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「弦バスで『オンブラ・マイ・フ』、ねえ」
植村は、未乃梨の提案に目をぱちくりと数回瞬かせた。
「テューバでサマになる曲だし、ありなんじゃない? 金管と違って倍音も多いから、低過ぎるようには聴こえないしね」
「倍音? そんなに変わるんですか?」
ピアノの前に座ったまま小首を傾げる未乃梨に、植村はピアノの鍵盤の左半分の側に回った。
「ちょっと乱暴な説明になるんだけど、例えば、この『オンブラ・マイ・フ』をユーフォとかテューバで吹いたらこんな感じとするじゃない?」
植村は「オンブラ・マイ・フ」の旋律を、ピアノの真ん中のCよりオクターブほど低い音域で、単音のピアニッシモで弾いた。穏やかな旋律が浮かび上がる。
「これが、弦バスで弾くと、これに近い状態になってるわけ」
植村は、今度は「オンブラ・マイ・フ」の旋律に、一オクターブ上の音を重ねてピアニッシモで弾いてみせた。同じ旋律が、弱く弾かれているのに一オクターブ上の音を纏うだけで明白に厚みと柔らかさを増した。
未乃梨ははっとして植村の押さえていた鍵盤を見た。
「そういえば、弦バスの音って管楽器より柔らかいですけど……もしかして」
「正解。弦バスに限らず弦楽器って、管楽器とは比べ物にならないほど倍音が多いんだよ。ほら、こないだの本番の『スプリング・グリーン・マーチ』」
「音量はともかく、響きっていうか残響はたっぷりあったような……」
「でしょ? それなんだよ。正直、コンクールの『ドリー組曲』、江崎さんが初心者じゃなかったら一緒に弾いてほしいんだよね、低音としては」
渋い顔をしてみせる植村は「ところで」と話題を変えた。
「この『オンブラ・マイ・フ』、もしかして江崎さんとやるつもりだったりするの?」
「あ、あの! えっと、それは……」
未乃梨は一度誤魔化すように声を上げてから、口籠った。
「実はその、千鶴が夏休みの後で発表会に出ないかって誘われてて、千鶴がソロで何かやるなら私がピアノで伴奏してあげられないかな、って思ったんですけど……」
「いいじゃない。江崎さんに直接伝えたら? 仲、いいんでしょ?」
「それは、その――」
未乃梨が言い淀んでいると、音楽室のドアが開いた。ちょうど話題に上がった、長身で最近伸びてきた髪を後ろでショートテイルにリボンで結うようになった千鶴が入ってきた。
「あ、未乃梨。おはよう」
「お、江崎さん早いね。おはよう」
「植村先輩も、おはようございます。コンクールに出る人たちも早いですよね」
千鶴は何の屈託もなく挨拶をすると、植村の返事を受けつつ音楽室の奥の倉庫へと引っ込んでいった。
千鶴はいつものようにコントラバスをケースから出すと、弓を準備して調弦を始めた。
その音に重なるように、朝練をしに来た他の部員たちの「おはよう」や「おはようございます」という挨拶の声が重なって、そこかしこでそれぞれの楽器を準備して個人練習を始める音が重なっていった。
未乃梨はピアノの前に座ったまま、音楽室にいる他の誰にも気付かれないように、小さく溜め息をついた。
その日の昼休みに、未乃梨は思い切って千鶴を教室の外に誘った。
「ねえ千鶴。お昼、今日は別の場所で食べない?」
「いいよ。どこにする?」
「それは……」
未乃梨は、屋上での一件を思い出して言葉を詰まらせた。
「音楽室とかどう? 教室から近いし」
「う、うん。じゃ、音楽室で」
未乃梨は内心、自分でも分けもわからずほっと胸を撫で下ろした。
「じゃ、購買に寄っていい? 飲み物欲しいから」
「……うん」
席を立つ千鶴に、未乃梨は以前購買で凛々子と出くわしたことを思い出して、暗澹たる気持ちになりかけた。
未乃梨の予感は的中した。
自販機で二人分の飲み物を買ってきた千鶴が、購買でサンドイッチを買ったらしい緩くウェーブの掛かった長い黒髪の二年生と話し込んでいた。
「凛々子さん。どうも」
「こんにちは。あら、未乃梨さんと外かどこかでお昼?」
「音楽室です。教室から近いんで」
「そう。じゃ、私もご一緒していいかしら? ちょうどお二人に用事があったことだし」
「え?」
顔をむくれさせかけた未乃梨が、凛々子の顔を見て目を丸くした。
音楽室でサンドイッチの包みを開けながら、凛々子は弁当を広げている千鶴と未乃梨に夏休み明けの予定を話した。
「前に少しお話したと思うけれど、九月の第二日曜日に、私が入っている星の宮ユースオーケストラのメンバー主催の発表会があるの。曲種はソロでもアンサンブルでもOKで、千鶴さんは弦の合奏でお誘いしてます。良かったら、未乃梨さんもいかが?」
「それなんですけど……私、千鶴のソロのピアノ伴奏、やります」
ためらいつつも、箸を置いて言い切った未乃梨に、凛々子は微笑んで、千鶴は卵焼きを口に運びながら呆気に取られた。
「未乃梨の伴奏で、私がソロかぁ……曲はどうするの?」
「弦バスに良さそうな曲で、ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』って曲、見つけたんだけど……」
「奇遇ね。その曲、私も千鶴さんのソロに合いそうって、思ってたところよ」
スマホに入っている楽譜のファイルを開いて見せる凛々子に、お茶を飲もうとしていた千鶴と、千鶴からウィンナーを貰って口に運ぼうとした未乃梨は顔を見合わせた。
(続く)
植村は、未乃梨の提案に目をぱちくりと数回瞬かせた。
「テューバでサマになる曲だし、ありなんじゃない? 金管と違って倍音も多いから、低過ぎるようには聴こえないしね」
「倍音? そんなに変わるんですか?」
ピアノの前に座ったまま小首を傾げる未乃梨に、植村はピアノの鍵盤の左半分の側に回った。
「ちょっと乱暴な説明になるんだけど、例えば、この『オンブラ・マイ・フ』をユーフォとかテューバで吹いたらこんな感じとするじゃない?」
植村は「オンブラ・マイ・フ」の旋律を、ピアノの真ん中のCよりオクターブほど低い音域で、単音のピアニッシモで弾いた。穏やかな旋律が浮かび上がる。
「これが、弦バスで弾くと、これに近い状態になってるわけ」
植村は、今度は「オンブラ・マイ・フ」の旋律に、一オクターブ上の音を重ねてピアニッシモで弾いてみせた。同じ旋律が、弱く弾かれているのに一オクターブ上の音を纏うだけで明白に厚みと柔らかさを増した。
未乃梨ははっとして植村の押さえていた鍵盤を見た。
「そういえば、弦バスの音って管楽器より柔らかいですけど……もしかして」
「正解。弦バスに限らず弦楽器って、管楽器とは比べ物にならないほど倍音が多いんだよ。ほら、こないだの本番の『スプリング・グリーン・マーチ』」
「音量はともかく、響きっていうか残響はたっぷりあったような……」
「でしょ? それなんだよ。正直、コンクールの『ドリー組曲』、江崎さんが初心者じゃなかったら一緒に弾いてほしいんだよね、低音としては」
渋い顔をしてみせる植村は「ところで」と話題を変えた。
「この『オンブラ・マイ・フ』、もしかして江崎さんとやるつもりだったりするの?」
「あ、あの! えっと、それは……」
未乃梨は一度誤魔化すように声を上げてから、口籠った。
「実はその、千鶴が夏休みの後で発表会に出ないかって誘われてて、千鶴がソロで何かやるなら私がピアノで伴奏してあげられないかな、って思ったんですけど……」
「いいじゃない。江崎さんに直接伝えたら? 仲、いいんでしょ?」
「それは、その――」
未乃梨が言い淀んでいると、音楽室のドアが開いた。ちょうど話題に上がった、長身で最近伸びてきた髪を後ろでショートテイルにリボンで結うようになった千鶴が入ってきた。
「あ、未乃梨。おはよう」
「お、江崎さん早いね。おはよう」
「植村先輩も、おはようございます。コンクールに出る人たちも早いですよね」
千鶴は何の屈託もなく挨拶をすると、植村の返事を受けつつ音楽室の奥の倉庫へと引っ込んでいった。
千鶴はいつものようにコントラバスをケースから出すと、弓を準備して調弦を始めた。
その音に重なるように、朝練をしに来た他の部員たちの「おはよう」や「おはようございます」という挨拶の声が重なって、そこかしこでそれぞれの楽器を準備して個人練習を始める音が重なっていった。
未乃梨はピアノの前に座ったまま、音楽室にいる他の誰にも気付かれないように、小さく溜め息をついた。
その日の昼休みに、未乃梨は思い切って千鶴を教室の外に誘った。
「ねえ千鶴。お昼、今日は別の場所で食べない?」
「いいよ。どこにする?」
「それは……」
未乃梨は、屋上での一件を思い出して言葉を詰まらせた。
「音楽室とかどう? 教室から近いし」
「う、うん。じゃ、音楽室で」
未乃梨は内心、自分でも分けもわからずほっと胸を撫で下ろした。
「じゃ、購買に寄っていい? 飲み物欲しいから」
「……うん」
席を立つ千鶴に、未乃梨は以前購買で凛々子と出くわしたことを思い出して、暗澹たる気持ちになりかけた。
未乃梨の予感は的中した。
自販機で二人分の飲み物を買ってきた千鶴が、購買でサンドイッチを買ったらしい緩くウェーブの掛かった長い黒髪の二年生と話し込んでいた。
「凛々子さん。どうも」
「こんにちは。あら、未乃梨さんと外かどこかでお昼?」
「音楽室です。教室から近いんで」
「そう。じゃ、私もご一緒していいかしら? ちょうどお二人に用事があったことだし」
「え?」
顔をむくれさせかけた未乃梨が、凛々子の顔を見て目を丸くした。
音楽室でサンドイッチの包みを開けながら、凛々子は弁当を広げている千鶴と未乃梨に夏休み明けの予定を話した。
「前に少しお話したと思うけれど、九月の第二日曜日に、私が入っている星の宮ユースオーケストラのメンバー主催の発表会があるの。曲種はソロでもアンサンブルでもOKで、千鶴さんは弦の合奏でお誘いしてます。良かったら、未乃梨さんもいかが?」
「それなんですけど……私、千鶴のソロのピアノ伴奏、やります」
ためらいつつも、箸を置いて言い切った未乃梨に、凛々子は微笑んで、千鶴は卵焼きを口に運びながら呆気に取られた。
「未乃梨の伴奏で、私がソロかぁ……曲はどうするの?」
「弦バスに良さそうな曲で、ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』って曲、見つけたんだけど……」
「奇遇ね。その曲、私も千鶴さんのソロに合いそうって、思ってたところよ」
スマホに入っている楽譜のファイルを開いて見せる凛々子に、お茶を飲もうとしていた千鶴と、千鶴からウィンナーを貰って口に運ぼうとした未乃梨は顔を見合わせた。
(続く)
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