67 / 135
♯67
しおりを挟む
植村は、完全に未乃梨の反応を面白がっていた。
「ごめんごめん。小阪さん、なんか沈んでる感じだったから、つい」
「もう。植村先輩、変なこと言わないでください」
未乃梨は植村が上級生ということも忘れかけて、目尻を上げた。
「しっかし、さっきの小阪さん、可愛かったよ。そういう顔の小阪さんを、周りの人も見たいんじゃないかな」
未乃梨は今度は顔を赤らめた。未乃梨の目尻は元に戻っていた。
「そんな……考えたこともなかったっていうか」
「不機嫌で周りを動かすより、上機嫌で周りを動かす方がずっといい、ってね」
未乃梨の隣の鏡で前髪を直し始めた植村に、いつの間にか未乃梨の顔はほころんでいた。
手洗いから戻ってきてフルートのチューニングを確かめる未乃梨に、千鶴は少し安堵した。未乃梨の表情から、暗い影が消えていた。
凛々子のヴァイオリンや千鶴のコントラバスの調弦のためにAの音をチューナーを見ながら吹く時も、未乃梨は千鶴や凛々子の方をきちんと向いていた。
(よかった。未乃梨、元気になったみたい。……元気をなくした原因は私にあるようなものだけど)
そのまま、「主よ、人の望みの喜びよ」の合わせが始まった。
千鶴のコントラバスは軽快さを増していた。テンポは以前よりまた僅かに速くなって、この曲に隠れていた踊るような性格がはっきりと現れていた。
三拍子の軸になる、上下に動き回る四分音符の低音を弾く千鶴のコントラバスと、泉が湧き出るような三連符の旋律を弾く凛々子のヴァイオリンと、二分音符と四分音符で伸びやかに歌う未乃梨のフルートが重なる箇所では、欠けているパートがあるにも関わらずそれぞれが自分の演奏するパートを見失わないどころか、それぞれが主役のように振る舞って演奏できていた。
コントラバスを始めて間がない千鶴も、リズムだけ見れば単純極まる「主よ人の望みの喜びよ」の低音の譜面を、自分でも信じられないほど楽しみながら弾いていた。
「主よ、人の望みの喜びよ」はそのまま終止符へとたどり着いた。凛々子は顎に挟んでいたヴァイオリンを離すと、千鶴と未乃梨に満足そうな笑顔を向けた。
「二人とも良かったわよ。あとは、全員の合わせができれば本番も安心だわ」
「確か、来週でしたっけ?」
表情から翳りの取れた未乃梨が、譜面に書き込みをしながら言った。
「ええ。前回の合わせも良い出来だったし、瑞香さんと智花さんも楽しみにしているわ」
凛々子は、弓を緩めながら未乃梨を見た。明らかに、未乃梨の表情はどこかしら明るかった。
「未乃梨、頑張らなきゃね?」
「……うん!」
コントラバスを身体に立てかけて弓を少し締め直す千鶴に、未乃梨はややはにかんだように、元気に答えた。
「あ、いたいた。ちょっとお邪魔しまーす」
三人が入っていた空き教室に、凛々子と同じ赤いリボンの、ワンレングスボブの上級生が入ってきた。
「あ、仲谷先輩。お疲れ様です」
未乃梨はフルートを持ったままそのワンレングスボブの少女に一礼した。仲谷は千鶴と凛々子に「あ、フルートの二年の仲谷です」と会釈してから未乃梨に向き直る。
「小阪さんコンクールメンバーだよね? 部活終わってからちょっと音楽室に残ってね。細かい練習日程とか渡すから」
「練習日程っていうと?」
「詳しいことは後で説明するけど、コンクールメンバーだけ土曜か日曜に学校で練習あるんだ。それだけ、宜しくね。あと」
仲谷は千鶴と凛々子を見回すと、茶目っ気のある様子で片目をつむった。
「小阪さん、ヴァイオリンとか弦バスと合わせてるの聴こえてたけど、良かったよ!」
「あ、ありがとうございます」
「今度、部活外で本番やってくるんだっけ? 頑張ってね。お二人とも、うちのパート員を宜しくお願いします」
仲谷は未乃梨を労ってから千鶴と凛々子に一礼すると、空き教室を出ていった。
「さっきの未乃梨さんの先輩にも言われたけど、良い本番にしましょうね。そろそろ、片付けましょうか」
凛々子は教室の時計を見上げた。そろそろ、部活動が終わる時間だった。
音楽室にコントラバスを返却すると、千鶴は音楽室の戸口で待っていた凛々子と昇降口ヘと向かった。
「未乃梨、ちょっと元気なさそうだったけど、後半から元に戻ってくれて、良かったです」
「あら、よく見てるのね。流石は大親友、ってとこかしら?」
凛々子は自分より顔ひとつ分は背の高い千鶴を見上げた。
「えっと……まあ。ちょっと表情暗かったし、どうしたのかなって思って」
千鶴は思わず凛々子からあらぬ方向へと顔を背けた。
「千鶴さん、あなた、モテそうね?」
くすくすと笑う凛々子に、千尋は伸びかけのボブの髪のリボンで結んだ根元辺りを掻いた。
「そんなことは……ないと思いますけど」
「あーっ、千鶴っちじゃん。今帰り?」
「そっちの美人さん誰? カノジョさん?」
唐突に名前を呼ばれて、千鶴は「え?」と狼狽えて、凛々子は「まあ」と微笑んだ。千鶴に声を掛けてきたのは、クラスメイトの結城志之だった。志之は同じバレー部員らしき少女たち数人と一緒だった。
「これから帰るところだけど……凛々子さんは、カノジョとかじゃないよ」
志之の隣にいる、千鶴ほどではないが背の高いミディアムヘアの女子が「えーっ」と声を上げた。
「確か一組の仙道先輩ですよね? 志之、江崎さんと仙道先輩、めっちゃお似合いだよね?」
「ホントだ。女子同士でここまでベストカップルっていなくない?」
「あ、あの、ちょっと」
はしゃぎ出したバレー部員の女子たちや、側でにこにこ微笑んでいる凛々子に、千鶴はたじろいだ。
ふと、校門に面した二階の窓がからりと開いて、セミロングの髪をリボンでハーフアップに結ったよく知る姿が廊下からひょっこりと顔を覗かせた。
「千鶴ーっ! 用事終わったからそのまま待ってて!」
すっかり明るくなった未乃梨の声と、周りのバレー部の女子たちのどよめきと、凛々子のくすくす笑う声に囲まれて、千鶴は冷や汗が止まらなかった。
(続く)
「ごめんごめん。小阪さん、なんか沈んでる感じだったから、つい」
「もう。植村先輩、変なこと言わないでください」
未乃梨は植村が上級生ということも忘れかけて、目尻を上げた。
「しっかし、さっきの小阪さん、可愛かったよ。そういう顔の小阪さんを、周りの人も見たいんじゃないかな」
未乃梨は今度は顔を赤らめた。未乃梨の目尻は元に戻っていた。
「そんな……考えたこともなかったっていうか」
「不機嫌で周りを動かすより、上機嫌で周りを動かす方がずっといい、ってね」
未乃梨の隣の鏡で前髪を直し始めた植村に、いつの間にか未乃梨の顔はほころんでいた。
手洗いから戻ってきてフルートのチューニングを確かめる未乃梨に、千鶴は少し安堵した。未乃梨の表情から、暗い影が消えていた。
凛々子のヴァイオリンや千鶴のコントラバスの調弦のためにAの音をチューナーを見ながら吹く時も、未乃梨は千鶴や凛々子の方をきちんと向いていた。
(よかった。未乃梨、元気になったみたい。……元気をなくした原因は私にあるようなものだけど)
そのまま、「主よ、人の望みの喜びよ」の合わせが始まった。
千鶴のコントラバスは軽快さを増していた。テンポは以前よりまた僅かに速くなって、この曲に隠れていた踊るような性格がはっきりと現れていた。
三拍子の軸になる、上下に動き回る四分音符の低音を弾く千鶴のコントラバスと、泉が湧き出るような三連符の旋律を弾く凛々子のヴァイオリンと、二分音符と四分音符で伸びやかに歌う未乃梨のフルートが重なる箇所では、欠けているパートがあるにも関わらずそれぞれが自分の演奏するパートを見失わないどころか、それぞれが主役のように振る舞って演奏できていた。
コントラバスを始めて間がない千鶴も、リズムだけ見れば単純極まる「主よ人の望みの喜びよ」の低音の譜面を、自分でも信じられないほど楽しみながら弾いていた。
「主よ、人の望みの喜びよ」はそのまま終止符へとたどり着いた。凛々子は顎に挟んでいたヴァイオリンを離すと、千鶴と未乃梨に満足そうな笑顔を向けた。
「二人とも良かったわよ。あとは、全員の合わせができれば本番も安心だわ」
「確か、来週でしたっけ?」
表情から翳りの取れた未乃梨が、譜面に書き込みをしながら言った。
「ええ。前回の合わせも良い出来だったし、瑞香さんと智花さんも楽しみにしているわ」
凛々子は、弓を緩めながら未乃梨を見た。明らかに、未乃梨の表情はどこかしら明るかった。
「未乃梨、頑張らなきゃね?」
「……うん!」
コントラバスを身体に立てかけて弓を少し締め直す千鶴に、未乃梨はややはにかんだように、元気に答えた。
「あ、いたいた。ちょっとお邪魔しまーす」
三人が入っていた空き教室に、凛々子と同じ赤いリボンの、ワンレングスボブの上級生が入ってきた。
「あ、仲谷先輩。お疲れ様です」
未乃梨はフルートを持ったままそのワンレングスボブの少女に一礼した。仲谷は千鶴と凛々子に「あ、フルートの二年の仲谷です」と会釈してから未乃梨に向き直る。
「小阪さんコンクールメンバーだよね? 部活終わってからちょっと音楽室に残ってね。細かい練習日程とか渡すから」
「練習日程っていうと?」
「詳しいことは後で説明するけど、コンクールメンバーだけ土曜か日曜に学校で練習あるんだ。それだけ、宜しくね。あと」
仲谷は千鶴と凛々子を見回すと、茶目っ気のある様子で片目をつむった。
「小阪さん、ヴァイオリンとか弦バスと合わせてるの聴こえてたけど、良かったよ!」
「あ、ありがとうございます」
「今度、部活外で本番やってくるんだっけ? 頑張ってね。お二人とも、うちのパート員を宜しくお願いします」
仲谷は未乃梨を労ってから千鶴と凛々子に一礼すると、空き教室を出ていった。
「さっきの未乃梨さんの先輩にも言われたけど、良い本番にしましょうね。そろそろ、片付けましょうか」
凛々子は教室の時計を見上げた。そろそろ、部活動が終わる時間だった。
音楽室にコントラバスを返却すると、千鶴は音楽室の戸口で待っていた凛々子と昇降口ヘと向かった。
「未乃梨、ちょっと元気なさそうだったけど、後半から元に戻ってくれて、良かったです」
「あら、よく見てるのね。流石は大親友、ってとこかしら?」
凛々子は自分より顔ひとつ分は背の高い千鶴を見上げた。
「えっと……まあ。ちょっと表情暗かったし、どうしたのかなって思って」
千鶴は思わず凛々子からあらぬ方向へと顔を背けた。
「千鶴さん、あなた、モテそうね?」
くすくすと笑う凛々子に、千尋は伸びかけのボブの髪のリボンで結んだ根元辺りを掻いた。
「そんなことは……ないと思いますけど」
「あーっ、千鶴っちじゃん。今帰り?」
「そっちの美人さん誰? カノジョさん?」
唐突に名前を呼ばれて、千鶴は「え?」と狼狽えて、凛々子は「まあ」と微笑んだ。千鶴に声を掛けてきたのは、クラスメイトの結城志之だった。志之は同じバレー部員らしき少女たち数人と一緒だった。
「これから帰るところだけど……凛々子さんは、カノジョとかじゃないよ」
志之の隣にいる、千鶴ほどではないが背の高いミディアムヘアの女子が「えーっ」と声を上げた。
「確か一組の仙道先輩ですよね? 志之、江崎さんと仙道先輩、めっちゃお似合いだよね?」
「ホントだ。女子同士でここまでベストカップルっていなくない?」
「あ、あの、ちょっと」
はしゃぎ出したバレー部員の女子たちや、側でにこにこ微笑んでいる凛々子に、千鶴はたじろいだ。
ふと、校門に面した二階の窓がからりと開いて、セミロングの髪をリボンでハーフアップに結ったよく知る姿が廊下からひょっこりと顔を覗かせた。
「千鶴ーっ! 用事終わったからそのまま待ってて!」
すっかり明るくなった未乃梨の声と、周りのバレー部の女子たちのどよめきと、凛々子のくすくす笑う声に囲まれて、千鶴は冷や汗が止まらなかった。
(続く)
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる