを破れば社会的制裁を受けたり、窮地に追いやられたりと、つまりは損をすることになる。たとえ運良く処罰を免れたとしても、そんなことを繰り返していては、いずれは痛い目を見ることになるだろう。
しかし、ここで俺が言いたいのは、そのような社会一般的な決まりごとではなく、プライベートなマイルールのことだ。
過去の失敗から自分がやってはいけないタブーを明確に定め、その制限された中で最大限楽しみを見つけて生活する。そのルールを守っている間は、疼痛に苦しむ末期癌患者がモルヒネを打った時のように穏やかな気分でいられることが分かっている。
だからこんな風に、ここからのルーチンも365日毎日一緒だ。
7時に目を覚まして一階に降りるとテレビのスイッチを入れる。キッチンへ行き、お湯を沸かし、トースターを5分にセット。その間にトイレを済ませる。まだ頭は寝起きでぼんやりとしているが気にしない。
そして、地下室で飼っているぺットに餌と水をやったら、じょうろの水を二階のプランターの植物にやる。清々しい朝日を受け、紅葉のような形の葉が水を弾いて揺れている。
「俺の名前は紅葉じゃなくて紅葉だっつーの。ふふっ」
こんな独り言まで毎朝一緒だ。
階段を降りて行く途中でトースターがチンと鳴って焼き上がりを教えてくれる。昨日と同じで下から3段目だ。正確さに思わず頰が緩んだ。
焼きあがったトーストを食卓に並べ、コーヒーの苦味を口に感じると、脳がすっきりと覚醒する。これも同じタイミングだった。
テレビを点け、トーストを齧った。やっているのはニュースではなく、自分で撮影し、編集した動画だった。変わった趣味だねと言われることもあるが、ニュースは毎日違うものを流すし、映画などもそれほど好きじゃない。自作動画が一番テンションが上がるのだ。今日も頑張って大学生するかという気にさせてくれる。
これ以上は割愛するが、毎日こんな感じだ。やむを得ない場合を除き、できる限りこのルールに沿って行動するように心がけている。相手が誰であろうと、マイルールの遵守を侵害されるのは不快だ。それがくだらない理由ならなおさらだ。
だから身支度を整え、楽しいキャンパスライフを満喫するかと意気込んだ矢先、玄関のチャイムが鳴ったのには驚いたし、げんなりした。
セールスだろうか。落ち着かない気分だ。心臓がドキドキする。ルール通りであれば、アポなし訪問には居留守を使うということになっているのだが……。
「早く出ろ」「ビクビクしすぎよ」「早く出ろって」
俺は脳内音声を無視しつつ、ソファに腰を下ろしてスマホで暇を潰し始めた。しばらくすれば諦めて帰るだろう。
しかし、来訪者は二度目のチャイムを鳴らしてくる。何だか気分が悪くなってきた俺は冷蔵庫から座薬を取り出し、トイレで挿入した。これから大学だというのに吐いたら困る。
三度目のチャイムで俺は苛々し始めた。時計を見ると8時10分。いつもの時間をオーバーしていることも背中を押した。
「そうだ、いけいけ」「ルールは?」「でけぇ声で、オラッって言ったれ!」
鞄を持って、靴を履く。頭の中でセールスを断るシュミレーションをしつつ、玄関のドアを勢い良く開けた。あわよくばぶつけてやろうという悪意も持っていた。
今思えば明らかに不用心だったと反省している。
最初に目に飛び込んで来たのは真っ黒なスーツだったが、セールスの類でないことは明らかだった。
その人物は奇妙な仮面を被っていたからだ。
気づけば玄関の床に突っ伏していた。何をされたのかわからない。身体中が痺れているような感覚に覆われ、力が抜けていく。助けを呼ぶことすらできそうにない。
薄っすらと残された視界には、さらに複数の人影。もっとも足元しか見えず、誰なのかはわからない。
だが、これだけはわかった。
やはりルールに外れた行動をすると、ろくなことにはならないのだ。
意識を失う前、そんなことを思った。
アマテラス財団 担当者様
いつもお世話になっております。
被験者全員を確保しましたのでオルシア製薬に依頼された「人格交代誘発薬」、通称Aドラッグの臨床試験を予定通り開始いたします。
例のギムナジウムを五日間貸していただきます。つきましては、一般人の施設への出入り禁止、周辺道路の封鎖と警備の徹底をお願いします。
スケジュールはこのメールに添付したファイルの通りです。
最後に、必要ないかとは思いますが、最終日には腕利きの人間を何人か施設の周りに配置させておいてください。万が一がないようにするのが私の仕事ですが、念には念をというやつです。
開発業務受託機関「ツキヨミ」メビウスより。
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