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♯56
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蘇我は、自分の顎の付け根辺りを押さえながら、恨めしそうに周りを見た。
高森は困った顔でバリトンサックスを膝に寝かせたままメッシュの入ったボブの髪を掻いていたし、植村は鼻を小さく鳴らして銀色のユーフォニアムを座っている椅子の横に置いてから、蘇我の方を向いた。
「まず、さっき玲が言ってた、『こうなると思った』ってことだけど。蘇我さん、今、顎とか唇とかキツいでしょ?」
蘇我は、仏頂面のまま植村に顔を斜に向けて答えた。
「……別に。大丈夫です」
「分かった。じゃ、チューニングのB、ロングトーンで吹いてみて。江崎さんの弦バスと一緒にね」
植村は、千鶴と蘇我に向けてキューを出した。千鶴はコントラバスのA線の一番低いポジションを人差し指で押さえると、Bの音を弓で伸ばした。
蘇我は千鶴の方を見ずに、忌々しそうな顔でBを大きな音で吹きだした。テューバにとって吹きやすいはずのその音が、四つ数える前に尻すぼみに消えていく。千鶴がコントラバスで弾くBの音だけが残って、音楽室の壁や天井や床を微かに震わせた。
高森は千鶴を手で制して音を止めさせると、バリトンサックスを持ったまま立ち上がって蘇我に向き直った。
「テューバが大変な楽器なのは私でも分かるよ。私だって今日、久し振りにバリトン吹いたけど、テューバより小さいこいつでも大変だもん。でもね、周りを見てみようか」
蘇我は、高森に促されて仏頂面のまま音楽室を見渡した。呆れた顔の小太りのユーフォニアムの三年生の男子や植村に、やや心配そうな顔をした隣の席のテューバの新木と、バリトンサックスを持ったまま自分を向いて仁王立ちしている高森に続いて、コントラバスをその長身に立て掛けている千鶴を嫌そうに見た。
高森は続けた。
「うちの吹部、今朝ここに来れたメンバーだけで低音が六人いるし、来れなかったファゴットとかバスクラリネットとか、バストロンボーンの子たちも入れたらもっと増えるよね。私が何が言いたいか、分かるかな」
千鶴は、もはや自分の方すら見ようともせずに顔を真っ赤にしている蘇我を不思議そうに見た。
蘇我は、千鶴からの視線に気付いた様子もなく、顔を真っ赤にして口を開いた。
「周りを頼れって、言いたいんでしょ? でも、管楽器でもないのにいる楽器に頼りたくないです」
「そう。それで、自分一人だけで低音を吹いてるつもりであんな迷惑な演奏をして、挙げ句に顎も唇もバテて吹けなくなったら意味がないんじゃないかな」
高森は蘇我につとめて穏やかに話しかけた。黙り込んだ蘇我に、今度は植村が蘇我の方に向き直った。
「さっき、あたしがなんで蘇我さんにBの音を弦バスと一緒に吹いてもらったかっていうと、弦バスって息の心配をしなくていい楽器であんなに音が響くからなんだよね。これに頼って吹けば、たった一曲でバテるはずがないんだけど」
押し黙った蘇我に代わって、新木が応えた。
「俺は、今年は弦バスに江崎さんが入って、助かったって思ったけどね。テューバだけで合奏を支えるのは、中学んときで懲り懲りだからな」
ユーフォニアムの小太りの三年生の男子が、腕組みをした。
「僕ら低音が合奏中に周りを聴かない、見ないで吹くっていうのはありえないよ。正直、僕だって江崎さんみたいに合奏中に立って周りを見ながら吹きたいぐらいさ」
蘇我は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……でも、弦バスは、嫌いです」
「そういう理由で前に迷惑掛けられて、なのに今朝早くから朝練に来てくれた江崎さんの立場は、どうなるのかな」
植村の言葉に、蘇我は今度こそ完全に沈黙した。新木が、テューバを置くと蘇我を宥めた。
「頭が冷えたら、江崎さんに謝れよ。お前だってうちの部じゃ立派なテューバ吹きなんだからな」
植村は、蘇我からコントラバスを支えたまま所在なさげに立っている千鶴に視線を移すと、頭を下げた。
「朝早くから来てもらったのに、ごめんね」
「いえ、その……蘇我さんも色々あったみたいだし、部活と関係ないことをやってたのは本当だし」
「それは気にすることないよ。あたしなんか合唱部の手伝いでピアノ弾いてるし、玲だってジャズ研でもサックス吹いてるしさ」
植村は千鶴のことを気遣ってくれているようだった。植村は「そういえば」と何かを思い出したような顔をした。
「江崎さん、確かフルートの子とか玲のクラスのヴァイオリンやってる仙道って子と学校外で本番あるんだっけ?」
「はい。凛々子さんの入ってるオーケストラの人たちと一緒です」
「いいねえ。あたしもそういうのやりたいなぁ」
「祐希、そろそろ片付けないと」
「おっと、もうすぐ授業か。じゃ、江崎さん、本番楽しんできてね」
高森に促されて、植村は銀色のユーフォニアムを持ち上げた。楽器を片付け始めた周囲に押されるように、蘇我ものろのろとテューバを持ち上げた。
コントラバスを大急ぎで片付けた千鶴が一年四組の教室に着いたのは、授業が始まる五分前だった。千鶴の制服のポケットに入っているスマホが、微かに震えた。
未乃梨から、メッセージが届いていた。
――朝練お疲れ様。今日のお昼、屋上に行こうね。その後でハグ一回。
千鶴は慌てて離れた席の未乃梨を見た。未乃梨は、千鶴に気付かない振りをして、わざと窓の外を向いていた。
(もう、未乃梨ったら……あ、ヤバい)
教師の足音が廊下に聞こえて、千鶴は慌てて教科書とノートを出した。
(続く)
高森は困った顔でバリトンサックスを膝に寝かせたままメッシュの入ったボブの髪を掻いていたし、植村は鼻を小さく鳴らして銀色のユーフォニアムを座っている椅子の横に置いてから、蘇我の方を向いた。
「まず、さっき玲が言ってた、『こうなると思った』ってことだけど。蘇我さん、今、顎とか唇とかキツいでしょ?」
蘇我は、仏頂面のまま植村に顔を斜に向けて答えた。
「……別に。大丈夫です」
「分かった。じゃ、チューニングのB、ロングトーンで吹いてみて。江崎さんの弦バスと一緒にね」
植村は、千鶴と蘇我に向けてキューを出した。千鶴はコントラバスのA線の一番低いポジションを人差し指で押さえると、Bの音を弓で伸ばした。
蘇我は千鶴の方を見ずに、忌々しそうな顔でBを大きな音で吹きだした。テューバにとって吹きやすいはずのその音が、四つ数える前に尻すぼみに消えていく。千鶴がコントラバスで弾くBの音だけが残って、音楽室の壁や天井や床を微かに震わせた。
高森は千鶴を手で制して音を止めさせると、バリトンサックスを持ったまま立ち上がって蘇我に向き直った。
「テューバが大変な楽器なのは私でも分かるよ。私だって今日、久し振りにバリトン吹いたけど、テューバより小さいこいつでも大変だもん。でもね、周りを見てみようか」
蘇我は、高森に促されて仏頂面のまま音楽室を見渡した。呆れた顔の小太りのユーフォニアムの三年生の男子や植村に、やや心配そうな顔をした隣の席のテューバの新木と、バリトンサックスを持ったまま自分を向いて仁王立ちしている高森に続いて、コントラバスをその長身に立て掛けている千鶴を嫌そうに見た。
高森は続けた。
「うちの吹部、今朝ここに来れたメンバーだけで低音が六人いるし、来れなかったファゴットとかバスクラリネットとか、バストロンボーンの子たちも入れたらもっと増えるよね。私が何が言いたいか、分かるかな」
千鶴は、もはや自分の方すら見ようともせずに顔を真っ赤にしている蘇我を不思議そうに見た。
蘇我は、千鶴からの視線に気付いた様子もなく、顔を真っ赤にして口を開いた。
「周りを頼れって、言いたいんでしょ? でも、管楽器でもないのにいる楽器に頼りたくないです」
「そう。それで、自分一人だけで低音を吹いてるつもりであんな迷惑な演奏をして、挙げ句に顎も唇もバテて吹けなくなったら意味がないんじゃないかな」
高森は蘇我につとめて穏やかに話しかけた。黙り込んだ蘇我に、今度は植村が蘇我の方に向き直った。
「さっき、あたしがなんで蘇我さんにBの音を弦バスと一緒に吹いてもらったかっていうと、弦バスって息の心配をしなくていい楽器であんなに音が響くからなんだよね。これに頼って吹けば、たった一曲でバテるはずがないんだけど」
押し黙った蘇我に代わって、新木が応えた。
「俺は、今年は弦バスに江崎さんが入って、助かったって思ったけどね。テューバだけで合奏を支えるのは、中学んときで懲り懲りだからな」
ユーフォニアムの小太りの三年生の男子が、腕組みをした。
「僕ら低音が合奏中に周りを聴かない、見ないで吹くっていうのはありえないよ。正直、僕だって江崎さんみたいに合奏中に立って周りを見ながら吹きたいぐらいさ」
蘇我は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……でも、弦バスは、嫌いです」
「そういう理由で前に迷惑掛けられて、なのに今朝早くから朝練に来てくれた江崎さんの立場は、どうなるのかな」
植村の言葉に、蘇我は今度こそ完全に沈黙した。新木が、テューバを置くと蘇我を宥めた。
「頭が冷えたら、江崎さんに謝れよ。お前だってうちの部じゃ立派なテューバ吹きなんだからな」
植村は、蘇我からコントラバスを支えたまま所在なさげに立っている千鶴に視線を移すと、頭を下げた。
「朝早くから来てもらったのに、ごめんね」
「いえ、その……蘇我さんも色々あったみたいだし、部活と関係ないことをやってたのは本当だし」
「それは気にすることないよ。あたしなんか合唱部の手伝いでピアノ弾いてるし、玲だってジャズ研でもサックス吹いてるしさ」
植村は千鶴のことを気遣ってくれているようだった。植村は「そういえば」と何かを思い出したような顔をした。
「江崎さん、確かフルートの子とか玲のクラスのヴァイオリンやってる仙道って子と学校外で本番あるんだっけ?」
「はい。凛々子さんの入ってるオーケストラの人たちと一緒です」
「いいねえ。あたしもそういうのやりたいなぁ」
「祐希、そろそろ片付けないと」
「おっと、もうすぐ授業か。じゃ、江崎さん、本番楽しんできてね」
高森に促されて、植村は銀色のユーフォニアムを持ち上げた。楽器を片付け始めた周囲に押されるように、蘇我ものろのろとテューバを持ち上げた。
コントラバスを大急ぎで片付けた千鶴が一年四組の教室に着いたのは、授業が始まる五分前だった。千鶴の制服のポケットに入っているスマホが、微かに震えた。
未乃梨から、メッセージが届いていた。
――朝練お疲れ様。今日のお昼、屋上に行こうね。その後でハグ一回。
千鶴は慌てて離れた席の未乃梨を見た。未乃梨は、千鶴に気付かない振りをして、わざと窓の外を向いていた。
(もう、未乃梨ったら……あ、ヤバい)
教師の足音が廊下に聞こえて、千鶴は慌てて教科書とノートを出した。
(続く)
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