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♯117
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コントラバスの調弦を終わらせると、千鶴は弓の張り具合を確かめてから、「オンブラ・マイ・フ」を凛々子の前で一人で弾き始めた。
最初のタイの付いた長い音符を、千鶴は出来るだけ遅い弓で弾いた。
(不用意に弾いたら、弓の幅が足りなくなって、朝に歌ったときみたいに音が続かなくなる……それなら)
千鶴の弓を持つ右腕全体から余計な力が抜けて、弓の毛がコントラバスの太い弦をとらえて、遅い弓でもしっかりコントラバスの弦を発音させられていた。
楽器の大きな胴体やヴァイオリンより遥かに長く張力の大きい弦も相まって、たっぷり残る残響のお陰でフレーズは弓が止まりかけても、力強い音がしっかりとつながっていく。
千鶴の弾くコントラバスが、どこまでも強く逞しい響きで鳴った。楽器のエンドピン伝いに弦の振動が教室の床から天井へと伝わって、ひたすらに決して狭くはない室内を響きで満たしていく。
(よし、上手くいってる……あれ?)
千鶴は、最後の音符の手前で凛々子の表情が目に入った。凛々子はヴァイオリンを置いて軽く腕組みをして聴いている。その表情は不満そうではないものの、感情がいつもに比べて見えづらいのが、千鶴には少し引っかかった。
「オンブラ・マイ・フ」を弾き終えた千鶴に、凛々子は静かに近寄った。
「今の千鶴さんの演奏、良かったところと悪かったところを言うわね。まずは、良かったところ」
凛々子はそこまで言うと、コントラバスの弓を持ったままの千鶴の右腕を片手で取って、自分よりずっと長身の千鶴の顔を見上げた。
「千鶴さん、今の演奏、腕の重さだけで弾けていたわ。前に『あさがお園』でやった本番より、楽器をしっかり響かせられていた。それだけで、ソロ弾く第一段階はクリアよ。で、良くなかった点だけれど」
「あの……何でしょうか」
千鶴は凛々子に右腕を取られたまま、不安そうな顔をした。
「今から説明するわ。右腕の力を抜いて」
凛々子は千鶴の弓を持ったままの、右腕の手首をつかんだままゆっくりと持ち上げた。というより、何とか苦労して持ち上げているように、千鶴には感じられた。
「千鶴さん、あなたの右腕は男の人と比べても、とんでもなく重いの。私より、そして多分、この前星の宮ユースの練習に弾きに来てくれた本条先生より、ね」
「腕の重さ、ですか?」
「そう。余計な力を抜いて弓に大きな力をかけて弦を振動させられたら、音はどこまでも強く大きくできるわ。でも、やり過ぎは禁物。今のあなたの演奏をヴァイオリンで真似ると、こんな感じなの」
凛々子はヴァイオリンを顎に挟むと、「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを弾き始めた。弓はヴァイオリンの弦の上を極めて遅い速度で動いて、今までに千鶴が聴いたことがないほどの強くて大きな音を響かせていく。それは、穏やかな「オンブラ・マイ・フ」の旋律には似つかわしくない、何かを迫るような響きだった。
弓を下ろすと、凛々子はヴァイオリンを顎に挟んだまま向き直った。
「この曲、王様が居心地の良さそうな日陰をいる歌よね。つまり、こんな風に威圧的で大きな音で弾いてはいけないのよ」
「てことは、今の私の弾き方だと、やり過ぎってことですか?」
「そう。ヴァイオリンのような小さい楽器ならともかく、残響の大きいコントラバスでこう弾いたら、ちゃんと響くホールではのんびりした表現じゃなくて、ただのシャウトになってしまうわね」
「そうなっちゃうんですね……」
しょげ返る千鶴に凛々子はそこまで言い切ると、もう一度ヴァイオリンの弓を構え直した。
「でも、こんな弾き方なら、どうかしら?」
千鶴は沈みかけた顔を上げた。「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを、凛々子がもう一度弾いている。先程より軽やかでやや速い弓の運びで、響きの豊かさはそのままに、語るように凛々子はヴァイオリンでヘンデルの書いたアリアの穏やかな旋律を描いた。
「あれ? さっきみたいにやかましく、ない?」
「そう。腕から脱力することを覚えたら、今度は右腕から弦にかかる力を制御できるようになればいいわ。そうね、最初のフレーズだけ、さっきみたいに大声で歌うんじゃなくて、話しかけるようなイメージでもう一回弾いてみて」
千鶴は再びコントラバスを構えた。楽器を構えて弓を取り直しながら、ふと思い起こすことがあった。
(昼休みにスマホの動画サイトで聴いた演奏……あんな感じなら……?)
千鶴は、昼休みに聴いたその母親より年長と思われる海外の女性の声楽家の歌声を思い出した。千鶴の弓が先程よりコントラバスの駒から離れた、指板に近い位置の弦に当てられて、過剰な腕の重さを掛けないように弓を動かしていく。
千鶴のコントラバスの音から、押し付けがましい音の大きさが抜けて、気持ちの良い木陰で休むような心地よさが響きに宿った。
(この弾き方なら、ってこと?)
それでも、気付きがあった千鶴でも気を抜くとつい右腕の重みが必要以上に右手にかかってしまうのが、まだまだ難点だった。
「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを弾き終えると、千鶴はやや自信なさげに凛々子に尋ねた
「どう、でしょうか」
「響きの作り方だけは合格よ。つぎは、今みたいに無駄に大きくない音で、最後まで弾けるようにしましょう。そういうイメージを作るためにも、練習する時は楽器で弾く前に一度歌って歌ってみてね」
「はい。やってみます」
千鶴は楽譜に、「楽器で練習する前に歌う。腕の力は抜いても弓に余計な重さをかけ過ぎない」と箇条書きで書き込んだ。
(続く)
最初のタイの付いた長い音符を、千鶴は出来るだけ遅い弓で弾いた。
(不用意に弾いたら、弓の幅が足りなくなって、朝に歌ったときみたいに音が続かなくなる……それなら)
千鶴の弓を持つ右腕全体から余計な力が抜けて、弓の毛がコントラバスの太い弦をとらえて、遅い弓でもしっかりコントラバスの弦を発音させられていた。
楽器の大きな胴体やヴァイオリンより遥かに長く張力の大きい弦も相まって、たっぷり残る残響のお陰でフレーズは弓が止まりかけても、力強い音がしっかりとつながっていく。
千鶴の弾くコントラバスが、どこまでも強く逞しい響きで鳴った。楽器のエンドピン伝いに弦の振動が教室の床から天井へと伝わって、ひたすらに決して狭くはない室内を響きで満たしていく。
(よし、上手くいってる……あれ?)
千鶴は、最後の音符の手前で凛々子の表情が目に入った。凛々子はヴァイオリンを置いて軽く腕組みをして聴いている。その表情は不満そうではないものの、感情がいつもに比べて見えづらいのが、千鶴には少し引っかかった。
「オンブラ・マイ・フ」を弾き終えた千鶴に、凛々子は静かに近寄った。
「今の千鶴さんの演奏、良かったところと悪かったところを言うわね。まずは、良かったところ」
凛々子はそこまで言うと、コントラバスの弓を持ったままの千鶴の右腕を片手で取って、自分よりずっと長身の千鶴の顔を見上げた。
「千鶴さん、今の演奏、腕の重さだけで弾けていたわ。前に『あさがお園』でやった本番より、楽器をしっかり響かせられていた。それだけで、ソロ弾く第一段階はクリアよ。で、良くなかった点だけれど」
「あの……何でしょうか」
千鶴は凛々子に右腕を取られたまま、不安そうな顔をした。
「今から説明するわ。右腕の力を抜いて」
凛々子は千鶴の弓を持ったままの、右腕の手首をつかんだままゆっくりと持ち上げた。というより、何とか苦労して持ち上げているように、千鶴には感じられた。
「千鶴さん、あなたの右腕は男の人と比べても、とんでもなく重いの。私より、そして多分、この前星の宮ユースの練習に弾きに来てくれた本条先生より、ね」
「腕の重さ、ですか?」
「そう。余計な力を抜いて弓に大きな力をかけて弦を振動させられたら、音はどこまでも強く大きくできるわ。でも、やり過ぎは禁物。今のあなたの演奏をヴァイオリンで真似ると、こんな感じなの」
凛々子はヴァイオリンを顎に挟むと、「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを弾き始めた。弓はヴァイオリンの弦の上を極めて遅い速度で動いて、今までに千鶴が聴いたことがないほどの強くて大きな音を響かせていく。それは、穏やかな「オンブラ・マイ・フ」の旋律には似つかわしくない、何かを迫るような響きだった。
弓を下ろすと、凛々子はヴァイオリンを顎に挟んだまま向き直った。
「この曲、王様が居心地の良さそうな日陰をいる歌よね。つまり、こんな風に威圧的で大きな音で弾いてはいけないのよ」
「てことは、今の私の弾き方だと、やり過ぎってことですか?」
「そう。ヴァイオリンのような小さい楽器ならともかく、残響の大きいコントラバスでこう弾いたら、ちゃんと響くホールではのんびりした表現じゃなくて、ただのシャウトになってしまうわね」
「そうなっちゃうんですね……」
しょげ返る千鶴に凛々子はそこまで言い切ると、もう一度ヴァイオリンの弓を構え直した。
「でも、こんな弾き方なら、どうかしら?」
千鶴は沈みかけた顔を上げた。「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを、凛々子がもう一度弾いている。先程より軽やかでやや速い弓の運びで、響きの豊かさはそのままに、語るように凛々子はヴァイオリンでヘンデルの書いたアリアの穏やかな旋律を描いた。
「あれ? さっきみたいにやかましく、ない?」
「そう。腕から脱力することを覚えたら、今度は右腕から弦にかかる力を制御できるようになればいいわ。そうね、最初のフレーズだけ、さっきみたいに大声で歌うんじゃなくて、話しかけるようなイメージでもう一回弾いてみて」
千鶴は再びコントラバスを構えた。楽器を構えて弓を取り直しながら、ふと思い起こすことがあった。
(昼休みにスマホの動画サイトで聴いた演奏……あんな感じなら……?)
千鶴は、昼休みに聴いたその母親より年長と思われる海外の女性の声楽家の歌声を思い出した。千鶴の弓が先程よりコントラバスの駒から離れた、指板に近い位置の弦に当てられて、過剰な腕の重さを掛けないように弓を動かしていく。
千鶴のコントラバスの音から、押し付けがましい音の大きさが抜けて、気持ちの良い木陰で休むような心地よさが響きに宿った。
(この弾き方なら、ってこと?)
それでも、気付きがあった千鶴でも気を抜くとつい右腕の重みが必要以上に右手にかかってしまうのが、まだまだ難点だった。
「オンブラ・マイ・フ」の最初のフレーズを弾き終えると、千鶴はやや自信なさげに凛々子に尋ねた
「どう、でしょうか」
「響きの作り方だけは合格よ。つぎは、今みたいに無駄に大きくない音で、最後まで弾けるようにしましょう。そういうイメージを作るためにも、練習する時は楽器で弾く前に一度歌って歌ってみてね」
「はい。やってみます」
千鶴は楽譜に、「楽器で練習する前に歌う。腕の力は抜いても弓に余計な重さをかけ過ぎない」と箇条書きで書き込んだ。
(続く)
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