93 / 135
♯93
しおりを挟む
――良いんですか? それじゃ、お願いします
――詳しいことは明日の放課後にでも。じゃ、また頑張りましょうね
メッセージのやり取りが止まったスマホの画面を見ながら、凛々子は、「ふう」とひと息ついてから口角を上げた。
(千鶴さん、ヴィヴァルディに興味を持ってくれたみたいね。発表会で、どう仕上げてくれるかしら)
一ヶ月あまりの間、今までに凛々子が練習を見てきた千鶴のコントラバスは、凛々子から見て少なくとも他の楽器と一緒に合奏をする分には安心できる腕前になっていた。
(「あさがお園」でやった「カノン」にバッハに……あと、ベートーヴェンの「第九」も)
千鶴が「あさがお園」で弾いたわずか十六小節の「第九」の主題の穏やかで力強い響きは、凛々子の耳に残っていた。
いつしか、凛々子は翌日に千鶴と顔を合わせるのが楽しみになっていた。
(バッハではあんな風に仕上がったけど、ヴィヴァルディではどうかしら)
ヴィヴァルディのイ短調のメロディを小さく口ずさみかけた凛々子の空想を、メッセージの着信を告げるスマホのヴァイブレーションが断ち切った。
メッセージは、智花からだった。
――お疲れ。昨日、菅佐野フィルの巨人、瑞香と聴いてきたよ。本条先生、やっぱり凄かった
凛々子はすぐに返事をした。
――本当に聴きに行きたかったわ。そういえば、六月の最初の練習って、本条先生はいらっしゃるのかしら?
――確か来るはず。どうしたの?
――実は、発表会の打ち合わせも兼ねて、千鶴さんに見学に来てもらおうかと思って
――お、いいね。実は、そのことで瑞香と何度か話してて。何なら、見学の時に千鶴ちゃんを本条先生に会わせてあげられたらいいなって
――そうね。もし、千鶴さんがオーケストラを興味を持ってくれたら、ってこともあるし
凛々子は、自分と千鶴がオーケストラの舞台で共演しているところを空想していた。その空想は、決してあり得ないことではないように、凛々子には思われた。
翌朝、千鶴は目を覚ますと、ベッドの枕元にあるスマホにメッセージの着信があることに気づいた。千鶴が眠たい目をこすりながら確認すると、差出人は未乃梨からだった。
――千鶴ごめん! 今日からコンクールの練習で朝早いから、先に行くね!
寝ぼけ眼のままベッドから降りて、伸びかけの髪をそろそろ慣れてきた手付きで結いながら、千鶴はスマホの時計を見た。いつもの登校時間より三十分は早いだろうか。
(コンクールメンバー、忙しいんだね……私も来年はそうなるのかなぁ)
寝間着から制服に着替えながら、千鶴はそんなことを考えていた。
その日の朝の練習は、千鶴は未乃梨と顔は合わせてもほとんど話すことはできなかった。
朝は、植村とピアノに向かいながら、一度ピアノで弾いた楽譜をフルートとユーフォニアムでもう一度なぞったり相談したりしている未乃梨に、千鶴は話しかけるのがはばかられた。
ピアノとフルートやユーフォニアムで交代で演奏される穏やかで柔らかな表情の旋律に、千鶴は何度かコントラバスを弾く手を止めて聴き入った。
それでも、朝の練習後は未乃梨から千鶴に話しかけてきた。
「千鶴、いきなりメッセしてごめんね」
「ううん。コンクールの練習、頑張ってね。そういえば、ずっとピアノ弾いてたね?」
未乃梨は、ちょっと困った顔をした。
「コンクールでやる曲、『ドリー組曲』っていう、元がピアノの曲なんだけど、ピアノの弾ける子は原曲も練習しておいて、って子安先生から言われてて」
「でも、何だか素敵な曲だよね。朝に植村先輩とピアノで弾いたりしてたやつとか」
千鶴の言葉に、未乃梨の表情は少し明るくなった。
「あの曲、『子守り唄』って曲なの。あの曲、優しくて私は好き。……千鶴も、弦バスでコンクールに出られたらいいのにね」
「しょうがないよ。私、コントラバス始めて一ヶ月ちょっとだし」
「来年はさ、一緒に出ようね。……千鶴の弦バス、もっと本番で一緒に聴きたいから」
「ありがと。凛々子さんに練習見てもらって、頑張るから」
今度は、未乃梨が顔が小さく膨らませて千鶴を見上げて詰め寄った。
「もう。そこで他の女の子の名前出さないでよ。千鶴、結城さんとか桃花の織田先輩とか、すぐよその女の子と仲良くなってるんだから」
むくれた未乃梨が千鶴に向ける声や表情には、毒気はなかった。
千鶴と未乃梨は思わず顔を見合わせて笑顔になると、始業が迫る教室へ急いでいった。
放課後、千鶴は音楽室で未乃梨と別れると、いつものように凛々子に連れられて空き教室にコントラバスを運び込んだ。
凛々子は、肩から提げていたワインレッドのヴァイオリンケースから楽譜を取り出すと、千鶴に差し出した。
「秋の発表会、これを弦だけの合奏でやろうと思ってね。ヴィヴァルディの『調和の霊感』っていう曲よ」
見慣れないアルファベットが題に入った楽譜には、妙に動きの多い音符が並んでいた。
(何だろ? 「あさがお園」で弾いた曲とも、ちょっと違う感じ?)
千鶴は、調号にシャープもフラットもつかない一見プレーンな楽譜に少しだけ見入った。
(続く)
――詳しいことは明日の放課後にでも。じゃ、また頑張りましょうね
メッセージのやり取りが止まったスマホの画面を見ながら、凛々子は、「ふう」とひと息ついてから口角を上げた。
(千鶴さん、ヴィヴァルディに興味を持ってくれたみたいね。発表会で、どう仕上げてくれるかしら)
一ヶ月あまりの間、今までに凛々子が練習を見てきた千鶴のコントラバスは、凛々子から見て少なくとも他の楽器と一緒に合奏をする分には安心できる腕前になっていた。
(「あさがお園」でやった「カノン」にバッハに……あと、ベートーヴェンの「第九」も)
千鶴が「あさがお園」で弾いたわずか十六小節の「第九」の主題の穏やかで力強い響きは、凛々子の耳に残っていた。
いつしか、凛々子は翌日に千鶴と顔を合わせるのが楽しみになっていた。
(バッハではあんな風に仕上がったけど、ヴィヴァルディではどうかしら)
ヴィヴァルディのイ短調のメロディを小さく口ずさみかけた凛々子の空想を、メッセージの着信を告げるスマホのヴァイブレーションが断ち切った。
メッセージは、智花からだった。
――お疲れ。昨日、菅佐野フィルの巨人、瑞香と聴いてきたよ。本条先生、やっぱり凄かった
凛々子はすぐに返事をした。
――本当に聴きに行きたかったわ。そういえば、六月の最初の練習って、本条先生はいらっしゃるのかしら?
――確か来るはず。どうしたの?
――実は、発表会の打ち合わせも兼ねて、千鶴さんに見学に来てもらおうかと思って
――お、いいね。実は、そのことで瑞香と何度か話してて。何なら、見学の時に千鶴ちゃんを本条先生に会わせてあげられたらいいなって
――そうね。もし、千鶴さんがオーケストラを興味を持ってくれたら、ってこともあるし
凛々子は、自分と千鶴がオーケストラの舞台で共演しているところを空想していた。その空想は、決してあり得ないことではないように、凛々子には思われた。
翌朝、千鶴は目を覚ますと、ベッドの枕元にあるスマホにメッセージの着信があることに気づいた。千鶴が眠たい目をこすりながら確認すると、差出人は未乃梨からだった。
――千鶴ごめん! 今日からコンクールの練習で朝早いから、先に行くね!
寝ぼけ眼のままベッドから降りて、伸びかけの髪をそろそろ慣れてきた手付きで結いながら、千鶴はスマホの時計を見た。いつもの登校時間より三十分は早いだろうか。
(コンクールメンバー、忙しいんだね……私も来年はそうなるのかなぁ)
寝間着から制服に着替えながら、千鶴はそんなことを考えていた。
その日の朝の練習は、千鶴は未乃梨と顔は合わせてもほとんど話すことはできなかった。
朝は、植村とピアノに向かいながら、一度ピアノで弾いた楽譜をフルートとユーフォニアムでもう一度なぞったり相談したりしている未乃梨に、千鶴は話しかけるのがはばかられた。
ピアノとフルートやユーフォニアムで交代で演奏される穏やかで柔らかな表情の旋律に、千鶴は何度かコントラバスを弾く手を止めて聴き入った。
それでも、朝の練習後は未乃梨から千鶴に話しかけてきた。
「千鶴、いきなりメッセしてごめんね」
「ううん。コンクールの練習、頑張ってね。そういえば、ずっとピアノ弾いてたね?」
未乃梨は、ちょっと困った顔をした。
「コンクールでやる曲、『ドリー組曲』っていう、元がピアノの曲なんだけど、ピアノの弾ける子は原曲も練習しておいて、って子安先生から言われてて」
「でも、何だか素敵な曲だよね。朝に植村先輩とピアノで弾いたりしてたやつとか」
千鶴の言葉に、未乃梨の表情は少し明るくなった。
「あの曲、『子守り唄』って曲なの。あの曲、優しくて私は好き。……千鶴も、弦バスでコンクールに出られたらいいのにね」
「しょうがないよ。私、コントラバス始めて一ヶ月ちょっとだし」
「来年はさ、一緒に出ようね。……千鶴の弦バス、もっと本番で一緒に聴きたいから」
「ありがと。凛々子さんに練習見てもらって、頑張るから」
今度は、未乃梨が顔が小さく膨らませて千鶴を見上げて詰め寄った。
「もう。そこで他の女の子の名前出さないでよ。千鶴、結城さんとか桃花の織田先輩とか、すぐよその女の子と仲良くなってるんだから」
むくれた未乃梨が千鶴に向ける声や表情には、毒気はなかった。
千鶴と未乃梨は思わず顔を見合わせて笑顔になると、始業が迫る教室へ急いでいった。
放課後、千鶴は音楽室で未乃梨と別れると、いつものように凛々子に連れられて空き教室にコントラバスを運び込んだ。
凛々子は、肩から提げていたワインレッドのヴァイオリンケースから楽譜を取り出すと、千鶴に差し出した。
「秋の発表会、これを弦だけの合奏でやろうと思ってね。ヴィヴァルディの『調和の霊感』っていう曲よ」
見慣れないアルファベットが題に入った楽譜には、妙に動きの多い音符が並んでいた。
(何だろ? 「あさがお園」で弾いた曲とも、ちょっと違う感じ?)
千鶴は、調号にシャープもフラットもつかない一見プレーンな楽譜に少しだけ見入った。
(続く)
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
夏の決意
S.H.L
青春
主人公の遥(はるか)は高校3年生の女子バスケットボール部のキャプテン。部員たちとともに全国大会出場を目指して練習に励んでいたが、ある日、突然のアクシデントによりチームは崩壊の危機に瀕する。そんな中、遥は自らの決意を示すため、坊主頭になることを決意する。この決意はチームを再び一つにまとめるきっかけとなり、仲間たちとの絆を深め、成長していく青春ストーリー。
坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】
S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。
物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる