134 / 135
♯133
しおりを挟む
手洗いに行くという未乃梨を見送ると、千鶴はプログラムを見直しながら、前半の二曲を思い返していた。
(初めて聴く曲だったし、良くわかんなかったけど……「魔弾の射手」は何か格好良かったし、「静かな海と楽しい航海」は旅行に出かけるみたいで楽しい感じだったかな……あと)
オーケストラの演奏中、千鶴はどうしても目と耳を離せないことがあった。
(コントラバス、「静かな海と楽しい航海」で優しくて、頼もしい音がして……やっぱり、本条先生が弾いてるから、かなあ。私もあんな風に弾けるように……やっぱり、難しいんだろうな)
考えてみると、千鶴がプロのコントラバス奏者を意識して生の演奏会で聴くのはこの日が初めてなのだった。本条と自分の演奏に途方もない隔たりがありそうなことは、コントラバスを弾き始めて間がない千鶴にも容易に想像がつく。
(あんな優しくて、頼もしい音で伴奏できたら、凛々子さんも、未乃梨も、喜んでくれるかな……でも、どこで? どこの本番で? そもそもコントラバスを始めたのって、未乃梨に誘われて、だし……)
そこまで思い至ったところで、千鶴の隣の席に未乃梨が戻ってきた。
「あ、おかえり」
「ただいま。パンフ、何か気になることでも書いてあった?」
千鶴の膝の上に広げられているパンフレットに、未乃梨が目を落とす。
「前半の『静かな海と楽しい航海』って曲、あったじゃない? あの曲のコントラバス、良いなって思ったんだけどね」
千鶴は、パンフレットの後ろの方にある、演奏者の一覧が載ったページを開いた。その中で、コントラバスパートの名前が並ぶ中で筆頭に書かれている、「本条舞衣子」という名前を指差して未乃梨に見せる。
「この本条って先生、前にここのオーケストラに見学に行った時にも弾いてたんだけど、何とかってオーケストラで弾いてるプロの先生なんだって」
「プロの弦バスの先生? そうなんだ?」
「練習の後でちょっとお話を聞かせてもらってさ。なんだか、優しそうで素敵な人だった」
「……ふーん、そうなんだ」
未乃梨は、演奏会の前半のプログラムでコントラバスパートの先頭に座って弾いていた、穏やかそうで子供に好かれそうな印象のある女性の奏者を思い返して、気持ちがまた微かにざわついた。
(この本条っていう先生、弦バスの先頭で弾いてた女の人だよね。優しそうで綺麗で、なんか母性っていうかお母さんっぽい、あの人)
七分袖の白いブラウスに黒のロングスカートという衣装の本条を思い返しつつ、未乃梨は演奏者が入る前の舞台の上を見た。舞台の上手にはコントラバスが五台、演奏する時に座る高い椅子とは別に用意されたパイプ椅子に斜めに寝かせるような形で立てかけてある。
(凛々子さん、……千鶴にあそこに座ってもらうつもりで、放課後に教えに来たりしてるのかな、やっぱり)
舞台袖には、間もなく始まる演奏会後半に備えて、星の宮ユースオーケストラの演奏者が既に集まっていた。
上手側の袖では、舞台の中程に座るヴィオラやその奥に座るオーボエやトロンボーン、舞台上手の前にいるチェロ、その後ろに座を占めるコントラバス
と、舞台に上がる順に演奏者が一部のパートを除いてそれぞれの楽器を手にして並んでいる。
チェロを持った智花 は、ヴィオラを手にして舞台の入り口のすぐ側にいる瑞香に忍び足で近付くと、そっと耳打ちをした。
「高校最後の本番のメインの曲に臨む気持ちはどう?」
「やっぱり、名残り惜しいっていうか、ちょっと寂しいかな。今日やる『グレート』、すごく良い仕上がりだしね」
そう言って笑ってみせる瑞香に、もう一人、弓だけを持った者が近寄ってきた。
「大学に受かったら、ヴィオラとオーケストラは続けるんだよね。受験、頑張ってね」
コントラバスの弓を手にしてそう微笑みかける本条に、瑞香も、智花も頷いた。
「第一志望は智花と同じ大学なんで、合格したら星の宮ユースに戻って来ます」
「ま、私と違って、瑞香なら余裕でしょ」
笑いあう二人に、本条は困ったように笑ってみせた。
「全く、本番前にイチャついちゃって」
「良いじゃないですか。本条先生だってご主人とラブラブなんだし」
「そうですよ。この前のリサイタル、ピアノ伴奏の旦那さんと楽屋でべったりだったんでしょ?」
背後からの声に、本条はばつの悪そうな顔で頭を掻きながら振り返る。声の主は、瑞香よりやや背の低い、コントラバスの弓を手にした三つ編みの髪の少女だった。三つ編みの少女は小声で本条に告げる。
「波多野さん。ああ、あの時は聴きに来てくれてありがとね」
「本条先生、この前見学に来たあの背の高い子が聴きに来たからって、ご機嫌ですね?」
「あの子はどこにいても目立つよ。舞台から見て、すぐにわかったからね」
波多野と一緒に、本条は忍び足でコントラバスパートが集まっている辺りに戻った。チェロを手にしながら小さく咳払いをする吉浦を遠巻きに避けつつ、本条は波多野に小声に話す。
「見学で私のコントラバスを弾かせたら我流で『第九』を弾いちゃうような肝の座った子だもの。星の宮に来ないかなって思っちゃうよ」
「吹奏楽部で弾いてる子でしたっけ。私も、ああいう子と一緒に弾いて見たいかも」
三つ編みを揺らして笑う波多野に、本条は開く直前の舞台袖の扉を見ながら応える。
「じゃ、あの江崎さんって子にも楽しんでもらえるように、今日は張り切って行こうか」
「はい」
波多野は小声で、本条に強く頷いた。
(続く)
(初めて聴く曲だったし、良くわかんなかったけど……「魔弾の射手」は何か格好良かったし、「静かな海と楽しい航海」は旅行に出かけるみたいで楽しい感じだったかな……あと)
オーケストラの演奏中、千鶴はどうしても目と耳を離せないことがあった。
(コントラバス、「静かな海と楽しい航海」で優しくて、頼もしい音がして……やっぱり、本条先生が弾いてるから、かなあ。私もあんな風に弾けるように……やっぱり、難しいんだろうな)
考えてみると、千鶴がプロのコントラバス奏者を意識して生の演奏会で聴くのはこの日が初めてなのだった。本条と自分の演奏に途方もない隔たりがありそうなことは、コントラバスを弾き始めて間がない千鶴にも容易に想像がつく。
(あんな優しくて、頼もしい音で伴奏できたら、凛々子さんも、未乃梨も、喜んでくれるかな……でも、どこで? どこの本番で? そもそもコントラバスを始めたのって、未乃梨に誘われて、だし……)
そこまで思い至ったところで、千鶴の隣の席に未乃梨が戻ってきた。
「あ、おかえり」
「ただいま。パンフ、何か気になることでも書いてあった?」
千鶴の膝の上に広げられているパンフレットに、未乃梨が目を落とす。
「前半の『静かな海と楽しい航海』って曲、あったじゃない? あの曲のコントラバス、良いなって思ったんだけどね」
千鶴は、パンフレットの後ろの方にある、演奏者の一覧が載ったページを開いた。その中で、コントラバスパートの名前が並ぶ中で筆頭に書かれている、「本条舞衣子」という名前を指差して未乃梨に見せる。
「この本条って先生、前にここのオーケストラに見学に行った時にも弾いてたんだけど、何とかってオーケストラで弾いてるプロの先生なんだって」
「プロの弦バスの先生? そうなんだ?」
「練習の後でちょっとお話を聞かせてもらってさ。なんだか、優しそうで素敵な人だった」
「……ふーん、そうなんだ」
未乃梨は、演奏会の前半のプログラムでコントラバスパートの先頭に座って弾いていた、穏やかそうで子供に好かれそうな印象のある女性の奏者を思い返して、気持ちがまた微かにざわついた。
(この本条っていう先生、弦バスの先頭で弾いてた女の人だよね。優しそうで綺麗で、なんか母性っていうかお母さんっぽい、あの人)
七分袖の白いブラウスに黒のロングスカートという衣装の本条を思い返しつつ、未乃梨は演奏者が入る前の舞台の上を見た。舞台の上手にはコントラバスが五台、演奏する時に座る高い椅子とは別に用意されたパイプ椅子に斜めに寝かせるような形で立てかけてある。
(凛々子さん、……千鶴にあそこに座ってもらうつもりで、放課後に教えに来たりしてるのかな、やっぱり)
舞台袖には、間もなく始まる演奏会後半に備えて、星の宮ユースオーケストラの演奏者が既に集まっていた。
上手側の袖では、舞台の中程に座るヴィオラやその奥に座るオーボエやトロンボーン、舞台上手の前にいるチェロ、その後ろに座を占めるコントラバス
と、舞台に上がる順に演奏者が一部のパートを除いてそれぞれの楽器を手にして並んでいる。
チェロを持った智花 は、ヴィオラを手にして舞台の入り口のすぐ側にいる瑞香に忍び足で近付くと、そっと耳打ちをした。
「高校最後の本番のメインの曲に臨む気持ちはどう?」
「やっぱり、名残り惜しいっていうか、ちょっと寂しいかな。今日やる『グレート』、すごく良い仕上がりだしね」
そう言って笑ってみせる瑞香に、もう一人、弓だけを持った者が近寄ってきた。
「大学に受かったら、ヴィオラとオーケストラは続けるんだよね。受験、頑張ってね」
コントラバスの弓を手にしてそう微笑みかける本条に、瑞香も、智花も頷いた。
「第一志望は智花と同じ大学なんで、合格したら星の宮ユースに戻って来ます」
「ま、私と違って、瑞香なら余裕でしょ」
笑いあう二人に、本条は困ったように笑ってみせた。
「全く、本番前にイチャついちゃって」
「良いじゃないですか。本条先生だってご主人とラブラブなんだし」
「そうですよ。この前のリサイタル、ピアノ伴奏の旦那さんと楽屋でべったりだったんでしょ?」
背後からの声に、本条はばつの悪そうな顔で頭を掻きながら振り返る。声の主は、瑞香よりやや背の低い、コントラバスの弓を手にした三つ編みの髪の少女だった。三つ編みの少女は小声で本条に告げる。
「波多野さん。ああ、あの時は聴きに来てくれてありがとね」
「本条先生、この前見学に来たあの背の高い子が聴きに来たからって、ご機嫌ですね?」
「あの子はどこにいても目立つよ。舞台から見て、すぐにわかったからね」
波多野と一緒に、本条は忍び足でコントラバスパートが集まっている辺りに戻った。チェロを手にしながら小さく咳払いをする吉浦を遠巻きに避けつつ、本条は波多野に小声に話す。
「見学で私のコントラバスを弾かせたら我流で『第九』を弾いちゃうような肝の座った子だもの。星の宮に来ないかなって思っちゃうよ」
「吹奏楽部で弾いてる子でしたっけ。私も、ああいう子と一緒に弾いて見たいかも」
三つ編みを揺らして笑う波多野に、本条は開く直前の舞台袖の扉を見ながら応える。
「じゃ、あの江崎さんって子にも楽しんでもらえるように、今日は張り切って行こうか」
「はい」
波多野は小声で、本条に強く頷いた。
(続く)
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】
S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。
物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。
俺にはロシア人ハーフの許嫁がいるらしい。
夜兎ましろ
青春
高校入学から約半年が経ったある日。
俺たちのクラスに転入生がやってきたのだが、その転入生は俺――雪村翔(ゆきむら しょう)が幼い頃に結婚を誓い合ったロシア人ハーフの美少女だった……!?
夏の決意
S.H.L
青春
主人公の遥(はるか)は高校3年生の女子バスケットボール部のキャプテン。部員たちとともに全国大会出場を目指して練習に励んでいたが、ある日、突然のアクシデントによりチームは崩壊の危機に瀕する。そんな中、遥は自らの決意を示すため、坊主頭になることを決意する。この決意はチームを再び一つにまとめるきっかけとなり、仲間たちとの絆を深め、成長していく青春ストーリー。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる