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♯132
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オーケストラを食い入るように見つめながら聴き入る千鶴の横顔に、未乃梨はそっと目をやった。
(あれ? 千鶴、見てる方向が、凛々子さんのいるヴァイオリンじゃ、ない……?)
未乃梨は、千鶴の視線が向かう先を追った。そこには、四人のまだ十代から二十代の学生と思われるコントラバスの演奏者たちの先頭にいる、三十代前半ぐらいと思われる女性のコントラバス奏者がいた。
その奏者は、所作の自然さからして明らかに生半可な腕ではないことが、弦楽器については門外漢の未乃梨にもはっきりと見て取れた。その、穏やかさを保ったままの表情は、誰が見ても美人の部類だろう。小学校の教師だったら教え子から人気のありそうなタイプに、未乃梨には思えた。
その女性のコントラバス奏者は、未乃梨の目から見ても、随分と楽そうに演奏している。余計な動作や余分な力を掛けずに、理想的なコントロールでコントラバスを弾いていることは、未乃梨にも察しがついた。
弦楽器の和声が波が凪ぐように静まって、海鳥が鳴き交わすようなフルートのパッセージが現れて音楽が楽しげに表情を変えても、未乃梨はその女性のコントラバス奏者から目が離せなかった。
(凛々子さんとか、「あさがお園」で一緒に演奏した瑞香さんや智花さん以外にも、千鶴を変えちゃうかもしれない人が、このオーケストラにはいるんだ……)
しっかりと風を捉えた船の帆がはためくように、前向きに駆け上がるヴィオラとチェロのパッセージは、かえって未乃梨の心をざわつかせた。どこまでも屈託のないメンデルスゾーンの生んだ楽想が、未乃梨 の中に焦りや不安に似た影を落とし始める。
(凛々子さん、やっぱりオーケストラに千鶴を引き込もうとしてるんじゃないだろうか)
ざっと見て六十人ほどいる、高校の吹奏楽部よりは明らかに多い人数であるにも関わらず、何のミスもなく静まるピアニッシモや、ファゴットの隣にいる見慣れない大きな木管楽器の鳴らす低音に、未乃梨の心理は乱され続けた。
(もし、こういう演奏会で千鶴が弦バスを弾くようになったら、もう私の側にはいてくれなくなっちゃうの……?)
今度は恐る恐る、未乃梨は千鶴の横顔を見上げた。無事に航海を終えた船を迎えるようなトランペットのファンファーレが鳴り響いても、安堵したようにフェルマータで伸びる最後の和音が消えて、客席から拍手が巻き起こっても、未乃梨の心はどうしても晴れなかった。
「静かな海と楽しい航海」が終わって、星の宮ユースオーケストラの演奏会は休憩時間に入った。
休憩のアナウンスを聞いてから、未乃梨はそそくさと座席を立つ。
「千鶴、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
未乃梨は、思った以上に千鶴がオーケストラに興味を抱いていそうな様子に、少しばかり動揺していたし、気が沈んでもいた。
(そりゃあ、弦楽器をやってる人たちに見てもらった方が千鶴だって上達するだろうし、そうなったら来年はきっと千鶴もコンクールに一緒に出られると思うから、千鶴が弦バスを上手くなる分にはいいけど――)
そこまで考えあぐねて、未乃梨はホールの手洗いの鏡を見た。
(いっけない。私、何落ち込んだ顔をしてるのよ。私がこんなんじゃ、千鶴も楽しめないじゃない)
そろそろ込みはじめたホールの手洗いから退散すると、未乃梨はロビーに出て、ポシェットに入れていたサイレントモードにしてある自分のスマホを見た。待ち受けには、演奏会の前半に届いた思われるメッセージがいくつか表示されている。その中には、あの桃花高校の織田からのものもあった。
未乃梨は織田からのメッセージを開いた。「今日は楽しんできてね。また何か進展あったら、教えてね」という簡潔な文面が、織田らしい。
その返信の文面を、未乃梨は早速打ち始める。
――オーケストラの演奏会、楽しんでます。今は休憩。千鶴、私よりオーケストラに夢中みたいです
未乃梨はそこまで書いて、送信しようかどうか迷った。
(本当に千鶴のことで考えてることって、こんな単純じゃ、ない。……でも)
未乃梨はロビーの隅に置かれた、紙コップの飲み物の自販機でホットのカフェオレを買った。手洗いに立つと千鶴に言って出てきたのに、飲み物を買っているのは少し矛盾している気が未乃梨にはしたが、それでも未乃梨は何とかして気持ちを落ち着かせたかった。
(瑠衣さんに、千鶴が私から離れてっちゃうかもしれないなんてこと、相談なんて出来ない……。って言うか、千鶴が吹部を辞めてオーケストラに入ったとかそういう訳じゃないのに、そんなことを相談しても瑠衣さんが困っちゃうよ)
意外にぬるくなるのが早かった紙コップのカフェオレの飲み干すと、未乃梨は織田からのメッセージを打ち直しはじめた。
――オーケストラの演奏会、楽しんでます。今は休憩。また、今夜にでもメッセージしますね
この短い文面を打つのに、未乃梨はどっと疲れたような気がした。演奏会の後半が始まるまでは、まだまだ時間の余裕がありそうだ。
(次は「グレート」って曲だっけ。この一曲だけで演奏会の後半だなんて、どういうことなんだか)
未乃梨はそのことを疑問に思いつつ、隣に千鶴が座っているホールの客席へと急いだ。
(続く)
(あれ? 千鶴、見てる方向が、凛々子さんのいるヴァイオリンじゃ、ない……?)
未乃梨は、千鶴の視線が向かう先を追った。そこには、四人のまだ十代から二十代の学生と思われるコントラバスの演奏者たちの先頭にいる、三十代前半ぐらいと思われる女性のコントラバス奏者がいた。
その奏者は、所作の自然さからして明らかに生半可な腕ではないことが、弦楽器については門外漢の未乃梨にもはっきりと見て取れた。その、穏やかさを保ったままの表情は、誰が見ても美人の部類だろう。小学校の教師だったら教え子から人気のありそうなタイプに、未乃梨には思えた。
その女性のコントラバス奏者は、未乃梨の目から見ても、随分と楽そうに演奏している。余計な動作や余分な力を掛けずに、理想的なコントロールでコントラバスを弾いていることは、未乃梨にも察しがついた。
弦楽器の和声が波が凪ぐように静まって、海鳥が鳴き交わすようなフルートのパッセージが現れて音楽が楽しげに表情を変えても、未乃梨はその女性のコントラバス奏者から目が離せなかった。
(凛々子さんとか、「あさがお園」で一緒に演奏した瑞香さんや智花さん以外にも、千鶴を変えちゃうかもしれない人が、このオーケストラにはいるんだ……)
しっかりと風を捉えた船の帆がはためくように、前向きに駆け上がるヴィオラとチェロのパッセージは、かえって未乃梨の心をざわつかせた。どこまでも屈託のないメンデルスゾーンの生んだ楽想が、未乃梨 の中に焦りや不安に似た影を落とし始める。
(凛々子さん、やっぱりオーケストラに千鶴を引き込もうとしてるんじゃないだろうか)
ざっと見て六十人ほどいる、高校の吹奏楽部よりは明らかに多い人数であるにも関わらず、何のミスもなく静まるピアニッシモや、ファゴットの隣にいる見慣れない大きな木管楽器の鳴らす低音に、未乃梨の心理は乱され続けた。
(もし、こういう演奏会で千鶴が弦バスを弾くようになったら、もう私の側にはいてくれなくなっちゃうの……?)
今度は恐る恐る、未乃梨は千鶴の横顔を見上げた。無事に航海を終えた船を迎えるようなトランペットのファンファーレが鳴り響いても、安堵したようにフェルマータで伸びる最後の和音が消えて、客席から拍手が巻き起こっても、未乃梨の心はどうしても晴れなかった。
「静かな海と楽しい航海」が終わって、星の宮ユースオーケストラの演奏会は休憩時間に入った。
休憩のアナウンスを聞いてから、未乃梨はそそくさと座席を立つ。
「千鶴、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
未乃梨は、思った以上に千鶴がオーケストラに興味を抱いていそうな様子に、少しばかり動揺していたし、気が沈んでもいた。
(そりゃあ、弦楽器をやってる人たちに見てもらった方が千鶴だって上達するだろうし、そうなったら来年はきっと千鶴もコンクールに一緒に出られると思うから、千鶴が弦バスを上手くなる分にはいいけど――)
そこまで考えあぐねて、未乃梨はホールの手洗いの鏡を見た。
(いっけない。私、何落ち込んだ顔をしてるのよ。私がこんなんじゃ、千鶴も楽しめないじゃない)
そろそろ込みはじめたホールの手洗いから退散すると、未乃梨はロビーに出て、ポシェットに入れていたサイレントモードにしてある自分のスマホを見た。待ち受けには、演奏会の前半に届いた思われるメッセージがいくつか表示されている。その中には、あの桃花高校の織田からのものもあった。
未乃梨は織田からのメッセージを開いた。「今日は楽しんできてね。また何か進展あったら、教えてね」という簡潔な文面が、織田らしい。
その返信の文面を、未乃梨は早速打ち始める。
――オーケストラの演奏会、楽しんでます。今は休憩。千鶴、私よりオーケストラに夢中みたいです
未乃梨はそこまで書いて、送信しようかどうか迷った。
(本当に千鶴のことで考えてることって、こんな単純じゃ、ない。……でも)
未乃梨はロビーの隅に置かれた、紙コップの飲み物の自販機でホットのカフェオレを買った。手洗いに立つと千鶴に言って出てきたのに、飲み物を買っているのは少し矛盾している気が未乃梨にはしたが、それでも未乃梨は何とかして気持ちを落ち着かせたかった。
(瑠衣さんに、千鶴が私から離れてっちゃうかもしれないなんてこと、相談なんて出来ない……。って言うか、千鶴が吹部を辞めてオーケストラに入ったとかそういう訳じゃないのに、そんなことを相談しても瑠衣さんが困っちゃうよ)
意外にぬるくなるのが早かった紙コップのカフェオレの飲み干すと、未乃梨は織田からのメッセージを打ち直しはじめた。
――オーケストラの演奏会、楽しんでます。今は休憩。また、今夜にでもメッセージしますね
この短い文面を打つのに、未乃梨はどっと疲れたような気がした。演奏会の後半が始まるまでは、まだまだ時間の余裕がありそうだ。
(次は「グレート」って曲だっけ。この一曲だけで演奏会の後半だなんて、どういうことなんだか)
未乃梨はそのことを疑問に思いつつ、隣に千鶴が座っているホールの客席へと急いだ。
(続く)
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