三角形のディスコード

阪淳志

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♯95

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 凛々子りりこが持ってきたヴィヴァルディの「調和の霊感」第八番は、初見でも千鶴ちづるが思っていたより練習がスムーズに進んだ。
 最初に凛々子が説明した短調の音階のヴァリエーションも、千鶴が飲み込めるようになるにはそう時間はかからなさそうだった。
 ひと通りの譜読みを終えると、凛々子は千鶴に「そうそう、言い忘れたけれど」と説明を始めた。
「この『調和の霊感』第八番って曲、ヴァイオリンのソロ二人と弦楽器の合奏の協奏曲コンチェルトなの。合奏の方の第一ヴァイオリンは私がやるけれど、ソロ二人も含めて他のヴァイオリンは中学生と小学生だから、宜しくね」
「あれ? 凛々子さんの入ってるオーケストラって、小学生もいるんですか?」
 意外そうな顔をした千鶴に、凛々子はまるで当たり前のことのように言った。
「そうよ。ヴァイオリンを習ってる子が小さいうちから勉強しに来てる感じね。私もそうだったわ」
「……コントラバスを始めて一ヶ月の私が参加して大丈夫かなあ」
 弱腰になりかけた千鶴を、凛々子はたしなめた。
「堂々となさいな。言ったでしょう? 『あさがお園』での千鶴さん、立派なコントラバス奏者だったわよ」
 そう微笑む凛々子の言葉に、千鶴は背筋をしゃんと伸ばした。


 練習が終わる時間になっても、未乃梨はまだ帰れそうになかった。
 コントラバスを片付けに音楽室に来た千鶴に、未乃梨は片手拝みをした。
「千鶴、ごめんね。コンクールメンバーの木管だけ居残ってセクション練習あるから、先に帰ってて」
「分かった。帰り、気をつけてね」
「ありがと。じゃ、また明日ね」
 そそくさと音楽室の中に戻っていった未乃梨と別れると、千鶴は音楽室を出た。戸口のすぐ外で、凛々子が待っていた。
「未乃梨さん、まだ帰れないの?」
「コンクールに出る木管パートだけ残って練習があるみたいで、まだ残ってくそうです」
「まあ。じゃ、私たちはもう帰りましょうか」
「そうですね。じゃ、途中まで一緒に」
 凛々子に促されて、千鶴は昇降口へと足を進めた。途中の階段に差し掛かったところで、千鶴はふと以前に凛々子と二人で帰ったときのことを思い出した。
(そういえば、凛々子さん、ヴァイオリンケース担いでたっけ。階段は足元危ないかも)
 何となく、千鶴は凛々子に右手を手のひらを上にして差し出した。凛々子も、左手を千鶴の右手に預けた。成人の男性と遜色がないどころか少しばかり大きな千鶴の右手に、凛々子の小さな左手が納まった。
「あら、エスコートありがとう」
 凛々子はあまりに自然に千鶴に手を預けてきた。そのまま階段を降りきって下駄箱の前に着くまで、凛々子はためらいも見せず千鶴に手を引かせた。
「千鶴さん、私のナイトさんみたいね」
「あ……迷惑、でした?」
「いいえ。むしろ、私は嬉しいけれど?」
 下駄箱の前で、凛々子は千鶴に預けた左手を離した。千鶴はなぜか、やや急ぎ気味で上履きをスニーカーに履き替えた。千鶴が昇降口を出た少しあとで、ローファーに履き替えた凛々子が現れた。
 凛々子はもう一度、左手を差し出した。
「さっきの、バス停までお願いしても?」
「あ、……はい」
 千鶴は再び凛々子の左手を受けた。少し上げた左手の手のひらに、誰かの手を預かって引いていくのは少しだけむず痒い気もしたが、周りの下校中の生徒は誰も千鶴と凛々子を気にも留めていなかった。
「そういえば」と、凛々子は自分の手を預かる千鶴に尋ねた。
「千鶴さん、他にも誰かエスコートしたことがあったりして?」
「えっと……未乃梨なら、中学のときに家まで送ったりとか、してましたけど」
「未乃梨さん、中学でも吹奏楽部に入っていたのだったわね。その頃も遅くなることがあったの?」
「はい。私もたまたまバレー部の助っ人で練習に残ってたから、家まで送ることになって。その時は今より髪も短かったし、未乃梨のお父さんに男の子と間違えられそうになって」
「まあ。それじゃ、伸ばさなきゃね」
 凛々子は千鶴が頭の後ろにリボンで結った髪を見上げた。
「発表会、出るなら衣装も揃えなければだし、それに合わせて髪型も女の子らしく決めてもいいかしらね」
「衣装って……何か決まりがあるんですか?」
「昼間だし、白のブラウスと黒のロングスカートがあれば充分よ。千鶴さん、背も高くてスタイル良いし、そういうのも着こなせそうね?」
「え? それは、その」
 千鶴は凛々子の言葉につまづきかけた。ちょうど駅前のバス停に着いたところで、凛々子は千鶴に預けた手をふわりと離していた。
「……私、制服以外でスカートって一枚ぐらいしか持ってなくて」
「では、いい機会だし揃えなさいな。そうだわ、うちのオーケストラに見学に来るとき、スカートでいらっしゃいな」
「え? なんでまた」
「私服のスカート姿の千鶴さんを私が見てみたいから、なのだけど、いけないかしら?」
「別に、ダメじゃない、ですけど……」
 緩くウェーブの掛かった長い黒髪を揺らしていたずらっぽく笑ってみせる凛々子に、千鶴は困惑した。

(続く)
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