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♯88
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未乃梨に連れられて大リハーサル室に着いた、ケースに収まったコントラバスを抱えた千鶴とほとんど同時に、サックスのケースを肩から提げた高森が合流するように入ってきた。
高森は千鶴の顔を見ると、にこにこした笑顔で声を掛けてきた。
「江崎さん、早速他校の女の子に注目されてたね?」
「え……? 見てたんですか!?」
ケースから出したコントラバスを支えたまま、千鶴はびくりとした。
「うん。しかも桃花高校の女の子たちとはねぇ」
千鶴と一緒に、そのセーラージャケットの少女たちに騒がれていた未乃梨が小首を傾げた。
「桃花高校? あのセーラー服みたいな制服の? コンクールじゃ聴いたことがないですけど……凄いんですか?」
「そうだね。一応吹奏楽部だけど、普通とはちょっと違うかな」
未乃梨に答えながらアルトサックスにいつものメタルのマウスピースを着けている高森に、ユーフォニアムのチューニングを済ませていた植村が振り向いた。
「玲って去年も桃花の演奏、楽しみにしてたもんね。ライブも一緒に出たぐらいだし」
「ああいう部はもっと増えていいと思うよ。聴く方も楽しいしね」
高森は植村に笑い返すと、アルトサックスの音出しを軽く始めた。気持ちのいい輝くようなサックスの音が、数度放たれて消えた。
高森と植村の話を横で聞きながら、千鶴は妙に思えたことがあった。
(さっきの桃花高校ってとこの子たち、ライブって……? しかも高森先輩、一緒に吹いたことがあるの?)
追われる時間を気にしつつ、千鶴は開放弦のAをチューニングメーターで合わせた。
千鶴たちの楽器の準備が終わったあたりで、いつもよりこざっぱりとした紺のスーツに身を包んだ子安が現れて、千鶴たち紫ヶ丘高校の吹奏楽部員に呼びかけた。
「皆さん、用意はいいですか? さあ、今日も楽しんでいきましょう!」
千鶴も、未乃梨も、高森や植村も、その他紫ヶ丘の部員たちも、一斉に頷いた。
大リハーサル室からすぐの上手側の舞台袖で、千鶴はコントラバスを抱えたまま身震いをしそうになった。舞台袖からは照明に照らされた舞台の床が少し見えていた。
下手側に集まっている、サックスや中低音やトロンボーンのパートの先頭にいる、高森が全員を見回しながら、小声で伝えた。
「今、上手側から打楽器パートが搬入をやってるから、それが終わったら、私についてサックス、ユーフォ、トロンボーン、テューバ、弦バスの順番で舞台に出てください」
他の部員の小声での返事を聞きながら、千鶴は内心ほっとひと息をついていた。
(よかった、舞台に出るのは私が一番最後だ)
五月の上旬に「あさがお園」で演奏した時にはあまり感じなかった緊張が、千鶴の身体を走っていた。
舞台袖のパーテーションが開いて、アルトサックスを持った高森が舞台に出た。それに続いて、他の部員たちも照明に照らされたパーテーションの向こうへと踏み出していく。テューバを抱えた新木や蘇我に続いて、千鶴もコントラバスを手に舞台へと出ていった。
コントラバスを手にした千鶴が舞台に現れると、客席から小さなどよめきが聞こえてきた。舞台から離れた客席の何人かは、千鶴のいる舞台の上手側を指差していた。
(そっか、女子で私みたいにでっかいのがコントラバスにいるの、高校の部活でも珍しいんだ。……そういえば、「あさがお園」の本場でも小さい子たちに騒がれたっけ)
千鶴は愉快な気持ちになって、舞台上を見回した。千鶴のいる場所からずっと遠い、下手側の最前にいるフルートパートの中の、未乃梨とも目が合った。未乃梨は、千鶴からの視線に気付いてか、微かに口角が上がっていた。
子安が舞台に現れて、客席から拍手が上がった。千鶴はスタンスを肩幅に取って、背筋を伸ばすと気負わずにコントラバスを構えた。凛々子から教わったことは、思い出すまでもなく身体に刻まれていた。
指揮台に上がった子安が、楽器を構えた紫ヶ丘高校の部員を見渡して指揮棒を構えた。
そして、「スプリング・グリーン・マーチ」の演奏が始まった。
トランペットとホルンが勢いよくファンファーレで飛び出て行くのを、千鶴はユーフォニアムやテューバと一緒に伸ばしの音で支えた。千鶴の音は、決して目立たないながらステージの隅々まで響いた。
前奏が終わってマーチの主部に入ると、千鶴の弓は練習通りに力むことなくしっかり行進のリズムを刻んだ。クラリネットからフルート、フルートからサックス、サックスからオーボエと木管楽器の間で受け渡されていく主旋律が、千鶴たち低音楽器のリズムに乗って歌われていく。すぐ近くでテューバを吹いている蘇我も、苦虫を噛み潰したような顔のまま、今日は周りを邪魔することなく適正な音量とアタックで吹いていた。
(良かった。蘇我さん、顎はもう大丈夫なんだ)
千鶴はやや笑顔になりつつ、マーチの中間部へと歩みを進めた。
金管楽器群が賑やかに一度マーチの主部を締めくくったあとで、千鶴の右腕の動きが変わった。決して乱暴にはならない、たっぷりと響くコントラバスのピッツィカートと、それに重なるユーフォニアムやテューバといった低音の管楽器のリズムやサックス群の後打ちに乗って、未乃梨のフルートのソロが伸びやかに歌った。
未乃梨は、吹奏楽では初めて感じる春風のような心地よさを、自分のソロについた伴奏に感じていた。
(凄い……こんなにバックで色んな楽器がいるのに、こんなに気持ちよく吹けるなんて……!)
舞台上手に未乃梨が目をやると、千鶴のコントラバスのピッツィカートを軸に伴奏が組み合わさって、あまりに理想的に音楽が進んでいた。指揮台に上がっている子安も、いつもの上機嫌な表情で、余計なアクションを出さずに指揮棒を振っている。
(千鶴のおかげで最高に気持ちよく吹けそう……さあ、行くわよ!)
未乃梨はいつもより深く吸えているブレスでフルートを吹きながら、自分のソロの結尾へと向かった。その小節でクラリネットやサックスやファゴットがさざ波のように舞って未乃梨のソロを受け止めて、マーチは再び主部へと返った。千鶴がピッツィカートから弓へとコントラバスの演奏を切り替えて、合奏全体を支える和音の土台の音を響かせていく。
未乃梨はその和音の中で、ひたすら爽快な気持ちでフルートを吹き続けた。
(続く)
高森は千鶴の顔を見ると、にこにこした笑顔で声を掛けてきた。
「江崎さん、早速他校の女の子に注目されてたね?」
「え……? 見てたんですか!?」
ケースから出したコントラバスを支えたまま、千鶴はびくりとした。
「うん。しかも桃花高校の女の子たちとはねぇ」
千鶴と一緒に、そのセーラージャケットの少女たちに騒がれていた未乃梨が小首を傾げた。
「桃花高校? あのセーラー服みたいな制服の? コンクールじゃ聴いたことがないですけど……凄いんですか?」
「そうだね。一応吹奏楽部だけど、普通とはちょっと違うかな」
未乃梨に答えながらアルトサックスにいつものメタルのマウスピースを着けている高森に、ユーフォニアムのチューニングを済ませていた植村が振り向いた。
「玲って去年も桃花の演奏、楽しみにしてたもんね。ライブも一緒に出たぐらいだし」
「ああいう部はもっと増えていいと思うよ。聴く方も楽しいしね」
高森は植村に笑い返すと、アルトサックスの音出しを軽く始めた。気持ちのいい輝くようなサックスの音が、数度放たれて消えた。
高森と植村の話を横で聞きながら、千鶴は妙に思えたことがあった。
(さっきの桃花高校ってとこの子たち、ライブって……? しかも高森先輩、一緒に吹いたことがあるの?)
追われる時間を気にしつつ、千鶴は開放弦のAをチューニングメーターで合わせた。
千鶴たちの楽器の準備が終わったあたりで、いつもよりこざっぱりとした紺のスーツに身を包んだ子安が現れて、千鶴たち紫ヶ丘高校の吹奏楽部員に呼びかけた。
「皆さん、用意はいいですか? さあ、今日も楽しんでいきましょう!」
千鶴も、未乃梨も、高森や植村も、その他紫ヶ丘の部員たちも、一斉に頷いた。
大リハーサル室からすぐの上手側の舞台袖で、千鶴はコントラバスを抱えたまま身震いをしそうになった。舞台袖からは照明に照らされた舞台の床が少し見えていた。
下手側に集まっている、サックスや中低音やトロンボーンのパートの先頭にいる、高森が全員を見回しながら、小声で伝えた。
「今、上手側から打楽器パートが搬入をやってるから、それが終わったら、私についてサックス、ユーフォ、トロンボーン、テューバ、弦バスの順番で舞台に出てください」
他の部員の小声での返事を聞きながら、千鶴は内心ほっとひと息をついていた。
(よかった、舞台に出るのは私が一番最後だ)
五月の上旬に「あさがお園」で演奏した時にはあまり感じなかった緊張が、千鶴の身体を走っていた。
舞台袖のパーテーションが開いて、アルトサックスを持った高森が舞台に出た。それに続いて、他の部員たちも照明に照らされたパーテーションの向こうへと踏み出していく。テューバを抱えた新木や蘇我に続いて、千鶴もコントラバスを手に舞台へと出ていった。
コントラバスを手にした千鶴が舞台に現れると、客席から小さなどよめきが聞こえてきた。舞台から離れた客席の何人かは、千鶴のいる舞台の上手側を指差していた。
(そっか、女子で私みたいにでっかいのがコントラバスにいるの、高校の部活でも珍しいんだ。……そういえば、「あさがお園」の本場でも小さい子たちに騒がれたっけ)
千鶴は愉快な気持ちになって、舞台上を見回した。千鶴のいる場所からずっと遠い、下手側の最前にいるフルートパートの中の、未乃梨とも目が合った。未乃梨は、千鶴からの視線に気付いてか、微かに口角が上がっていた。
子安が舞台に現れて、客席から拍手が上がった。千鶴はスタンスを肩幅に取って、背筋を伸ばすと気負わずにコントラバスを構えた。凛々子から教わったことは、思い出すまでもなく身体に刻まれていた。
指揮台に上がった子安が、楽器を構えた紫ヶ丘高校の部員を見渡して指揮棒を構えた。
そして、「スプリング・グリーン・マーチ」の演奏が始まった。
トランペットとホルンが勢いよくファンファーレで飛び出て行くのを、千鶴はユーフォニアムやテューバと一緒に伸ばしの音で支えた。千鶴の音は、決して目立たないながらステージの隅々まで響いた。
前奏が終わってマーチの主部に入ると、千鶴の弓は練習通りに力むことなくしっかり行進のリズムを刻んだ。クラリネットからフルート、フルートからサックス、サックスからオーボエと木管楽器の間で受け渡されていく主旋律が、千鶴たち低音楽器のリズムに乗って歌われていく。すぐ近くでテューバを吹いている蘇我も、苦虫を噛み潰したような顔のまま、今日は周りを邪魔することなく適正な音量とアタックで吹いていた。
(良かった。蘇我さん、顎はもう大丈夫なんだ)
千鶴はやや笑顔になりつつ、マーチの中間部へと歩みを進めた。
金管楽器群が賑やかに一度マーチの主部を締めくくったあとで、千鶴の右腕の動きが変わった。決して乱暴にはならない、たっぷりと響くコントラバスのピッツィカートと、それに重なるユーフォニアムやテューバといった低音の管楽器のリズムやサックス群の後打ちに乗って、未乃梨のフルートのソロが伸びやかに歌った。
未乃梨は、吹奏楽では初めて感じる春風のような心地よさを、自分のソロについた伴奏に感じていた。
(凄い……こんなにバックで色んな楽器がいるのに、こんなに気持ちよく吹けるなんて……!)
舞台上手に未乃梨が目をやると、千鶴のコントラバスのピッツィカートを軸に伴奏が組み合わさって、あまりに理想的に音楽が進んでいた。指揮台に上がっている子安も、いつもの上機嫌な表情で、余計なアクションを出さずに指揮棒を振っている。
(千鶴のおかげで最高に気持ちよく吹けそう……さあ、行くわよ!)
未乃梨はいつもより深く吸えているブレスでフルートを吹きながら、自分のソロの結尾へと向かった。その小節でクラリネットやサックスやファゴットがさざ波のように舞って未乃梨のソロを受け止めて、マーチは再び主部へと返った。千鶴がピッツィカートから弓へとコントラバスの演奏を切り替えて、合奏全体を支える和音の土台の音を響かせていく。
未乃梨はその和音の中で、ひたすら爽快な気持ちでフルートを吹き続けた。
(続く)
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