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「魔弾の射手」序曲が始まってから、千鶴はひたすらオーケストラの動向を追っていた。
とうとうと流れる弦楽器の和音の上で伸びやかに歌う、四人の奏者が吹くホルン。何かを告げるようなティンパニと、ざわつき出す弦楽器を伴う木管楽器の不安を掻き立てるような掛け合い。
(あれ? 舞台の後ろの方にいる管楽器って、部活で使っているのとおんなじやつだよね? ……何か、部活で聴いたことのある音とどっか違うような……?)
初めて演奏会場で聴くオーケストラの響きは、千鶴にとっては未知の領域だった。
一方で、その千鶴の隣の座席に座っている未乃梨は、どうしてもオーケストラの中にいる木管楽器、特に自分が吹いているフルートの奏者が気になっていた。その中で、未乃梨はとあることが気にかかった。
(あれ? この曲って、フルートの出番はないの?)
未乃梨がそう誤認してしまうほど、ステージの上にいる、二人のフルート奏者には動きがなかった。その二人が未乃梨や隣に座る千鶴とおそらくは似たような年頃の、黒いスーツを着た男の子というのも珍しく感じてしまう。
(うちの吹部じゃ、木管はサックス以外は女の子の方が多いもんね……あっ)
ヴァイオリンやチェロのざわつく響きが盛り上がっていき、曲想が勢いを増した辺りで二人のフルート奏者がやっと楽器を構えた。ところが、フルートの音はヴァイオリンやオーボエといった他の木管楽器と重なることがしょっちゅうで、フルートが単体で出てくるところはほとんど無いように思われる。
それでも、未乃梨はほぼ初めて聴く「魔弾の射手」の序曲を、いつしか音楽の中に引き込まれるように聴いていた。
(でも、何か、この曲って吹いたら楽しそう? フルートパートはそんなに目立たないけど、……ヴァイオリンと一緒に混ざって吹くのも面白いかもしれないし)
何度かヴァイオリンパートの最前で弾いている凛々子の姿を見るうちに、未乃梨の中のわだかまりは薄らいでいた。
「魔弾の射手」の序曲のあと、短く間をおいてオーケストラが再び舞台上でチューニングを行っている間、千鶴は二曲目についてのパンフレットの解説に目を通した。
(次が「静かな海と楽しい航海」……曲を作ったのがフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディっていう人……日本が江戸時代の終わりぐらいの頃のドイツの作曲家で、お爺さんが哲学者だったんだ)
千鶴は、パンフレットから顔を上げて、もう一度舞台の上を見た。
木管楽器のパートの上手側の端に、吹奏楽部でも見たことがない、握り拳が楽に入りそうなほど太い金属と木の管体を組み合わせた、床に立てて構えると奏者の顔が隠れるほど大きな楽器がファゴットと一緒に並んで、随分と低い音を鳴らしてチューニングを確かめている。
千鶴は、隣に座る未乃梨の肩をつついた。
「……ねえ、未乃梨。あの楽器って見たことある?」
「えっ……? ファゴットの隣に座ってる人が抱えてるやつだよね? ちょっと、分からない」
「あれ、金属で出来てるっぽいところと木で出来てるっぽいところがあるけど……あれって木管と金管のどっちなんだろうね?」
「うーん……隣のファゴットみたいに管の横に穴が開いてて押さえるキイがあるし、木管かなあ」
千鶴と未乃梨が見慣れない楽器を見て呆気に取られているうちに、舞台上でのチューニングが終わっていた。指揮者が再び舞台下手から現れて、客席から拍手が巻き起こる。
そして、二曲目の「静かな海と楽しい航海」が始まった。
昼間の陽射しのような明るい和音が、弦楽器全員で生み出されていく。その響きに、千鶴は耳が離せなくなっていた。
和音の流れを支えているのは、舞台の上手に集まって座っているコントラバスで、その最前の席であの弦が五本張られているコントラバスを弾いている、肩にかかる程度の少しウェーブがかった髪の、七分袖の白いブラウスと黒いロングスカートの女性に、千鶴は見覚えがあった。
(本条先生、だっけ。確か、見学の時にいたプロの先生……だよね)
本条が全部で五人いる奏者の先頭に座るオーケストラのコントラバスは、見学で千鶴が聴いたのと同じか、それ以上に柔らかで、しなやかに感じられた。その音は寄せては返す海の波のように穏やかで、それでいて海の中の見えない流れのように、抗いがたい力で千鶴の耳を引き付けていく。
本条は、一見してまるで何か特別なことをしている様子もなくコントラバスを弾いていた。その表情も、幼い子供を見守る母親のように柔和で、実際に自分の後ろにいる他のコントラバスから指揮者の側にいるヴァイオリンまで、全ての弦楽器の動きを把握しているかのように目を配って弾いている。
以前にオーケストラの見学の際に千鶴が感じた、あの優し気でどこか頼もしい本条の印象は、本番の演奏でも揺らがない。
(本条先生みたいに、弾いてみたいな。コントラバスを)
千鶴は、他の弦楽器やクラリネットやファゴットがモティーフを歌い交わす中で、じっくりと和声を支えるコントラバスの先頭にいる本条に、改めて見入った。
(続く)
とうとうと流れる弦楽器の和音の上で伸びやかに歌う、四人の奏者が吹くホルン。何かを告げるようなティンパニと、ざわつき出す弦楽器を伴う木管楽器の不安を掻き立てるような掛け合い。
(あれ? 舞台の後ろの方にいる管楽器って、部活で使っているのとおんなじやつだよね? ……何か、部活で聴いたことのある音とどっか違うような……?)
初めて演奏会場で聴くオーケストラの響きは、千鶴にとっては未知の領域だった。
一方で、その千鶴の隣の座席に座っている未乃梨は、どうしてもオーケストラの中にいる木管楽器、特に自分が吹いているフルートの奏者が気になっていた。その中で、未乃梨はとあることが気にかかった。
(あれ? この曲って、フルートの出番はないの?)
未乃梨がそう誤認してしまうほど、ステージの上にいる、二人のフルート奏者には動きがなかった。その二人が未乃梨や隣に座る千鶴とおそらくは似たような年頃の、黒いスーツを着た男の子というのも珍しく感じてしまう。
(うちの吹部じゃ、木管はサックス以外は女の子の方が多いもんね……あっ)
ヴァイオリンやチェロのざわつく響きが盛り上がっていき、曲想が勢いを増した辺りで二人のフルート奏者がやっと楽器を構えた。ところが、フルートの音はヴァイオリンやオーボエといった他の木管楽器と重なることがしょっちゅうで、フルートが単体で出てくるところはほとんど無いように思われる。
それでも、未乃梨はほぼ初めて聴く「魔弾の射手」の序曲を、いつしか音楽の中に引き込まれるように聴いていた。
(でも、何か、この曲って吹いたら楽しそう? フルートパートはそんなに目立たないけど、……ヴァイオリンと一緒に混ざって吹くのも面白いかもしれないし)
何度かヴァイオリンパートの最前で弾いている凛々子の姿を見るうちに、未乃梨の中のわだかまりは薄らいでいた。
「魔弾の射手」の序曲のあと、短く間をおいてオーケストラが再び舞台上でチューニングを行っている間、千鶴は二曲目についてのパンフレットの解説に目を通した。
(次が「静かな海と楽しい航海」……曲を作ったのがフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディっていう人……日本が江戸時代の終わりぐらいの頃のドイツの作曲家で、お爺さんが哲学者だったんだ)
千鶴は、パンフレットから顔を上げて、もう一度舞台の上を見た。
木管楽器のパートの上手側の端に、吹奏楽部でも見たことがない、握り拳が楽に入りそうなほど太い金属と木の管体を組み合わせた、床に立てて構えると奏者の顔が隠れるほど大きな楽器がファゴットと一緒に並んで、随分と低い音を鳴らしてチューニングを確かめている。
千鶴は、隣に座る未乃梨の肩をつついた。
「……ねえ、未乃梨。あの楽器って見たことある?」
「えっ……? ファゴットの隣に座ってる人が抱えてるやつだよね? ちょっと、分からない」
「あれ、金属で出来てるっぽいところと木で出来てるっぽいところがあるけど……あれって木管と金管のどっちなんだろうね?」
「うーん……隣のファゴットみたいに管の横に穴が開いてて押さえるキイがあるし、木管かなあ」
千鶴と未乃梨が見慣れない楽器を見て呆気に取られているうちに、舞台上でのチューニングが終わっていた。指揮者が再び舞台下手から現れて、客席から拍手が巻き起こる。
そして、二曲目の「静かな海と楽しい航海」が始まった。
昼間の陽射しのような明るい和音が、弦楽器全員で生み出されていく。その響きに、千鶴は耳が離せなくなっていた。
和音の流れを支えているのは、舞台の上手に集まって座っているコントラバスで、その最前の席であの弦が五本張られているコントラバスを弾いている、肩にかかる程度の少しウェーブがかった髪の、七分袖の白いブラウスと黒いロングスカートの女性に、千鶴は見覚えがあった。
(本条先生、だっけ。確か、見学の時にいたプロの先生……だよね)
本条が全部で五人いる奏者の先頭に座るオーケストラのコントラバスは、見学で千鶴が聴いたのと同じか、それ以上に柔らかで、しなやかに感じられた。その音は寄せては返す海の波のように穏やかで、それでいて海の中の見えない流れのように、抗いがたい力で千鶴の耳を引き付けていく。
本条は、一見してまるで何か特別なことをしている様子もなくコントラバスを弾いていた。その表情も、幼い子供を見守る母親のように柔和で、実際に自分の後ろにいる他のコントラバスから指揮者の側にいるヴァイオリンまで、全ての弦楽器の動きを把握しているかのように目を配って弾いている。
以前にオーケストラの見学の際に千鶴が感じた、あの優し気でどこか頼もしい本条の印象は、本番の演奏でも揺らがない。
(本条先生みたいに、弾いてみたいな。コントラバスを)
千鶴は、他の弦楽器やクラリネットやファゴットがモティーフを歌い交わす中で、じっくりと和声を支えるコントラバスの先頭にいる本条に、改めて見入った。
(続く)
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