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「羨ましい……ですか? 本条先生だって一六四センチあるじゃないですか?」
訝しむ智花に、本条は「まあ、そうなんだけどね」と首肯した。
「でも、だ。私より少なくとも十センチ、もしくはそれ以上の身長があるってことはだよ。例えば、私が必死でダウンボウでフォルテを弾いて出せる音量を、あそこに座ってるふわふわスカートの彼女は朝飯前で出せるかもしれないってことさ」
本条は、第一ヴァイオリンの後ろの壁際に出されたパイプ椅子に座って、周りを珍しそうに見回す千鶴に目をやった。その本条に、智花は首を傾げた。
「でも、身体に合った弾き方をすれば体格は小さくてもコントラバスは弾ける、っておっしゃってませんでした?」
「問題はそれなんだよ。君もチェロを弾いていて感じたことはあると思うけど、ある程度大きな楽器ってのは、管でも弦でも、体格によっちゃ構えて音を出すだけで一苦労なのさ」
「千鶴ちゃんの場合、そこで弾き方をひと工夫しなくて済む、ってことですか?」
「そういうこと。少なくとも、あの子は多くの女性のコントラバス弾きがぶち当たる問題とは無縁さ。右腕のリーチや重さも、左手を開く間隔もね」
そう話す本条は、妙に上機嫌だった。その本条を、呆れたようにたしなめる者があった。
「本条先生。入団するかどうか分からない見学者について話していても仕方がありませんよ?」
「吉浦先生。こりゃ失礼いたしました」
本条は、リハーサル室に戻ってきた、五十過ぎとみられる眼鏡に白髪交じりの髪を引っつめてまとめた女性の言葉に頭を掻いた。
「でも、ああいう子がコントラバスを弾いてくれたら、って思うとちょっと楽しみじゃありません?」
「実際に演奏を聴くまで、何とも判断はできませんよ。……あの子、何でも九月の発表会に仙道さんと一緒に出るようですが、どうなることやら」
吉浦は、手厳しい言葉を呟きながらチェロの最前の席に座って、椅子の横に寝かせてあった自分の楽器を構えた。指揮者が戻ってきて、そろそろ休憩が終わる頃合いだった。
「私はあの子、ちょっと期待してもいいかなって思ってますけど、吉浦先生、いかが?」
第一ヴァイオリンの後ろにいる千鶴に目をやる本条に、吉浦も口角をやや上げた。
「本条先生にそこまで言わせる子なら、バス弾きとしてしっかり鍛えるまで。そうでなければ、基本から叩き込むまでです。同じことですよ」
「相変わらず、手厳しいですね」
「学生の頃の本条先生みたいなやんちゃさんだったら、困りますからね。あなた、昔は手がつけられなかったもの」
くすくすと上品に笑う吉浦に、本条は「参ったなあ」ともう一度頭を掻いて、智花は「菅佐野フィルの副首席も、吉浦先生には形無しですね」と笑った。
「それでは、シューベルトの『グレート』。三楽章から」と恰幅のいい男性の指揮者が告げて、オーケストラの練習が再開された。
千鶴は、度肝を抜かれた。
指揮者が振り下ろす指揮棒を合図に、あらゆる音域の楽器が三拍子の地面が力強く揺れ動くようなパッセージを、重ねて弾き出した。
それが、凛々子が座っている第一ヴァイオリンから、智花たちチェロの後ろに陣取るコントラバスまでいっせいに同じパッセージを弾いていることに気付いて、千鶴は思わずパイプ椅子の背にもたれていた上体をしゃんと伸ばした。
(弦楽器が全員同じことをやってる……ってことは、コントラバスもヴァイオリンと同じことをやってるの!?)
千鶴の気付きを振り落とす勢いで、「グレート」の第三楽章の演奏は進んだ。全ての弦楽器が同時に弾く強烈なパッセージのリズムと、木管楽器が遊ぶように歌い交わす旋律が交互に繰り返されて、最後はトランペットやトロンボーンといった金管楽器を交えて明るい和音で締めくくった。
千鶴は「グレート」の三楽章を分けもわからずひたすら聴いた。その中で、おぼろげながら千鶴なりに見えてきたことがあった。
(弦楽器と木管がやってること、全然違うのになんかフレーズは似てる……? あと、この曲ってなんか大らかっていうか……?)
千鶴は、その印象が何故か当たっている気がした。その、どこか大らかに進む三拍子の音楽を支えているチェロやコントラバスのパートに、千鶴は注目せざるを得なかった。
(え!? 低音ってこんなに聴こえるの!? ていうか、コントラバスの先頭で弾いてる女の人、なんか凄い……!?)
千鶴は、コントラバス奏者の先頭にいる、女性の奏者から目が離せなくなった。
その、三十代前半ぐらい、千鶴の倍ほどの年齢のラフなシャツにデニムのパンツを合わせた出で立ちの女性は、軽々とコントラバスを弾いていた。その音の力強さは、千鶴の想像を遥かに超えていた。
その女性が弾く、よく見ると千鶴が部活で弾いているのより弦が一本多い五弦のコントラバスは、以前の合奏練習で蘇我が千鶴の演奏を妨害しようとして力任せに吹くような乱暴さや、連合演奏会で清鹿学園が聴かせたようなただただ剛直で聞いていて身体が固まるような音とも違った。
そもそも、その先頭の女性も含めてオーケストラのコントラバス奏者たちは、身体の向きと楽器の向きを指揮者に向けて極めて自然な姿勢で弾いていた。よく見ると他の楽器の奏者より高い特殊な椅子に座って弾いているらしく、そのことも含めてどの奏者もリラックスしてコントラバスを弾いているように千鶴には思えた。
(あれ? あんな風に弾いていいんだ?)
千鶴の興味は、植物が根を張るように広がり始めていた。
(続く)
訝しむ智花に、本条は「まあ、そうなんだけどね」と首肯した。
「でも、だ。私より少なくとも十センチ、もしくはそれ以上の身長があるってことはだよ。例えば、私が必死でダウンボウでフォルテを弾いて出せる音量を、あそこに座ってるふわふわスカートの彼女は朝飯前で出せるかもしれないってことさ」
本条は、第一ヴァイオリンの後ろの壁際に出されたパイプ椅子に座って、周りを珍しそうに見回す千鶴に目をやった。その本条に、智花は首を傾げた。
「でも、身体に合った弾き方をすれば体格は小さくてもコントラバスは弾ける、っておっしゃってませんでした?」
「問題はそれなんだよ。君もチェロを弾いていて感じたことはあると思うけど、ある程度大きな楽器ってのは、管でも弦でも、体格によっちゃ構えて音を出すだけで一苦労なのさ」
「千鶴ちゃんの場合、そこで弾き方をひと工夫しなくて済む、ってことですか?」
「そういうこと。少なくとも、あの子は多くの女性のコントラバス弾きがぶち当たる問題とは無縁さ。右腕のリーチや重さも、左手を開く間隔もね」
そう話す本条は、妙に上機嫌だった。その本条を、呆れたようにたしなめる者があった。
「本条先生。入団するかどうか分からない見学者について話していても仕方がありませんよ?」
「吉浦先生。こりゃ失礼いたしました」
本条は、リハーサル室に戻ってきた、五十過ぎとみられる眼鏡に白髪交じりの髪を引っつめてまとめた女性の言葉に頭を掻いた。
「でも、ああいう子がコントラバスを弾いてくれたら、って思うとちょっと楽しみじゃありません?」
「実際に演奏を聴くまで、何とも判断はできませんよ。……あの子、何でも九月の発表会に仙道さんと一緒に出るようですが、どうなることやら」
吉浦は、手厳しい言葉を呟きながらチェロの最前の席に座って、椅子の横に寝かせてあった自分の楽器を構えた。指揮者が戻ってきて、そろそろ休憩が終わる頃合いだった。
「私はあの子、ちょっと期待してもいいかなって思ってますけど、吉浦先生、いかが?」
第一ヴァイオリンの後ろにいる千鶴に目をやる本条に、吉浦も口角をやや上げた。
「本条先生にそこまで言わせる子なら、バス弾きとしてしっかり鍛えるまで。そうでなければ、基本から叩き込むまでです。同じことですよ」
「相変わらず、手厳しいですね」
「学生の頃の本条先生みたいなやんちゃさんだったら、困りますからね。あなた、昔は手がつけられなかったもの」
くすくすと上品に笑う吉浦に、本条は「参ったなあ」ともう一度頭を掻いて、智花は「菅佐野フィルの副首席も、吉浦先生には形無しですね」と笑った。
「それでは、シューベルトの『グレート』。三楽章から」と恰幅のいい男性の指揮者が告げて、オーケストラの練習が再開された。
千鶴は、度肝を抜かれた。
指揮者が振り下ろす指揮棒を合図に、あらゆる音域の楽器が三拍子の地面が力強く揺れ動くようなパッセージを、重ねて弾き出した。
それが、凛々子が座っている第一ヴァイオリンから、智花たちチェロの後ろに陣取るコントラバスまでいっせいに同じパッセージを弾いていることに気付いて、千鶴は思わずパイプ椅子の背にもたれていた上体をしゃんと伸ばした。
(弦楽器が全員同じことをやってる……ってことは、コントラバスもヴァイオリンと同じことをやってるの!?)
千鶴の気付きを振り落とす勢いで、「グレート」の第三楽章の演奏は進んだ。全ての弦楽器が同時に弾く強烈なパッセージのリズムと、木管楽器が遊ぶように歌い交わす旋律が交互に繰り返されて、最後はトランペットやトロンボーンといった金管楽器を交えて明るい和音で締めくくった。
千鶴は「グレート」の三楽章を分けもわからずひたすら聴いた。その中で、おぼろげながら千鶴なりに見えてきたことがあった。
(弦楽器と木管がやってること、全然違うのになんかフレーズは似てる……? あと、この曲ってなんか大らかっていうか……?)
千鶴は、その印象が何故か当たっている気がした。その、どこか大らかに進む三拍子の音楽を支えているチェロやコントラバスのパートに、千鶴は注目せざるを得なかった。
(え!? 低音ってこんなに聴こえるの!? ていうか、コントラバスの先頭で弾いてる女の人、なんか凄い……!?)
千鶴は、コントラバス奏者の先頭にいる、女性の奏者から目が離せなくなった。
その、三十代前半ぐらい、千鶴の倍ほどの年齢のラフなシャツにデニムのパンツを合わせた出で立ちの女性は、軽々とコントラバスを弾いていた。その音の力強さは、千鶴の想像を遥かに超えていた。
その女性が弾く、よく見ると千鶴が部活で弾いているのより弦が一本多い五弦のコントラバスは、以前の合奏練習で蘇我が千鶴の演奏を妨害しようとして力任せに吹くような乱暴さや、連合演奏会で清鹿学園が聴かせたようなただただ剛直で聞いていて身体が固まるような音とも違った。
そもそも、その先頭の女性も含めてオーケストラのコントラバス奏者たちは、身体の向きと楽器の向きを指揮者に向けて極めて自然な姿勢で弾いていた。よく見ると他の楽器の奏者より高い特殊な椅子に座って弾いているらしく、そのことも含めてどの奏者もリラックスしてコントラバスを弾いているように千鶴には思えた。
(あれ? あんな風に弾いていいんだ?)
千鶴の興味は、植物が根を張るように広がり始めていた。
(続く)
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