三角形のディスコード

阪淳志

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♯75

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 千鶴ちづるのコントラバスと智花ともかのチェロが弾く、リズムだけなら単純極まる通奏低音に支えられて、「主よ、人の望みの喜びよ」の泉が湧き出るような三連符の旋律が、凛々子りりこのヴァイオリンから流れだした。
 その凛々子の三連符と、未乃梨みのりのフルートが歌う、真っ直ぐで伸びやかなもう一つの旋律が絡み合って、晴れやかな響きを生み出していた。それは、千鶴がさんざんこの曲を練習してきたその時よりも美しく響いた。
(いつもと楽器が違うから? ……それとも?)
 確かに、今日千鶴初めて触る、智花が車で運んできたという凛々子がユースオーケストラから借り出してきたコントラバスは、千鶴からしても、吹奏楽部の備品より明らかに程度の良い楽器だった。
 千鶴は、今日の演奏で自分が色んなところを無意識に見て、聴いていることに気付いた。
 隣で弾いている智花のチェロとの低音同士での噛み合い。そのすぐ上の音域を弾いている、瑞香みずかのヴィオラと千鶴の弾いた低音が混ざって生まれる和音の色合い。同じ高音の楽器であっても、音色も立ち振舞もまるで異なる、しかしどちらの奏者もどこかしら千鶴に送る視線は似ているようにも思える、未乃梨のフルートと凛々子のヴァイオリン。
 千鶴の目に入ってくるのは、他の四人の演奏者の様子だけではなかった。
「あさがお園」の食堂に集まって、床に腰を下ろして聴いている子供たちの態度は、最初のパッヘルベルの「カノン」を演奏する前とは明らかに違っていた。
 子供たちは、「主よ、人の望みの喜びよ」描き出す、バッハが音楽に彫り込んだ祈りや喜びや生命力に照らされるように、明るい表情を千鶴たち演奏者に向けていた。
(きっと、今日の私が、いや、私たちが、この曲にきちんと向き合ってきたから……?)
 いつしか、曲の終わりが見え始めていた。千鶴は、凛々子と出会ってから放課後に彼女のヴァイオリンと何度も弾いて合わせた「主よ、人の望みの喜びよ」の音の一つひとつを、惜しむように弾いた。それは、どこまでも豊かな響きの中を進んで、最後はト長調の主和音の中で晴れやかに締めくくられた。
「主よ、人の望みの喜びよ」が終止符を迎えて、ほんの少しの静寂のあとに、子供たちの大きな拍手が、笑顔とともに千鶴たちに向けられた。


 演奏を終えて程なくして、「あさがお園」の建物に子供たちのざわついた喧騒が戻ってきた。それが、借り物のコントラバスを片付けている千鶴には、いっそ心地良かった。
(ここの子たち、喜んでくれてるといいな)
 そんなことを思いながら、ケースに収まったコントラバスを智花の軽自動車に運ぼうとしている千鶴に、元気な声が背後から浴びせられた。
「おっきいおねーさん、またね!」
「おっきいおねーさん、かっこよかった!」
 未乃梨と一緒に準備にかかっている時に千鶴を「おにーさん」と呼んだ子供たちが、笑顔で手を振っていた。
 千鶴も、子供たちに思わず笑顔にならずにはいられなかった。
「うん、またね。それまで、元気でね」
「うん、またねー!」
 元気にぱたぱたと足音を立てて走り去る子供たちを見送る千鶴を、ワインレッドのヴァイオリンケースを担いだ凛々子が呼び止めた。
「また、演奏に来なきゃいけなくなったわね、千鶴お姉さん?」
 凛々子もまた、笑顔になっていた。
「そう、ですね。……安請け合いしちゃったような気もするけど」
「いいのよ。あさがお園ここに住んでる子たちの事情は何となく知ってるでしょう? あの子たちが少しでも明るい気持ちになれる手助けを、あなたもしたのよ」
「そういえば、親と離れてたり、そもそも親がいなかったりする子たち、でしたっけ」
「あれくらいの歳の子には、無限に優しい気持ちを浴びる権利があるって私は思うの。千鶴さん、あなたの優しさも、きっとあの子たちに届くわ」
「だと、いいですね」
 不意に、智花の声がした。
「千鶴ちゃーん、コンバスもう積んじゃって!」
 軽自動車を動かしてハッチを「あさがお園」の入口につけていた智花が、瑞香と一緒に自分たちの楽器や譜面台を積み込んでいた。
「そうね。さあ、帰りましょうか」
 凛々子に促されて、千鶴はコントラバスを抱えて智花の車に向かった。


 未乃梨もまた、子供たちに笑顔を向けられていた。
「ふえのおねーさん、またね!」
「ありがとうね。みんな、元気でね」
「ちっさいおねーさんのふえ、きれいだったー!」
「おっきいおねーさんによろしくねー!」
「うん。伝えておくね」
 子供たちからの素朴な感想に、未乃梨は笑顔にならざるを得なかった。子供たちの向うで、「おっきいおねーさん」と呼ばれた千鶴が、ケースに収まったコントラバスを運んでいた。
 その千鶴に、子供たちが囲んで代わりばんこに近づいては話しかけている。巨大な楽器を弾いていた並の男性より背の高い千鶴は、「あさがお園」の子供たちには珍しく映ったのか、随分と人気のようだった。
 子供たちに囲まれた千鶴は、まるで困った顔もせずに子供たちの相手をしていた。
(千鶴、あんなに子供たちに人気なのね)
 それが、未乃梨には誇らしい。千鶴の優しさは、未乃梨も少なからず知っている身だった。
 その千鶴から子供たちが離れていったあとで、ワインレッドのヴァイオリンケースを担いだ凛々子が千鶴に近寄って、何かを話していた。
 伸びかけたボブの髪をリボンで結って、フーディにクロップドパンツの少年めいた装いの長身の千鶴と、紺の半袖のマキシワンピースに身を包んだ、緩くウェーブの掛かった長い黒髪の高校生にしては大人びている凛々子は、並んで立っている姿が不思議に絵になっていた。
(千鶴……凛々子さんと、何を話しているのかな)
 その間に入る勇気すらもてず、未乃梨はただ二人を遠巻きに見つめていた。

(続く)


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