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♯58
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昼休みが終わって屋上から教室に戻るまで、千鶴は上の空だった。
千鶴は、未乃梨に手を引かれるまま、まるで助け起こされるように屋上の床から立ちあがる時も、階段を降りて廊下を歩いている時も、なぜか足元の感覚が落ち着かなかった。
自分の手を引く未乃梨の小さな手の感触が、凛々子に一度だけ手を貸して歩いた時のことを思い起こさせて、千鶴の落ち着きを奪っていた。教室に戻ってすぐ、千鶴は自分の席に戻って何とか平静を保とうとしながら、次の授業の準備をした。少し離れた後ろの方の席にいる未乃梨には、振り返る勇気すらなかった。
放課後になって、千鶴はやっと未乃梨の顔を見ることができた。
「千鶴、部活行こっか」
「……うん」
千鶴は、昼休みの終わりの時のように未乃梨に手を引かれて音楽室に向かった。未乃梨から手を握ってきたことは十回や二十回では収まらないはずなのに、千鶴の胸の奥の鼓動は強まるばかりだった。その理由は、千鶴にははっきりしていた。
(私、未乃梨に好きだって告白されたのに、凛々子さんと未乃梨の知らないところで一緒にいたり手をつないだりしてた……そんなの、いけないことなのに)
吹奏楽部の部員ではないにも関わらず、時間を割いてヴァイオリンを持参してまで千鶴のコントラバスの練習を見てくれる凛々子の存在は千鶴の中で少しずつ大きくなっていた。
音楽室からコントラバスを借り出して練習場所を探す時に、千鶴は未乃梨を振り返ることすら出来なかった。少しだけ、自分の顔が熱を持っているような気がした。
この後、どこかの空き教室にヴァイオリンを持参して千鶴を探してやってくるであろう凛々子と会うことは、未乃梨が知っていることであるにも関わらず、千鶴には何故か後ろめたかった。
空き教室を見つけると、千鶴はそこでコントラバスをケースから出して、顔の火照りが治まらないままチューナーを見ながら調弦を始めた。首から肩にかけて、経験したことのない不快な動かしづらいさがあって、それが千鶴にはいつまでも気になっていた。
コントラバスの調弦は、いつまで経っても合わなかった。
未乃梨はフルートパートの練習に出かける前に、音楽室で植村に声をかけられた。
「よっ、お疲れ様」
「植村先輩。朝、低音のセク練だったんですよね」
「うん。まあ、形にはなったよ。江崎さんも、初心者なのにちゃんと付いてこれてたしね。ところで」
植村は声をひそめた。
「小阪さん、江崎さんと何かあった? 江崎さん、なんか顔が赤かったけど」
「……なんでも、ないです。ただ、今はちょっと」
言葉を詰まらせかけた未乃梨に、植村はそれ以上追求することはしなかった。
「ま、無理に話さなくていいよ。大事な友達でしょ? この前は、江崎さんのこと、カノジョだなんて茶化してごめんね」
「……いいえ。気にしないで下さい。別に、喧嘩とかしたわけじゃないので。それじゃ、パート練習行ってきます」
未乃梨は植村に笑顔を作ってみせてから、いつもの薄緑色のフルートケースを持って踵を返した。
「……ありゃ、何かあったクチかもねえ。ま、テューバの誰かさんみたいなことには、ならなさそうだけど」
植村は、未乃梨の後ろ姿を見送ると、音楽準備室にユーフォニアムを借り出しに入っていった。
何とかコントラバスを調弦し終えた千鶴の背後から、よく知る声が聞こえた。
「お疲れ様。江崎さん、今日はなんだか、調子が良くなさそうね」
声の主は凛々子だった。肩に提げたスクールバッグとワインレッドのヴァイオリンケースを置くと、凛々子は千鶴の近くの机に腰掛けた。
「あの……済みません」
「そんな日もあるわよ。気にしすぎてはいけないわ。ちょっと、その辺の机とかでいいから、どこかに座りなさいな」
凛々子に促されて、千鶴はコントラバスを教室の床に寝かせると、空き教室の机に腰掛けた。
凛々子は千鶴の背後に回って、千鶴の首元にそっと手を置いた。千鶴は、思わず肩をびくりと小さく跳ねさせた。
「随分、首から肩にかけて縮こまっているわね。千鶴さん、いつもはこんな感じではないと思うのだけれど」
「えっと……そんな訳じゃ、なくて」
「いつも、ストレッチとかしてるのに。授業中か休み時間にでも何かあったの?」
「あの……それは……」
「無理して言わなくていいわ。それじゃ、今日は楽器を使わない練習をしましょうか」
「え?」
千鶴は、凛々子の突拍子もない提案に、目を丸くした。
「じゃ、真っ直ぐ立ってみましょうか。足は肩幅よ」
凛々子に乗せられるように、千鶴は腰掛けていた教室の机から下りると、言われた通りのポーズで立った。
「やれやれ、ジャズ研の連中、変な時期にセッションの予定なんか組んじゃって……ん?」
吹奏楽部の練習の前に、ジャズ研の部室に立ち寄っていた高森は、どこかの空き教室で聞き覚えのある声がカウントを取っているのを聞きつけた。
「……じゃ、今度は手を組んでからゆっくり上に腕を伸ばして、片足に体重を乗せて……その方向に身体を伸ばして。はい、一、二、三、四」
(仙道さんか? 何してるんだ?)
怪訝に思いながら、高森は聞き慣れない外国語のカウントが聞こえてくる教室を覗いた。
(続く)
千鶴は、未乃梨に手を引かれるまま、まるで助け起こされるように屋上の床から立ちあがる時も、階段を降りて廊下を歩いている時も、なぜか足元の感覚が落ち着かなかった。
自分の手を引く未乃梨の小さな手の感触が、凛々子に一度だけ手を貸して歩いた時のことを思い起こさせて、千鶴の落ち着きを奪っていた。教室に戻ってすぐ、千鶴は自分の席に戻って何とか平静を保とうとしながら、次の授業の準備をした。少し離れた後ろの方の席にいる未乃梨には、振り返る勇気すらなかった。
放課後になって、千鶴はやっと未乃梨の顔を見ることができた。
「千鶴、部活行こっか」
「……うん」
千鶴は、昼休みの終わりの時のように未乃梨に手を引かれて音楽室に向かった。未乃梨から手を握ってきたことは十回や二十回では収まらないはずなのに、千鶴の胸の奥の鼓動は強まるばかりだった。その理由は、千鶴にははっきりしていた。
(私、未乃梨に好きだって告白されたのに、凛々子さんと未乃梨の知らないところで一緒にいたり手をつないだりしてた……そんなの、いけないことなのに)
吹奏楽部の部員ではないにも関わらず、時間を割いてヴァイオリンを持参してまで千鶴のコントラバスの練習を見てくれる凛々子の存在は千鶴の中で少しずつ大きくなっていた。
音楽室からコントラバスを借り出して練習場所を探す時に、千鶴は未乃梨を振り返ることすら出来なかった。少しだけ、自分の顔が熱を持っているような気がした。
この後、どこかの空き教室にヴァイオリンを持参して千鶴を探してやってくるであろう凛々子と会うことは、未乃梨が知っていることであるにも関わらず、千鶴には何故か後ろめたかった。
空き教室を見つけると、千鶴はそこでコントラバスをケースから出して、顔の火照りが治まらないままチューナーを見ながら調弦を始めた。首から肩にかけて、経験したことのない不快な動かしづらいさがあって、それが千鶴にはいつまでも気になっていた。
コントラバスの調弦は、いつまで経っても合わなかった。
未乃梨はフルートパートの練習に出かける前に、音楽室で植村に声をかけられた。
「よっ、お疲れ様」
「植村先輩。朝、低音のセク練だったんですよね」
「うん。まあ、形にはなったよ。江崎さんも、初心者なのにちゃんと付いてこれてたしね。ところで」
植村は声をひそめた。
「小阪さん、江崎さんと何かあった? 江崎さん、なんか顔が赤かったけど」
「……なんでも、ないです。ただ、今はちょっと」
言葉を詰まらせかけた未乃梨に、植村はそれ以上追求することはしなかった。
「ま、無理に話さなくていいよ。大事な友達でしょ? この前は、江崎さんのこと、カノジョだなんて茶化してごめんね」
「……いいえ。気にしないで下さい。別に、喧嘩とかしたわけじゃないので。それじゃ、パート練習行ってきます」
未乃梨は植村に笑顔を作ってみせてから、いつもの薄緑色のフルートケースを持って踵を返した。
「……ありゃ、何かあったクチかもねえ。ま、テューバの誰かさんみたいなことには、ならなさそうだけど」
植村は、未乃梨の後ろ姿を見送ると、音楽準備室にユーフォニアムを借り出しに入っていった。
何とかコントラバスを調弦し終えた千鶴の背後から、よく知る声が聞こえた。
「お疲れ様。江崎さん、今日はなんだか、調子が良くなさそうね」
声の主は凛々子だった。肩に提げたスクールバッグとワインレッドのヴァイオリンケースを置くと、凛々子は千鶴の近くの机に腰掛けた。
「あの……済みません」
「そんな日もあるわよ。気にしすぎてはいけないわ。ちょっと、その辺の机とかでいいから、どこかに座りなさいな」
凛々子に促されて、千鶴はコントラバスを教室の床に寝かせると、空き教室の机に腰掛けた。
凛々子は千鶴の背後に回って、千鶴の首元にそっと手を置いた。千鶴は、思わず肩をびくりと小さく跳ねさせた。
「随分、首から肩にかけて縮こまっているわね。千鶴さん、いつもはこんな感じではないと思うのだけれど」
「えっと……そんな訳じゃ、なくて」
「いつも、ストレッチとかしてるのに。授業中か休み時間にでも何かあったの?」
「あの……それは……」
「無理して言わなくていいわ。それじゃ、今日は楽器を使わない練習をしましょうか」
「え?」
千鶴は、凛々子の突拍子もない提案に、目を丸くした。
「じゃ、真っ直ぐ立ってみましょうか。足は肩幅よ」
凛々子に乗せられるように、千鶴は腰掛けていた教室の机から下りると、言われた通りのポーズで立った。
「やれやれ、ジャズ研の連中、変な時期にセッションの予定なんか組んじゃって……ん?」
吹奏楽部の練習の前に、ジャズ研の部室に立ち寄っていた高森は、どこかの空き教室で聞き覚えのある声がカウントを取っているのを聞きつけた。
「……じゃ、今度は手を組んでからゆっくり上に腕を伸ばして、片足に体重を乗せて……その方向に身体を伸ばして。はい、一、二、三、四」
(仙道さんか? 何してるんだ?)
怪訝に思いながら、高森は聞き慣れない外国語のカウントが聞こえてくる教室を覗いた。
(続く)
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