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♯96
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音楽室に残った未乃梨は、譜面台を立てながらふと戸口の外の廊下を見た。
先ほど別れたばかりの千鶴を、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の、ワインレッドのヴァイオリンケースを肩に提げた二年生が千鶴を待っていた。
(あ、凛々子さん……そうだよね、ヴァイオリンを弾ける人が千鶴の弦バスの練習を見ても、おかしくないよね)
未乃梨は音楽室の戸口から音楽室の部屋の中へと顔を戻した。高森が未乃梨を手招きしていた。
「小阪さん、ごめん。今日の居残りはピアノ弾いてくんない? 今日は他にピアノを弾ける子がいなくてさ」
「……はい」
未乃梨は、ケースに収まったフルートを空いている音楽室の机にスクールバッグと一緒に置くと、ピアノを囲むように集まっているコンクールメンバーの木管パート員の輪の中に入っていった。
帰宅してから、千鶴は自室にスクールバッグを置くと、制服から着替えようとしてクローゼットを開けた。中には、高校に入ってすぐの頃に未乃梨と買いに行った、薄手のチュール生地を重ねたブルーのレイヤードスカートが掛かっていた。
(これ、「あさがお園」の本番に穿いて行こうか迷ったんだっけ)
その、ウェストを蝶結びのベルトで締めたレイヤードスカートは、あれ以来一度も身に着けていなかった。そもそも、スカートを一緒に買いに行った未乃梨は、千鶴が凛々子にスカートを穿いた姿を見せるのは嫌がりそうな気がした。
考えあぐねる千鶴を、部屋の外から呼ぶ声がした。
「おーい千鶴、飯だぞー」
「はーい。今行きまーす」
慌てて千鶴はブレザーやスカートをベッドに脱ぎ捨てて、Tシャツと短パンの普段着に着替えた。部屋の外には炒め物の油とスパイスの香りがした。
「あ、今日は麻婆茄子だ」
好物のひとつが夕飯の食卓に上がっているのを期待しつつ、千鶴はクローゼットの中のことをとりあえず棚に上げた。
一方で、遅くに帰宅した未乃梨は玄関で父親に出迎えられた。
「……ただいま」
「お帰り。未乃梨、遅かったな」
「何よ。……コンクールの練習、始まったんだもん」
「いや、そうじゃなくてだ。……帰りは、お前一人で大丈夫だったか?」
未乃梨の父の声には、遅い帰りを叱責するより心配する方の響きがあった。
「……ごめん。大丈夫だった」
「そうか。いや、誰かにうちまで送ってもらえたら安心なんだけどな」
奥から、未乃梨の母親がひょっこりと顔を出した。
「もう、お父さんたら。遅くなるのは未乃梨から聞いてたし、中学の時より三十分以上も早いじゃない?」
「おお、そうだったな」
「未乃梨の同級生の、ほら、あの千鶴ちゃんだっていつも一緒に付いてきてくれるわけないでしょう?」
「それもそうか。未乃梨、済まん」
頭を搔く父親に、未乃梨は「もう、お父さんったら」と溜息をついた。
未乃梨は、入浴後に自室に引っ込んでから、改めて部活で使った楽譜類を見直した。
(課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」はともかく、「ドリー組曲」が大変かも。……これの原曲、ピアノで弾けるようにしときたいし)
未乃梨は家でも「ドリー組曲」を少しだけピアノで弾くことがあった。休みの日に家でピアノを弾いていると、父親が「発表会でもあるのか?」と呑気に尋ねてくることもあった。
(発表会……そういえば、千鶴、夏休み明けに凛々子さんたちと一緒に発表会、出るのかなあ。……そうだ)
未乃梨は本棚にある楽譜をいくつか取り出した。中学生の頃に買ったフルートの曲集を開くと、未乃梨はいくつかの曲を軽く見通した。
(これ、フルートのパートをヘ音記号に書き直したら、弦バスで弾ける曲がないかな? 千鶴が弾ける音域が一オクターブと半分ぐらいだとして……その曲を私が伴奏すれば……あれ、意外とありそう!?)
未乃梨は曲集のページをめくりながら、ベッドに入るのも忘れてしばらく考え込んだ。
翌朝、未乃梨は少し寝不足気味の割にしっかりと目を覚ました。
仕事に出かける両親より早く、朝食もそこそこに未乃梨は少しはやる気持ちでスクールバッグとフルートのケースを肩に提げて家を出た。
運動部の朝練より早い時間の音楽室には、まだ誰も着いていなかった。
未乃梨はピアノの蓋を開けると、スクールバッグに入れて持ってきていたフルートの曲集の、栞を挟んでおいたページを開いてピアノの譜面台に置いた。
(ヘンデルのラルゴ、これって弦バスで弾いたら、素敵なんじゃないかな)
未乃梨はピアノでゆっくりと、その伴奏譜を弾き出した。程なくして、音楽室のドアが開いた。
「お、小阪さん。朝から気合い入ってるね?」
「あ、植村先輩。おはようございます」
未乃梨はピアノを弾く手を止めると、植村に一礼した。植村はピアノに近付くと、譜面台の上に乗った楽譜をのぞき込んだ。
「あれ、『オンブラ・マイ・フ』。誰かの伴奏でもするの?」
「ちょっと、やってみたくて。折角だしウォーミングアップにちょうどいいかなって」
「それ、合唱部の子の伴奏やったことあるけど、いい曲だよねえ。ユーフォとかテューバみたいな低音楽器で吹いてもサマになるしね」
「それなんですけど。……弦バスだと、どうでしょうか?」
遠慮がちに尋ねる未乃梨に、植村は「ふーむ?」と興味深そうに返事をした。
(続く)
先ほど別れたばかりの千鶴を、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の、ワインレッドのヴァイオリンケースを肩に提げた二年生が千鶴を待っていた。
(あ、凛々子さん……そうだよね、ヴァイオリンを弾ける人が千鶴の弦バスの練習を見ても、おかしくないよね)
未乃梨は音楽室の戸口から音楽室の部屋の中へと顔を戻した。高森が未乃梨を手招きしていた。
「小阪さん、ごめん。今日の居残りはピアノ弾いてくんない? 今日は他にピアノを弾ける子がいなくてさ」
「……はい」
未乃梨は、ケースに収まったフルートを空いている音楽室の机にスクールバッグと一緒に置くと、ピアノを囲むように集まっているコンクールメンバーの木管パート員の輪の中に入っていった。
帰宅してから、千鶴は自室にスクールバッグを置くと、制服から着替えようとしてクローゼットを開けた。中には、高校に入ってすぐの頃に未乃梨と買いに行った、薄手のチュール生地を重ねたブルーのレイヤードスカートが掛かっていた。
(これ、「あさがお園」の本番に穿いて行こうか迷ったんだっけ)
その、ウェストを蝶結びのベルトで締めたレイヤードスカートは、あれ以来一度も身に着けていなかった。そもそも、スカートを一緒に買いに行った未乃梨は、千鶴が凛々子にスカートを穿いた姿を見せるのは嫌がりそうな気がした。
考えあぐねる千鶴を、部屋の外から呼ぶ声がした。
「おーい千鶴、飯だぞー」
「はーい。今行きまーす」
慌てて千鶴はブレザーやスカートをベッドに脱ぎ捨てて、Tシャツと短パンの普段着に着替えた。部屋の外には炒め物の油とスパイスの香りがした。
「あ、今日は麻婆茄子だ」
好物のひとつが夕飯の食卓に上がっているのを期待しつつ、千鶴はクローゼットの中のことをとりあえず棚に上げた。
一方で、遅くに帰宅した未乃梨は玄関で父親に出迎えられた。
「……ただいま」
「お帰り。未乃梨、遅かったな」
「何よ。……コンクールの練習、始まったんだもん」
「いや、そうじゃなくてだ。……帰りは、お前一人で大丈夫だったか?」
未乃梨の父の声には、遅い帰りを叱責するより心配する方の響きがあった。
「……ごめん。大丈夫だった」
「そうか。いや、誰かにうちまで送ってもらえたら安心なんだけどな」
奥から、未乃梨の母親がひょっこりと顔を出した。
「もう、お父さんたら。遅くなるのは未乃梨から聞いてたし、中学の時より三十分以上も早いじゃない?」
「おお、そうだったな」
「未乃梨の同級生の、ほら、あの千鶴ちゃんだっていつも一緒に付いてきてくれるわけないでしょう?」
「それもそうか。未乃梨、済まん」
頭を搔く父親に、未乃梨は「もう、お父さんったら」と溜息をついた。
未乃梨は、入浴後に自室に引っ込んでから、改めて部活で使った楽譜類を見直した。
(課題曲の「スプリング・グリーン・マーチ」はともかく、「ドリー組曲」が大変かも。……これの原曲、ピアノで弾けるようにしときたいし)
未乃梨は家でも「ドリー組曲」を少しだけピアノで弾くことがあった。休みの日に家でピアノを弾いていると、父親が「発表会でもあるのか?」と呑気に尋ねてくることもあった。
(発表会……そういえば、千鶴、夏休み明けに凛々子さんたちと一緒に発表会、出るのかなあ。……そうだ)
未乃梨は本棚にある楽譜をいくつか取り出した。中学生の頃に買ったフルートの曲集を開くと、未乃梨はいくつかの曲を軽く見通した。
(これ、フルートのパートをヘ音記号に書き直したら、弦バスで弾ける曲がないかな? 千鶴が弾ける音域が一オクターブと半分ぐらいだとして……その曲を私が伴奏すれば……あれ、意外とありそう!?)
未乃梨は曲集のページをめくりながら、ベッドに入るのも忘れてしばらく考え込んだ。
翌朝、未乃梨は少し寝不足気味の割にしっかりと目を覚ました。
仕事に出かける両親より早く、朝食もそこそこに未乃梨は少しはやる気持ちでスクールバッグとフルートのケースを肩に提げて家を出た。
運動部の朝練より早い時間の音楽室には、まだ誰も着いていなかった。
未乃梨はピアノの蓋を開けると、スクールバッグに入れて持ってきていたフルートの曲集の、栞を挟んでおいたページを開いてピアノの譜面台に置いた。
(ヘンデルのラルゴ、これって弦バスで弾いたら、素敵なんじゃないかな)
未乃梨はピアノでゆっくりと、その伴奏譜を弾き出した。程なくして、音楽室のドアが開いた。
「お、小阪さん。朝から気合い入ってるね?」
「あ、植村先輩。おはようございます」
未乃梨はピアノを弾く手を止めると、植村に一礼した。植村はピアノに近付くと、譜面台の上に乗った楽譜をのぞき込んだ。
「あれ、『オンブラ・マイ・フ』。誰かの伴奏でもするの?」
「ちょっと、やってみたくて。折角だしウォーミングアップにちょうどいいかなって」
「それ、合唱部の子の伴奏やったことあるけど、いい曲だよねえ。ユーフォとかテューバみたいな低音楽器で吹いてもサマになるしね」
「それなんですけど。……弦バスだと、どうでしょうか?」
遠慮がちに尋ねる未乃梨に、植村は「ふーむ?」と興味深そうに返事をした。
(続く)
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