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♯119
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練習を終えて、千鶴はコントラバスの弓を緩めながら、ふと凛々子に尋ねた。
「そういえば、もうすぐ凛々子さんのオーケストラ、本番なんですよね。練習とか、大変じゃないですか?」
凛々子はヴァイオリンの弦に着いた松脂を拭き取りながら、事もなげに答える。
「そうね。練習しなければいけない譜面はたくさんあるわ。でも、大丈夫なの」
「何か、練習を短くするコツがあるとか?」
「うーん、そういうことでもある、みたいな感じかしら。寝る前にヴァイオリンに触らなくてもできる練習をやったりとかね」
凛々子の「ヴァイオリンに触らなくてもできること」という言葉に、千鶴は目を見開いた。
「やっぱり、凛々子さんも、曲やる時はその譜面を歌ったりとか、するんですか?」
千鶴に問われて、凛々子は「正解よ」と最初に短く答えた。
「実は、そこから続きがあるのだけれど、ね。あなたに『オンブラ・マイ・フ』を最初に歌ってもらったのは、そういうことを勉強してほしいからよ」
「そういう勉強……何だか難しそうですね」
「とっても面白い勉強でもあるわ。発表会の『オンブラ・マイ・フ』と『調和の霊感』で追い追い教えてあげるから、楽しみにしてらっしゃい」
いつもの笑顔でそう言って見せる凛々子に、千鶴は少し困ったように笑った。
音楽室にコントラバスを仕舞いに行く千鶴を、凛々子はいつもの昇降口に降りる階段で待った。階段に降りるときも、千鶴はいつものようにヴァイオリンケースを肩に提げている凛々子を気遣ってその手を預かった。
同じ年頃の男の子より少なくとも一回りは大きくて柔らかな千鶴の右手に、凛々子は階段を降りきっても左手を預けたままでいた。昇降口で履き物を替える時以外は、凛々子は千鶴と一緒に帰る時はそうするのが当たり前になりつつあるのだった。
凛々子は千鶴に手を引かれながら、満足そうに笑みをこぼす。
「未乃梨さんがいたら、あなたの左腕に取り付いて離れなくなるところね」
「……もう。凛々子さん、からかわないでください」
やや顔を赤らめる千鶴を、凛々子は顔を上げてじっと見つめた。
「でも、そうやって色んな人に好かれることって、千鶴さんの素敵なところだと思うわ。あなたは誰に対しても、平等に優しいのだもの」
「そう、かなあ。ちょっと、よくわかんないかも」
「未乃梨さんも、千鶴さんのそういうところを好きになったのではないかしら?」
「それは……」
千鶴は言葉を詰まらせた。中学時代に、未乃梨の手を引いて家まで送ったことが、千鶴の脳裏に映し出されていく。
凛々子は千鶴の右手を、そっと握り返した。
「今度の星の宮ユースの演奏会、未乃梨さんと一緒に来てくれるのでしょう? しっかりエスコートしてあげるのよ」
凛々子は今度はいたずらっぽく笑ってみせた。千鶴は困ったような、慌てたような顔をしてはにかんだ。
「あの、未乃梨とはそんなんじゃ……なくて……その」
はにかみながら、千鶴の声が途切れていく。
「どうしたの?」
不思議がる凛々子に、千鶴は手を預かったまま声の調子をやや無理矢理に戻した。
「未乃梨とは、ただの友達ですから。……その、気にしないでください」
「そう。……じゃ、これは未乃梨さんだけの特権じゃないってことね」
「え?」
左手に預けられた凛々子の手の温もりが滑るように動いて、千鶴は思わず立ち止まった。夏服の半袖のブラウスで白い滑らかな肌が出ている凛々子の左腕が千鶴の右腕に寄り添うように組まれて、凛々子の身体が千鶴の肩や二の腕に預けられていく。凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪の甘い香りに嗅覚をくすぐられて、千鶴は凛々子を正視するのがためらわれてしまっていた。
「言ったでしょう? 私は演奏者としてあなたと一緒にステージに立ちたいし、一人の女の子としても一緒にいたいの」
凛々子は千鶴に身を預けたまま、バス停まで歩いた。途中、凛々子は校門を出る時に、小さく聞こえる「からり」という音に、ほんの一瞬だけ千鶴の肩越しに後ろを振り向いた。千鶴は凛々子をいつものバス停まで誘導しようとして、後ろを振り向いた凛々子に気付いた。
「凛々子さん、どうかしました? 前見ないと、危ないですよ」
「ううん。気にしないで」
「ヴァイオリン持ってますし、足元、気をつけて下さいね」
「ありがとう、ナイトさん。では、また明日」
バス停に着いた辺りで、凛々子は腕をほどいてから千鶴に手を振った。程なくしてやってきたバスに乗り込む凛々子を、千鶴はただただ見送った。
パート練習を終えて、未乃梨は譜面台を音楽室に返却してから、次回の合奏練習の打ち合わせで他の木管のパート員が来るのを上級生と一緒に待っていた。音楽室の前の廊下から、未乃梨はぼんやりと外を見ていた。
ふと、開いている廊下の窓から見える校門の辺りに、未乃梨は女子生徒二人が手を取り合って歩いている後ろ姿を見た。片方は長い黒髪で、もう片方は男子より背が高くて髪をショートテイルに結っている。
(あの二人……まさか)
未乃梨は、ふと湧き上がった疑念を打ち消そうと廊下の窓を閉めた。からりとやや大きな音を立てる窓に、打ち合わせで通りかかった、サックスのケースを担いだ高森《たかもり》が小首を傾げた。
「小阪さん、どうしたの? 何か怖いものでも見た?」
「あ、その、何でもないですから!」
慌てて弁解する未乃梨に、高森は「全く。驚かせないでよ」と肩をすくめた。
(続く)
「そういえば、もうすぐ凛々子さんのオーケストラ、本番なんですよね。練習とか、大変じゃないですか?」
凛々子はヴァイオリンの弦に着いた松脂を拭き取りながら、事もなげに答える。
「そうね。練習しなければいけない譜面はたくさんあるわ。でも、大丈夫なの」
「何か、練習を短くするコツがあるとか?」
「うーん、そういうことでもある、みたいな感じかしら。寝る前にヴァイオリンに触らなくてもできる練習をやったりとかね」
凛々子の「ヴァイオリンに触らなくてもできること」という言葉に、千鶴は目を見開いた。
「やっぱり、凛々子さんも、曲やる時はその譜面を歌ったりとか、するんですか?」
千鶴に問われて、凛々子は「正解よ」と最初に短く答えた。
「実は、そこから続きがあるのだけれど、ね。あなたに『オンブラ・マイ・フ』を最初に歌ってもらったのは、そういうことを勉強してほしいからよ」
「そういう勉強……何だか難しそうですね」
「とっても面白い勉強でもあるわ。発表会の『オンブラ・マイ・フ』と『調和の霊感』で追い追い教えてあげるから、楽しみにしてらっしゃい」
いつもの笑顔でそう言って見せる凛々子に、千鶴は少し困ったように笑った。
音楽室にコントラバスを仕舞いに行く千鶴を、凛々子はいつもの昇降口に降りる階段で待った。階段に降りるときも、千鶴はいつものようにヴァイオリンケースを肩に提げている凛々子を気遣ってその手を預かった。
同じ年頃の男の子より少なくとも一回りは大きくて柔らかな千鶴の右手に、凛々子は階段を降りきっても左手を預けたままでいた。昇降口で履き物を替える時以外は、凛々子は千鶴と一緒に帰る時はそうするのが当たり前になりつつあるのだった。
凛々子は千鶴に手を引かれながら、満足そうに笑みをこぼす。
「未乃梨さんがいたら、あなたの左腕に取り付いて離れなくなるところね」
「……もう。凛々子さん、からかわないでください」
やや顔を赤らめる千鶴を、凛々子は顔を上げてじっと見つめた。
「でも、そうやって色んな人に好かれることって、千鶴さんの素敵なところだと思うわ。あなたは誰に対しても、平等に優しいのだもの」
「そう、かなあ。ちょっと、よくわかんないかも」
「未乃梨さんも、千鶴さんのそういうところを好きになったのではないかしら?」
「それは……」
千鶴は言葉を詰まらせた。中学時代に、未乃梨の手を引いて家まで送ったことが、千鶴の脳裏に映し出されていく。
凛々子は千鶴の右手を、そっと握り返した。
「今度の星の宮ユースの演奏会、未乃梨さんと一緒に来てくれるのでしょう? しっかりエスコートしてあげるのよ」
凛々子は今度はいたずらっぽく笑ってみせた。千鶴は困ったような、慌てたような顔をしてはにかんだ。
「あの、未乃梨とはそんなんじゃ……なくて……その」
はにかみながら、千鶴の声が途切れていく。
「どうしたの?」
不思議がる凛々子に、千鶴は手を預かったまま声の調子をやや無理矢理に戻した。
「未乃梨とは、ただの友達ですから。……その、気にしないでください」
「そう。……じゃ、これは未乃梨さんだけの特権じゃないってことね」
「え?」
左手に預けられた凛々子の手の温もりが滑るように動いて、千鶴は思わず立ち止まった。夏服の半袖のブラウスで白い滑らかな肌が出ている凛々子の左腕が千鶴の右腕に寄り添うように組まれて、凛々子の身体が千鶴の肩や二の腕に預けられていく。凛々子の緩くウェーブの掛かった長い黒髪の甘い香りに嗅覚をくすぐられて、千鶴は凛々子を正視するのがためらわれてしまっていた。
「言ったでしょう? 私は演奏者としてあなたと一緒にステージに立ちたいし、一人の女の子としても一緒にいたいの」
凛々子は千鶴に身を預けたまま、バス停まで歩いた。途中、凛々子は校門を出る時に、小さく聞こえる「からり」という音に、ほんの一瞬だけ千鶴の肩越しに後ろを振り向いた。千鶴は凛々子をいつものバス停まで誘導しようとして、後ろを振り向いた凛々子に気付いた。
「凛々子さん、どうかしました? 前見ないと、危ないですよ」
「ううん。気にしないで」
「ヴァイオリン持ってますし、足元、気をつけて下さいね」
「ありがとう、ナイトさん。では、また明日」
バス停に着いた辺りで、凛々子は腕をほどいてから千鶴に手を振った。程なくしてやってきたバスに乗り込む凛々子を、千鶴はただただ見送った。
パート練習を終えて、未乃梨は譜面台を音楽室に返却してから、次回の合奏練習の打ち合わせで他の木管のパート員が来るのを上級生と一緒に待っていた。音楽室の前の廊下から、未乃梨はぼんやりと外を見ていた。
ふと、開いている廊下の窓から見える校門の辺りに、未乃梨は女子生徒二人が手を取り合って歩いている後ろ姿を見た。片方は長い黒髪で、もう片方は男子より背が高くて髪をショートテイルに結っている。
(あの二人……まさか)
未乃梨は、ふと湧き上がった疑念を打ち消そうと廊下の窓を閉めた。からりとやや大きな音を立てる窓に、打ち合わせで通りかかった、サックスのケースを担いだ高森《たかもり》が小首を傾げた。
「小阪さん、どうしたの? 何か怖いものでも見た?」
「あ、その、何でもないですから!」
慌てて弁解する未乃梨に、高森は「全く。驚かせないでよ」と肩をすくめた。
(続く)
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