三角形のディスコード

阪淳志

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♯83

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 練習を終えてから、未乃梨みのりは音楽室に顔を出した。コントラバスを片付けに来るはずの千鶴ちづるの顔を見れば気も晴れるかもしれない、と未乃梨は思った。
(返事はもらっていないけど、やっぱり千鶴のことは好きだもん)
 落ち着かない気持ちで、いつしか未乃梨は制服のブレザーの袖口やスカートの裾を指先で摘んでは離したりしていた。
 千鶴がケースに収まったコントラバスを抱えて凛々子りりこと一緒に音楽室の前に現れるまで、そう時間はかからなかった。
「未乃梨。待っててくれたの?」
「ううん。ちょっと前に来たところ」
 屈託のない千鶴の顔を見て、やはり未乃梨の気持ちは少しだけ軽くなった。その傍らにいるのが入学以来ずっと千鶴の身近にいる凛々子だとしても、未乃梨は自分より顔ひとつは背が高い千鶴の姿を見るだけで、嬉しさすら感じていた。
「ありがと。コントラバス片付けてくるから、待っててね」
 千鶴が音楽室に引っ込むと、未乃梨は途端に居心地の悪さを感じていた。それを察したのか、凛々子の方から未乃梨に、つとめて穏やかに話しかけてきた。
「そういえば、吹奏楽部のコンクールってもうすぐだったかしら。曲は何を演奏するの?」
「課題曲が連合演奏会でもやる『スプリング・グリーン・マーチ』で、自由曲が『ドリー組曲』っていう原曲がピアノの曲です」
 どうしても素っ気ない口調になってしまう未乃梨に、凛々子はそれでも顔を輝かせた。
「あら、フォーレの? 素敵な曲をやるのね。私も大好きな曲よ」
「もしかして……『ドリー組曲』、知ってるんですか?」
 凛々子の以外な反応に、未乃梨の声は明るく開いた。凛々子は「だいぶ昔の話だけれど」と前置きをした。
「私が小さな頃に習ってたヴァイオリンの先生、ピアノも得意な方でね。レッスンの合間に『ドリー組曲』を弾いて聴かせてくれたことがあったの。それが知ったきっかけよ」
 楽しそうに思い出を話す凛々子は、意外にも未乃梨を惹きつけた。
「凛々子さん、そういえばピアノも弾けるみたいなこと、言ってましたっけ。その先生に習ったんですか?」
「ちょっとだけね。私、ピアノはあまり得意ではなくて、その先生にも、ピアノもヴァイオリンと同じぐらい頑張りましょうね、って言われるぐらいだったわ」
 決して褒められた内容ではない思い出すら、隠そうとせずに凛々子は未乃梨に話した。未乃梨のなかで、凛々子に対する引っ掛かりが少しずつ崩れていた。
「凛々子さん、それ、自慢になりませんよ?」
「そうね。でも、ピアノを弾くのは好きなのよ? ヴァイオリンと違ってピアノは私のことを好きになってくれないけれど」
「もう。秋にやるとかいう発表会、千鶴が出るんなら私が伴奏しますからね? 凛々子さんには任せておけないです」
 そう言いながら、未乃梨は沈んだ気持ちが晴れていくのを感じた。
 笑い合う未乃梨と凛々子に、コントラバスを片付けてきた千鶴が戻ってきた。
「お待たせ。あれ? 未乃梨と凛々子さん、何か盛り上がってた?」
「ちょっと、ね。私がピアノが得意じゃないの、未乃梨さんにバレてしまったわ」
「凛々子さん、もっと完璧超人だと思ってました」
 くすくすと微笑む凛々子と未乃梨に、千鶴も笑った。
「何それ。昔のマンガじゃあるまいし」
 千鶴は、未乃梨と凛々子に挟まれる形で昇降口へと向かった。以前のような気まずさは、未乃梨と凛々子の間には感じられなかった。
 校門に向かう途中、凛々子が意外なことを二人に勧めてきた。
「そうそう。夏休みって千鶴さんと未乃梨さんは部活以外は何か予定入ってるかしら?」
「えっと……私は結構暇ですけど、未乃梨は?」
 千鶴に問われて、未乃梨は「うーん」と難しい顔をした。
「コンクールがどうなるか、かなあ。県大会に進んだら夏休みは練習で潰れちゃうかも」
 凛々子は「ふむ」と頷いた。
「じゃ、練習の合間にでも、どこかに遊びに行かない? 私たち三人で」
「……いいですけど、千鶴と二人っきりになったりしないで下さいね? お祭りとかでどこかに行っちゃったり、プールでいつの間にかいなくなったりとかダメですから!」
 どこまでも強く言い切ろうとする未乃梨に、凛々子は形だけ、明らかに面白がる様子で眉をひそめた。
「まあ。未乃梨さんったら、千鶴さんとそんなことをしようと思ってたの?」
「そ、そういう訳じゃないです、ただ、凛々子さんってすぐ千鶴と距離を詰めちゃうし」
「じゃ、こうしましょう。千鶴さんには、両手に花をキープしてもらうってことで」
 凛々子が、わざと艶のかかった声で千鶴に近寄った。間髪入れずに、未乃梨は千鶴の左腕にすがり付いた。
「もう。千鶴はあげないって、言ったじゃないですか」
「あ、あの、未乃梨?」
 急に腕を取ってきた未乃梨に、千鶴は戸惑った。それに構わず、凛々子は艶のかかった声を未乃梨に向けた。
「千鶴さん、困ってるわよ? やっぱり、私が千鶴さんに付いてあげなくちゃダメかしらね」
 凛々子は千鶴の右手をそっと握って、片目をつむってみせた。
「凛々子さんまで? ふ、二人とも落ち着いて?」
「千鶴! こっち見て」
「千鶴さん、私も悪くないわよ?」
 未乃梨からは強引に、凛々子からはいたずらっぽく、千鶴は左右から迫られてしまっていた。二人の少女に乱される千鶴の困惑は、あまりに甘く、心地よいものではあった。

(続く)
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