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♯118
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「ドリー組曲」で、未乃梨は体験したことがない種類の難所に直面していた。
放課後のフルートのパート練習で、「ドリー組曲」の第二曲の「ミ・ア・ウ」という猫の鳴き声を擬音語化したように思えるタイトルの曲で、未乃梨が任されている一番フルートに現れる、スタッカートを伴う高音域のフレーズがそれだった。
どう吹いても攻撃で鋭い音になりそうになるフルートの高音域で、しかも「dolce」(甘美に)や「leggiero」(軽やかに)と指定がされているのが、未乃梨には難題だった。二番フルートやクラリネットが受け持つ、オクターブ下から入る掛け合いと表現が合わなくなりそうなのが未乃梨には思案の種で、中学時代には出くわしたことがない種類の難所のように、未乃梨には思われた。
練習の合間に、二番のパートを吹く三年生の高橋が「ま、難しいよねえ」と溜息をついた。
「フルートは女子しかいないし、なかなかたっぷりの息で柔らかく吹くのは大変だよね」
三番を吹く仲谷も、申し訳無さそうに頭を掻いた。
「この中で高音が一番使い物になるのって小阪さんだもんね。苦労かけちゃってごめん」
「いえ、そんな。私、肺活量とかまだまだですし」
未乃梨はかえって二人に申し訳無さそうに応えた。
(低い音域は先輩たち二人のほうがちゃんと綺麗に鳴らせるから私がセカンドやサードを吹くわけにもいかないし……うーん)
内心で考え込む未乃梨に、高橋がさして焦る様子もなく声を掛けた。
「とりあえず十分ほど休憩しようか。『ドリー組曲』って、キツい練習でなんとかなる曲じゃなさそうだし」
「はーい賛成」
呑気に仲谷が伸びをして、未乃梨は声も出さずに溜息をついた。
フルートのパート練習の合間に、未乃梨は手洗いに向かおうと、練習で使っている教室を出た。
廊下に出た未乃梨の耳を、何度か間近で聴いて耳に馴染んでいる、柔らかで力強い管楽器ではない低音楽器の音が通り過ぎた。別の場所で練習している他の管楽器のパートに紛れていても、その音は未乃梨にはっきりと届いている。。
(これ、千鶴の「オンブラ・マイ・フ」だ……今日も、凛々子さんに教わってるんだよね)
手洗いの鏡の前で、未乃梨は遠くから耳に入ってくるコントラバスの「オンブラ・マイ・フ」を聴きながら立ち尽くした。
朝に植村のピアノと一緒に歌っていた千鶴の覚束ない歌よりは一歩進んだ、まだ荒削りでも演奏としてはまとまりができつつあるコントラバスの旋律が、未乃梨の中で響いていく。
(コンクールの後は、千鶴のやるこの曲を私が伴奏して、二年生になったら一緒にコンクールに出て……)
離れて聴いているせいか、コントラバスで演奏される「オンブラ・マイ・フ」はどこまでも優しく感じられた。それは、中学時代に未乃梨の手を引いて家まで送ってくれた、千鶴の大きくて柔らかな手を思い起こさせた。
(千鶴だって、四月に弦バスを始めたばっかりなのにこんなに頑張ってるんだもん。私だって……でも)
ふと、未乃梨は今どこかで千鶴の練習の相手をしている上級生を思い出さずにはいられなかった。
(その千鶴が上達してるのも、一緒にいる凛々子さんのお陰で。でも、どうして凛々子さんって千鶴と一緒にいようとするんだろう……まさか)
未乃梨は、今日の千鶴がそろそろ伸びてきた髪を結っているリボンの色を思い出した。それは、凛々子のヴァイオリンケースのワインレッド色とどこかしら似た色の、深めの赤い色だった。
(凛々子さんに教わるたびに千鶴の弦バスが上手くなってくのは私も嬉しいけど……それで千鶴が離れてっちゃうのは、嫌)
いつしか、コントラバスで弾かれる「オンブラ・マイ・フ」は、他のパートの練習音に紛れて聴こえなくなっていた。未乃梨は晴れているとは言い難い心持ちで、練習に戻っていった。
千鶴の練習は、「オンブラ・マイ・フ」の後はヴィヴァルディの「調和の霊感」に移っていた。凛々子が倍ほどの遅いテンポで三つの楽章を千鶴に弾かせてみると、ほとんどが問題なく通って、あとはテンポを上げて弾けるようになれば問題はなさそうだ。
「この曲は前に三楽章の最初だけやったけど、『オンブラ・マイ・フ』と違って目立っていいわ」
「『調和の霊感』って、結構賑やかな感じですよね」
「そうね。あとは、前に教えた旋律的短音階とかで出てくるシャープに気をつけて。一箇所、シャープのつけ忘れがあったわよ」
「はーい」
千鶴は「調和の霊感」の第一楽章のページを見返した。
(シャープを付け忘れたのはこのDの次のCisで……あれ?)
千鶴は、そのCisが出てくる箇所をもう一度見た。
(これ、最初の方でAから始まって順番に降りてくるフレーズとそっくりっていうか、高さが違うだけ、なのかな?)
千鶴は、そのCisの上に小さく「?」を鉛筆で書き込んだ。
(続く)
放課後のフルートのパート練習で、「ドリー組曲」の第二曲の「ミ・ア・ウ」という猫の鳴き声を擬音語化したように思えるタイトルの曲で、未乃梨が任されている一番フルートに現れる、スタッカートを伴う高音域のフレーズがそれだった。
どう吹いても攻撃で鋭い音になりそうになるフルートの高音域で、しかも「dolce」(甘美に)や「leggiero」(軽やかに)と指定がされているのが、未乃梨には難題だった。二番フルートやクラリネットが受け持つ、オクターブ下から入る掛け合いと表現が合わなくなりそうなのが未乃梨には思案の種で、中学時代には出くわしたことがない種類の難所のように、未乃梨には思われた。
練習の合間に、二番のパートを吹く三年生の高橋が「ま、難しいよねえ」と溜息をついた。
「フルートは女子しかいないし、なかなかたっぷりの息で柔らかく吹くのは大変だよね」
三番を吹く仲谷も、申し訳無さそうに頭を掻いた。
「この中で高音が一番使い物になるのって小阪さんだもんね。苦労かけちゃってごめん」
「いえ、そんな。私、肺活量とかまだまだですし」
未乃梨はかえって二人に申し訳無さそうに応えた。
(低い音域は先輩たち二人のほうがちゃんと綺麗に鳴らせるから私がセカンドやサードを吹くわけにもいかないし……うーん)
内心で考え込む未乃梨に、高橋がさして焦る様子もなく声を掛けた。
「とりあえず十分ほど休憩しようか。『ドリー組曲』って、キツい練習でなんとかなる曲じゃなさそうだし」
「はーい賛成」
呑気に仲谷が伸びをして、未乃梨は声も出さずに溜息をついた。
フルートのパート練習の合間に、未乃梨は手洗いに向かおうと、練習で使っている教室を出た。
廊下に出た未乃梨の耳を、何度か間近で聴いて耳に馴染んでいる、柔らかで力強い管楽器ではない低音楽器の音が通り過ぎた。別の場所で練習している他の管楽器のパートに紛れていても、その音は未乃梨にはっきりと届いている。。
(これ、千鶴の「オンブラ・マイ・フ」だ……今日も、凛々子さんに教わってるんだよね)
手洗いの鏡の前で、未乃梨は遠くから耳に入ってくるコントラバスの「オンブラ・マイ・フ」を聴きながら立ち尽くした。
朝に植村のピアノと一緒に歌っていた千鶴の覚束ない歌よりは一歩進んだ、まだ荒削りでも演奏としてはまとまりができつつあるコントラバスの旋律が、未乃梨の中で響いていく。
(コンクールの後は、千鶴のやるこの曲を私が伴奏して、二年生になったら一緒にコンクールに出て……)
離れて聴いているせいか、コントラバスで演奏される「オンブラ・マイ・フ」はどこまでも優しく感じられた。それは、中学時代に未乃梨の手を引いて家まで送ってくれた、千鶴の大きくて柔らかな手を思い起こさせた。
(千鶴だって、四月に弦バスを始めたばっかりなのにこんなに頑張ってるんだもん。私だって……でも)
ふと、未乃梨は今どこかで千鶴の練習の相手をしている上級生を思い出さずにはいられなかった。
(その千鶴が上達してるのも、一緒にいる凛々子さんのお陰で。でも、どうして凛々子さんって千鶴と一緒にいようとするんだろう……まさか)
未乃梨は、今日の千鶴がそろそろ伸びてきた髪を結っているリボンの色を思い出した。それは、凛々子のヴァイオリンケースのワインレッド色とどこかしら似た色の、深めの赤い色だった。
(凛々子さんに教わるたびに千鶴の弦バスが上手くなってくのは私も嬉しいけど……それで千鶴が離れてっちゃうのは、嫌)
いつしか、コントラバスで弾かれる「オンブラ・マイ・フ」は、他のパートの練習音に紛れて聴こえなくなっていた。未乃梨は晴れているとは言い難い心持ちで、練習に戻っていった。
千鶴の練習は、「オンブラ・マイ・フ」の後はヴィヴァルディの「調和の霊感」に移っていた。凛々子が倍ほどの遅いテンポで三つの楽章を千鶴に弾かせてみると、ほとんどが問題なく通って、あとはテンポを上げて弾けるようになれば問題はなさそうだ。
「この曲は前に三楽章の最初だけやったけど、『オンブラ・マイ・フ』と違って目立っていいわ」
「『調和の霊感』って、結構賑やかな感じですよね」
「そうね。あとは、前に教えた旋律的短音階とかで出てくるシャープに気をつけて。一箇所、シャープのつけ忘れがあったわよ」
「はーい」
千鶴は「調和の霊感」の第一楽章のページを見返した。
(シャープを付け忘れたのはこのDの次のCisで……あれ?)
千鶴は、そのCisが出てくる箇所をもう一度見た。
(これ、最初の方でAから始まって順番に降りてくるフレーズとそっくりっていうか、高さが違うだけ、なのかな?)
千鶴は、そのCisの上に小さく「?」を鉛筆で書き込んだ。
(続く)
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