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♯38
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未乃梨は、瑞香の顔を恐る恐る見た。
「私が、……千鶴のことをどう思ってるか、千鶴本人に伝えればいい、ってことですよね……」
「そう。千鶴さんのことが、友達として以上に好きなら、それを伝えることも考えたらどう? ってこと」
瑞香はあくまで淡々と伝えた。
「無理にとは言えないし、そもそも気持ちの整理がつくまで言えることではないけれど、ね」
「はい……」
「千鶴さんとどういう関係になりたいか、は少し考えてみてもいいんじゃない? 友達でいたいのか、千鶴さんのカノジョになりたいのか、ね」
「千鶴の、カノジョ……」
未乃梨は制服の胸元のリボンタイを押さえた。千鶴とどこかに遊びに出かけたり、登下校の際に手を繋いだりは当たり前にしていても、ただの友人を超える関係になった自分と千鶴は想像もつかなかった。
「ま、ゆっくり考えればいいよ。私みたいに、女の子同士で付き合える人ばっかりじゃないしさ。そろそろ、戻ろうか」
「……はい」
瑞香に促されて、未乃梨はやや重い足取りで手洗いを出た。
千鶴は智花とすっかり打ち解けていた。
智花が千鶴にチェロで有名な曲のフレーズをいくつか弾いて聴かせるのを、凛々子は横で微笑ましい気持ちで見ていた。
「千鶴さん、こういうの知ってる?」
智花は、一聴して単純そうな旋律をチェロで弾いてみせた。
「あ、年末とかに聴いたことあるかも。何て曲ですか?」
「第九。ベートーヴェンの『交響曲第九番』だよ。チェロとコントラバスが大活躍する曲でもあるの」
「へえ。私にも弾けるかな?」
千鶴は、目元に掛かりそうになったサイドの髪を手でかき上げると、智花に教わりながらベートーヴェンの「第九」のテーマを見様見真似で弾いた。
「Fis……Fis……G……A……A……G……Fis……E……」
凛々子は、まず千鶴が髪をかき上げる仕草に見入った。並の男性より背の高い、ともすれば健康に育った少年めいた容貌の千鶴がかき上げた髪の隙間から見えた耳やうなじの繊細な線は、少女に特有の美しさを帯びていた。
その千鶴が、全く気負わずに智花のチェロとオクターブで重なりながら、「第九」の主題をコントラバスで弾いている。単純な連なりでありながら強い歓喜を呼び起こすその主題を弾く姿は、まだ未熟ではあっても凛々子の知るどんな少女とも違う、力強さと美しさが同居している様が垣間見えた。
その千鶴の音も、粗があるとはいえ、今までに何度も感じていた穏やかで何もかもを受け止める優しい深さが、凛々子には聴こえてくる。
不意に、教室の引き戸が開いた。
手洗いに行っていた瑞香と、少し遅れて未乃梨が二年一組の教室に戻ってきた。
「『第九』が聴こえると思ったら、智花じゃん。しかも千鶴さんと一緒だなんて良いなー?」
羨ましそうに軽口を叩く瑞香とは対照的に、未乃梨の顔は浮かなかった。その未乃梨に、千鶴が声をかけた。
「未乃梨、お帰り」
そのひと言で、未乃梨の表情は明るくなった。
「お手洗いに行って長いから、気分悪いのかなって思っちゃった」
「ありがと、千鶴。大丈夫よ。さ、始めましょう」
たったひと言で未乃梨の表情を明るくさせたその千鶴の声は、優しい響きを持っていた。それは、凛々子には向けられたことがないものだった。
(そんな顔、するのね。……なんて優しい表情なのかしら)
千鶴はコントラバスの調弦をし直しながら、未乃梨に笑顔を向けた。
「最後は『主よ、人の望みの喜びよ』だっけ。この曲も未乃梨のフルート、綺麗にハマるやつだよね」
「千鶴も低音しっかりお願いね。私、頑張っちゃうから」
すっかり明るさを取り戻した未乃梨に、凛々子はちょっとした悪戯めいたことを思い付いた。
「それじゃ、千鶴さんに未乃梨さん、始めましょうか」
「あーっ! 仙道先輩、いつの間に千鶴のことを名前呼びしてるんですか!」
「あら、私のことだって、同じ部活でもないんだし、凛々子って呼んでくれてもいいのよ?」
「でも、何かイヤですっ!」
血相を変えたかに見える未乃梨が上げた声には、怒気は含まれてはいなかった。不快とは程遠い感情が、そのむくれて見せる顔からにじみ出ていた。
最後に合わせた「主よ、人の望みの喜びよ」は、「カノン」とも「G線上のアリア」とも違う仕上がりで幕を閉じた。
凛々子がヴァイオリンで弾く泉が湧き出すような三連符と、未乃梨がフルートで吹く澄み渡るような旋律は重なりあいながら、互いの美しさを引き出し合った。
その二人を、瑞香のヴィオラと智花のチェロと千鶴のコントラバスが支えていく。全ての声部が揃った「主よ、人の望みの喜びよ」は、未乃梨と千鶴には想像もしていなかった豊かな響きの中で進行して、最後は五人の音はト長調の主和音の中に溶け合っていった。
合わせの練習を終えて楽器を片付けると、千鶴と未乃梨と凛々子は瑞香と智花を来客用の出入り口まで見送った。瑞香は未乃梨に親指を立ててみせた。
「今日の未乃梨さんのフルート、良かったよ」
「ありがとうございます! 本番も頑張りますね」
屈託のない未乃梨の隣で智花は千鶴にいきなり渋い顔をしてみせた。
「千鶴ちゃんも初心者にしては良かったけど、……髪の毛を触るのは気になるなあ」
「あ、すいません」
「ねえ、千鶴ちゃん、せっかくだし髪伸ばそうよ? お姉さんいい美容室知ってるからそこでヘアアレンジ教えてもらいに行こっか」
「ちょっと! 智花さん? 千鶴にちゃん付けはダメですっ!」
「まあまあ、未乃梨、何なら一緒にその美容室、行ってみる?」
「え……!? それなら、いいけど……」
沈んでいた表情がすっかり明るくなって目尻を吊り上げたり頬を染めたりと忙しい未乃梨に、千鶴も、凛々子も笑った。瑞香と智花も笑った。夕暮れの迫る空の下は、ただただ開けた心地よい空気で満たされていた。
(続く)
「私が、……千鶴のことをどう思ってるか、千鶴本人に伝えればいい、ってことですよね……」
「そう。千鶴さんのことが、友達として以上に好きなら、それを伝えることも考えたらどう? ってこと」
瑞香はあくまで淡々と伝えた。
「無理にとは言えないし、そもそも気持ちの整理がつくまで言えることではないけれど、ね」
「はい……」
「千鶴さんとどういう関係になりたいか、は少し考えてみてもいいんじゃない? 友達でいたいのか、千鶴さんのカノジョになりたいのか、ね」
「千鶴の、カノジョ……」
未乃梨は制服の胸元のリボンタイを押さえた。千鶴とどこかに遊びに出かけたり、登下校の際に手を繋いだりは当たり前にしていても、ただの友人を超える関係になった自分と千鶴は想像もつかなかった。
「ま、ゆっくり考えればいいよ。私みたいに、女の子同士で付き合える人ばっかりじゃないしさ。そろそろ、戻ろうか」
「……はい」
瑞香に促されて、未乃梨はやや重い足取りで手洗いを出た。
千鶴は智花とすっかり打ち解けていた。
智花が千鶴にチェロで有名な曲のフレーズをいくつか弾いて聴かせるのを、凛々子は横で微笑ましい気持ちで見ていた。
「千鶴さん、こういうの知ってる?」
智花は、一聴して単純そうな旋律をチェロで弾いてみせた。
「あ、年末とかに聴いたことあるかも。何て曲ですか?」
「第九。ベートーヴェンの『交響曲第九番』だよ。チェロとコントラバスが大活躍する曲でもあるの」
「へえ。私にも弾けるかな?」
千鶴は、目元に掛かりそうになったサイドの髪を手でかき上げると、智花に教わりながらベートーヴェンの「第九」のテーマを見様見真似で弾いた。
「Fis……Fis……G……A……A……G……Fis……E……」
凛々子は、まず千鶴が髪をかき上げる仕草に見入った。並の男性より背の高い、ともすれば健康に育った少年めいた容貌の千鶴がかき上げた髪の隙間から見えた耳やうなじの繊細な線は、少女に特有の美しさを帯びていた。
その千鶴が、全く気負わずに智花のチェロとオクターブで重なりながら、「第九」の主題をコントラバスで弾いている。単純な連なりでありながら強い歓喜を呼び起こすその主題を弾く姿は、まだ未熟ではあっても凛々子の知るどんな少女とも違う、力強さと美しさが同居している様が垣間見えた。
その千鶴の音も、粗があるとはいえ、今までに何度も感じていた穏やかで何もかもを受け止める優しい深さが、凛々子には聴こえてくる。
不意に、教室の引き戸が開いた。
手洗いに行っていた瑞香と、少し遅れて未乃梨が二年一組の教室に戻ってきた。
「『第九』が聴こえると思ったら、智花じゃん。しかも千鶴さんと一緒だなんて良いなー?」
羨ましそうに軽口を叩く瑞香とは対照的に、未乃梨の顔は浮かなかった。その未乃梨に、千鶴が声をかけた。
「未乃梨、お帰り」
そのひと言で、未乃梨の表情は明るくなった。
「お手洗いに行って長いから、気分悪いのかなって思っちゃった」
「ありがと、千鶴。大丈夫よ。さ、始めましょう」
たったひと言で未乃梨の表情を明るくさせたその千鶴の声は、優しい響きを持っていた。それは、凛々子には向けられたことがないものだった。
(そんな顔、するのね。……なんて優しい表情なのかしら)
千鶴はコントラバスの調弦をし直しながら、未乃梨に笑顔を向けた。
「最後は『主よ、人の望みの喜びよ』だっけ。この曲も未乃梨のフルート、綺麗にハマるやつだよね」
「千鶴も低音しっかりお願いね。私、頑張っちゃうから」
すっかり明るさを取り戻した未乃梨に、凛々子はちょっとした悪戯めいたことを思い付いた。
「それじゃ、千鶴さんに未乃梨さん、始めましょうか」
「あーっ! 仙道先輩、いつの間に千鶴のことを名前呼びしてるんですか!」
「あら、私のことだって、同じ部活でもないんだし、凛々子って呼んでくれてもいいのよ?」
「でも、何かイヤですっ!」
血相を変えたかに見える未乃梨が上げた声には、怒気は含まれてはいなかった。不快とは程遠い感情が、そのむくれて見せる顔からにじみ出ていた。
最後に合わせた「主よ、人の望みの喜びよ」は、「カノン」とも「G線上のアリア」とも違う仕上がりで幕を閉じた。
凛々子がヴァイオリンで弾く泉が湧き出すような三連符と、未乃梨がフルートで吹く澄み渡るような旋律は重なりあいながら、互いの美しさを引き出し合った。
その二人を、瑞香のヴィオラと智花のチェロと千鶴のコントラバスが支えていく。全ての声部が揃った「主よ、人の望みの喜びよ」は、未乃梨と千鶴には想像もしていなかった豊かな響きの中で進行して、最後は五人の音はト長調の主和音の中に溶け合っていった。
合わせの練習を終えて楽器を片付けると、千鶴と未乃梨と凛々子は瑞香と智花を来客用の出入り口まで見送った。瑞香は未乃梨に親指を立ててみせた。
「今日の未乃梨さんのフルート、良かったよ」
「ありがとうございます! 本番も頑張りますね」
屈託のない未乃梨の隣で智花は千鶴にいきなり渋い顔をしてみせた。
「千鶴ちゃんも初心者にしては良かったけど、……髪の毛を触るのは気になるなあ」
「あ、すいません」
「ねえ、千鶴ちゃん、せっかくだし髪伸ばそうよ? お姉さんいい美容室知ってるからそこでヘアアレンジ教えてもらいに行こっか」
「ちょっと! 智花さん? 千鶴にちゃん付けはダメですっ!」
「まあまあ、未乃梨、何なら一緒にその美容室、行ってみる?」
「え……!? それなら、いいけど……」
沈んでいた表情がすっかり明るくなって目尻を吊り上げたり頬を染めたりと忙しい未乃梨に、千鶴も、凛々子も笑った。瑞香と智花も笑った。夕暮れの迫る空の下は、ただただ開けた心地よい空気で満たされていた。
(続く)
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