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「あさがお園」の職員の谷山からの紹介を受けて、凛々子は子供たちに向けて一歩踏み出た。
「あさがお園のお友達の皆さん、こんにちは」
「おねーさん、こんにちはー!」
穏やかに挨拶をする凛々子に、子供たちは大きな声で凛々子を含んだ五人に元気に返事をした。
「今までに何度かこのあさがお園で演奏をさせて頂きましたが、今回は今までとちょっと違って、色んな楽器の五人で演奏をさせてもらうことになりました。最初の曲は、ずうっと昔のドイツに生まれた、パッヘルベルという作曲家の作った『カノン』という、向こうの大きな楽器二人の伴奏に乗って、音の高い楽器三人で追いかけ合う曲です。それでは聴いて下さい」
凛々子は元の立ち位置に戻ると、まずコントラバスの千鶴とチェロの智花に、それから自分の両隣のヴィオラの瑞香と未乃梨に短くアイコンタクトを送ってから、ヴァイオリンを構えた。
千鶴が軸になる四分音符を弾いて智花が和音の音を穴埋めする二小節の通奏低音のパターンが現れて、最初に凛々子のヴァイオリンが「カノン」のテーマを弾き出した。続いて未乃梨のフルートが、その後に瑞香のヴィオラがテーマを歌い出した。
凛々子のヴァイオリンの遊びのある旋律の運びと、未乃梨のフルートの真っ直ぐな音の運びと、瑞香の丸く柔らかなヴィオラの響きが追いかけ合い、色合いの異なる三本の同じ旋律が絡み合って、美しい花を咲かせた蔓草が一本の柱に巻き付いて咲き乱れるように、食堂の空気を彩った。
その、楽曲の柱となる通奏低音を弾きながら、いつもと違う響きに全神経を傾けた。
(このコントラバス、なんていうか学校の楽器よりパワーがあるし、鳴り方も全然違う……!)
千鶴は、鳴らし過ぎに細心の注意を払いつつ、ふと視界の端に何かが動いているのを見て取った。
千鶴や智花が弾く通奏低音に合わせて、床に座り込んで聴いている子供たちが顔を振ったり、身体を揺すったりしていた。
後ろの方で寝そべるのに近いような姿勢で床にへばりついていた子が身体を起こしていた。足を伸ばしてよそ見をしていた子が千鶴たちの方を向いて顔を上げていた。よく聴かれるようなパッヘルベルの「カノン」より速めの、千鶴たちが演奏している踊るようなテンポに合わせて、子供たちが楽しそうに身体を動かしていた。
「カノン」の曲が進んで凛々子と未乃梨と瑞香の旋律が更に進むにつれて、子供たちの瞳は千鶴たちを向いていった。
千鶴はコントラバスを弾きながら視線を子供たちから自分たち演奏者に向けた。
未乃梨はあまり身体を揺らさずにフルートを吹いていたが、隣でヴァイオリンを弾く凛々子がフレーズに遊びを入れるたびに未乃梨のハーフアップの髪が揺れた。瑞香は二人に我関せずを決め込んでいるように見えて、未乃梨や凛々子が入れた遊びをこっそり模倣して続いていた。智花は繰り返しを続ける低音に挟み込む音を少しずつ変えて、「カノン」の進行にスパイスを入れている。
四人とも、表情は間違いなくほころんでいたし、千鶴も演奏しながら自分の口角が少し上がっているのを感じていた。
「カノン」が最後のニ長調の和音にたどり着いても、子供たちの間に生まれたやんちゃにも思える空気は消えていなかった。むしろ、子供たちは「カノン」の演奏にどこかしら浮き立っていた。
ざわついた子供たちの中から、拍手が起こった。
拍手が静まった辺りで、再び凛々子が子供たちの前に進み出た。
「最初の曲は、パッヘルベルの『カノン』でした。続いては、さっきのパッヘルベルの少し後の時代のドイツの作曲家で、みんなが音楽の授業で聴くこともあるバッハの曲を演奏します。本当はヴァイオリンがメロディを弾く曲ですが、今日は特別にフルートの未乃梨お姉さんの演奏でやります」
子供たちの間から、「さっきのちいさいほうのおねーさんだー」という声が上がって、凛々子も瑞香も思わず笑みをこぼした。智花もチェロを抱えたまま笑顔になっていて、千鶴もつられて笑っていた。それに気付いて、未乃梨は一瞬だけ恥ずかしそうに千鶴を見た。その未乃梨も、笑顔になっていた。
「では、聴いてください。バッハ作曲の『G線上のアリア』」
未乃梨がフルートを構え直して、千鶴を見た。千鶴も弓を下ろして、コントラバスの弦に指を掛けた。
千鶴がコントラバスの弦を指ではじく、いつもより豊かな響きのピッツィカートに乗って、未乃梨の旋律が瑞々しく流れ出した。
未乃梨のフルートは、「G線上のアリア」の祈るような旋律をどこまでも真っ直ぐに吹いた。それに対置されている凛々子のヴァイオリンと瑞香のヴィオラが、未乃梨のフルートを彩っていく。
かと思うと、時折未乃梨のフルートが旋律の伸ばしの音符で楽譜に書かれていない遊びを入れた。澄んだせせらぎから舞い散った水滴のように、その遊びの音符はきらきらと聴こえた。
未乃梨は、「G線上のアリア」の演奏中、ずっと千鶴を見ていた。コントラバスの弦をはじく指や右腕の運びも、アンサンブル全体を全身で聴いているような所作も、全て未乃梨は見逃さずにはいられなかった。
(……千鶴、初めての本番なのに、こんなに頼もしいなんて……!)
その未乃梨を、凛々子はヴァイオリンを弾きながらそっと横目で見た。
(そんな目で千鶴さんを見てるってことは……やっぱり、千鶴さんに告白した子ってあなたなのね。……でも、そんな演奏を未乃梨さんに引き出させた千鶴さんを、私も好きになってしまっているわ)
「G線上のアリア」が終止線にたどり着いてから、凛々子はそんなことを表情にも出さず、未乃梨の名を告げた。
「『G線上のアリア』でした。フルートの未乃梨お姉さんに拍手を!」
子供たちの拍手を受けて、フルートを胸元に持ってお辞儀をする未乃梨を、凛々子は笑顔のまま見つめた。
(続く)
「あさがお園のお友達の皆さん、こんにちは」
「おねーさん、こんにちはー!」
穏やかに挨拶をする凛々子に、子供たちは大きな声で凛々子を含んだ五人に元気に返事をした。
「今までに何度かこのあさがお園で演奏をさせて頂きましたが、今回は今までとちょっと違って、色んな楽器の五人で演奏をさせてもらうことになりました。最初の曲は、ずうっと昔のドイツに生まれた、パッヘルベルという作曲家の作った『カノン』という、向こうの大きな楽器二人の伴奏に乗って、音の高い楽器三人で追いかけ合う曲です。それでは聴いて下さい」
凛々子は元の立ち位置に戻ると、まずコントラバスの千鶴とチェロの智花に、それから自分の両隣のヴィオラの瑞香と未乃梨に短くアイコンタクトを送ってから、ヴァイオリンを構えた。
千鶴が軸になる四分音符を弾いて智花が和音の音を穴埋めする二小節の通奏低音のパターンが現れて、最初に凛々子のヴァイオリンが「カノン」のテーマを弾き出した。続いて未乃梨のフルートが、その後に瑞香のヴィオラがテーマを歌い出した。
凛々子のヴァイオリンの遊びのある旋律の運びと、未乃梨のフルートの真っ直ぐな音の運びと、瑞香の丸く柔らかなヴィオラの響きが追いかけ合い、色合いの異なる三本の同じ旋律が絡み合って、美しい花を咲かせた蔓草が一本の柱に巻き付いて咲き乱れるように、食堂の空気を彩った。
その、楽曲の柱となる通奏低音を弾きながら、いつもと違う響きに全神経を傾けた。
(このコントラバス、なんていうか学校の楽器よりパワーがあるし、鳴り方も全然違う……!)
千鶴は、鳴らし過ぎに細心の注意を払いつつ、ふと視界の端に何かが動いているのを見て取った。
千鶴や智花が弾く通奏低音に合わせて、床に座り込んで聴いている子供たちが顔を振ったり、身体を揺すったりしていた。
後ろの方で寝そべるのに近いような姿勢で床にへばりついていた子が身体を起こしていた。足を伸ばしてよそ見をしていた子が千鶴たちの方を向いて顔を上げていた。よく聴かれるようなパッヘルベルの「カノン」より速めの、千鶴たちが演奏している踊るようなテンポに合わせて、子供たちが楽しそうに身体を動かしていた。
「カノン」の曲が進んで凛々子と未乃梨と瑞香の旋律が更に進むにつれて、子供たちの瞳は千鶴たちを向いていった。
千鶴はコントラバスを弾きながら視線を子供たちから自分たち演奏者に向けた。
未乃梨はあまり身体を揺らさずにフルートを吹いていたが、隣でヴァイオリンを弾く凛々子がフレーズに遊びを入れるたびに未乃梨のハーフアップの髪が揺れた。瑞香は二人に我関せずを決め込んでいるように見えて、未乃梨や凛々子が入れた遊びをこっそり模倣して続いていた。智花は繰り返しを続ける低音に挟み込む音を少しずつ変えて、「カノン」の進行にスパイスを入れている。
四人とも、表情は間違いなくほころんでいたし、千鶴も演奏しながら自分の口角が少し上がっているのを感じていた。
「カノン」が最後のニ長調の和音にたどり着いても、子供たちの間に生まれたやんちゃにも思える空気は消えていなかった。むしろ、子供たちは「カノン」の演奏にどこかしら浮き立っていた。
ざわついた子供たちの中から、拍手が起こった。
拍手が静まった辺りで、再び凛々子が子供たちの前に進み出た。
「最初の曲は、パッヘルベルの『カノン』でした。続いては、さっきのパッヘルベルの少し後の時代のドイツの作曲家で、みんなが音楽の授業で聴くこともあるバッハの曲を演奏します。本当はヴァイオリンがメロディを弾く曲ですが、今日は特別にフルートの未乃梨お姉さんの演奏でやります」
子供たちの間から、「さっきのちいさいほうのおねーさんだー」という声が上がって、凛々子も瑞香も思わず笑みをこぼした。智花もチェロを抱えたまま笑顔になっていて、千鶴もつられて笑っていた。それに気付いて、未乃梨は一瞬だけ恥ずかしそうに千鶴を見た。その未乃梨も、笑顔になっていた。
「では、聴いてください。バッハ作曲の『G線上のアリア』」
未乃梨がフルートを構え直して、千鶴を見た。千鶴も弓を下ろして、コントラバスの弦に指を掛けた。
千鶴がコントラバスの弦を指ではじく、いつもより豊かな響きのピッツィカートに乗って、未乃梨の旋律が瑞々しく流れ出した。
未乃梨のフルートは、「G線上のアリア」の祈るような旋律をどこまでも真っ直ぐに吹いた。それに対置されている凛々子のヴァイオリンと瑞香のヴィオラが、未乃梨のフルートを彩っていく。
かと思うと、時折未乃梨のフルートが旋律の伸ばしの音符で楽譜に書かれていない遊びを入れた。澄んだせせらぎから舞い散った水滴のように、その遊びの音符はきらきらと聴こえた。
未乃梨は、「G線上のアリア」の演奏中、ずっと千鶴を見ていた。コントラバスの弦をはじく指や右腕の運びも、アンサンブル全体を全身で聴いているような所作も、全て未乃梨は見逃さずにはいられなかった。
(……千鶴、初めての本番なのに、こんなに頼もしいなんて……!)
その未乃梨を、凛々子はヴァイオリンを弾きながらそっと横目で見た。
(そんな目で千鶴さんを見てるってことは……やっぱり、千鶴さんに告白した子ってあなたなのね。……でも、そんな演奏を未乃梨さんに引き出させた千鶴さんを、私も好きになってしまっているわ)
「G線上のアリア」が終止線にたどり着いてから、凛々子はそんなことを表情にも出さず、未乃梨の名を告げた。
「『G線上のアリア』でした。フルートの未乃梨お姉さんに拍手を!」
子供たちの拍手を受けて、フルートを胸元に持ってお辞儀をする未乃梨を、凛々子は笑顔のまま見つめた。
(続く)
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