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「主よ、人の望みの喜びよ」が最後の和音にたどり着いたとき、未乃梨と凛々子はほんの一秒の何分の一かの間、互いの姿と音を目と耳に刻み込んでいた。
(ヴァイオリンをこんな風に弾けるこんな綺麗な人が、千鶴の側にいるなんて……私じゃ、かなわない……!)
(初見のピアノ譜からこれだけフレーズを読み取って、私の演奏についてこれた……小阪さん、並のフルート奏者ではないわね)
未乃梨のフルートが唇から離れ、凛々子のヴァイオリンが顎の下から外れて、二人の楽器はゆっくりと下りた。
「今日はここまでにしましょうか。小阪さんが良かったら、また三人でも合わせましょう」
凛々子の言葉に、千鶴も頷いた。
「未乃梨、初めてやる曲だったんでしょ? いきなり合わせられるなんて、凄いね」
「うん。……ありがと、千鶴」
千鶴に未乃梨は、何故か言葉少なに応えてから、凛々子に小さく頭を下げた。
未乃梨とコントラバスをを音楽室に片付け終えた千鶴は、昇降口でヴァイオリンケースを提げた凛々子と出くわした。未乃梨は、凛々子の姿を見ると、目を伏せた。
「今日はお疲れ様。お二人とも、これから帰りかしら?」
「はい。未乃梨と一緒に電車です」
「気をつけてね。私はバスだから。それと小阪さん」
凛々子に名前を呼ばれて、はっとしたように顔を上げた。
「はい……?」
「今日のあなたのフルート、素敵だったわ。また、聴かせてね。それじゃ」
踵を返してバス停に向かう凛々子の後ろ姿を見ながら、未乃梨は千鶴の腕にすがり付くように自分の腕を絡ませた。
「あの、ちょっと、未乃梨?」
「……千鶴、ごめん。電車が来るまで、手を繋がせて」
未乃梨は腕をほどくと、改めて千鶴の手をそっと握った。
駅の改札を通る時も、ホームで電車を待つ間も、未乃梨は千鶴と手を繋いだままだった。
ホームの外を見ながら、未乃梨は千鶴に尋ねた。
「ねえ。今日の曲を合わせた時、千鶴ってブレス吸ってた?」
「ブレスって?」
「息継ぎのことだよ。管楽器だったら吹く前に絶対にいるし、合奏のときに合図でブレスを合わせたりするけど、弦バスって息を使わないじゃない?」
「ああ、それね。やってたよ」
未乃梨は、少し顔をうつむかせた。
「……それ、誰かに教わったの?」
「今日、初めてやったんだ。未乃梨はフルートだから弓なんて使わないし、未乃梨と一緒に息を吸ったら合わせやすいかな、って思ったんだ」
「私のために、やってくれたの?」
未乃梨の声が、少し明るくなった。千鶴見上げる顔も、いつもの明るさを取り戻しつつあった。
「……うん。朝に音楽室で合わせる時に思い付いたんだけどね」
「そうなんだ」
未乃梨は安堵したように千鶴に身を寄せた。未乃梨を受け止めながら、千鶴は「もう」と微笑んだ。
「未乃梨って、こんな甘えたさんだった?」
「今日は、っていうか、今日も、こうしたいの」
「私、未乃梨の彼氏にはなれないよ?」
「いいの。……女の子同士なんだし、くっついてたっていいでしょ」
微かに甘酸っぱい香りが、未乃梨のハーフアップの髪から漂って、千鶴の嗅覚をくすぐった。
凛々子は、バスの窓の外を流れる夕方の街を眺めながら、今日の放課後のことを思い返していた。
(江崎さん、たった数日でここまでできるなんて……やっぱりあの子、うちのオケに欲しいわ)
そこまで思いかけて、凛々子の脳裏を千鶴と一緒にいる未乃梨の姿が横切っていった。千鶴とよく手を繋いでいる様子の親しげなフルートの少女はどこか微笑ましくもあり、凛々子にとっては少しばかり羨望のような気持ちも浮かんでくるのだった。
その、未乃梨に向ける千鶴の振る舞いや視線はどこまでも優しいことに、凛々子は気付いた。その優しさは、千鶴の始めたばかりのコントラバスの演奏に、早くも滲み出ているように、凛々子には思えた。
千鶴のコントラバスの音色の穏やかな心地良さも、演奏中に見せた、凛々子には弓の動きを合わせて未乃梨にはブレスの動作を示したそれぞれに合わせた合図も、千鶴の奥深くの優しさから来るものだと、凛々子にははっきりと見てとれた。
(もし、あの優しさに、私ももっと触れられたら? ……私が小阪さんのように、江崎さんの側にいられたら?)
それは学年も違う、吹奏楽部の部員でもない凛々子には考えても仕方がないことのようでもあり、それでも凛々子には千鶴の側にいる自分が、どういう訳か容易に想像がつくことでもあった。
(ヴァイオリン奏者がコントラバス奏者と一緒にいて、いけないことなんてないはずよね)
そこまで思いを巡らせた自分がふと可笑しくなって、凛々子はバスの窓に映った自分を見ながら、少しだけ笑った。
金曜日の、吹奏楽部の木管分奏の日がやってきた。
千鶴は未乃梨や他の部員と一緒に音楽室で譜面台や椅子を並べるのを手伝いながら、音楽室を見回した。
指揮者から見てすぐ左手側の未乃梨が座るフルートの席と、右手奥になる千鶴がコントラバスを構えて立つ位置はかなり離れていて、フルートの側に二人ずついるオーボエとファゴット、そして大勢いるクラリネットとサックスが並んでその後ろにコントラバスの千鶴が立っている形になるのだった。
一人だけ椅子に座らず立って演奏する千鶴からは、かなり離れたフルートの未乃梨の姿は簡単に視界に入った。それでも、朝に合わせた時や凛々子や未乃梨と三人でバッハを合わせたときのようにお互いの呼吸を見て合わせるのは難しいことのように思われた。
(これ、本番は他にも色んな楽器が増えるんだっけ。……どんな風になるのかなあ)
千鶴はコントラバスと楽譜を用意すると、余っていた音楽室の机に腰掛けて、改めて音楽室を見回した。
(続く)
(ヴァイオリンをこんな風に弾けるこんな綺麗な人が、千鶴の側にいるなんて……私じゃ、かなわない……!)
(初見のピアノ譜からこれだけフレーズを読み取って、私の演奏についてこれた……小阪さん、並のフルート奏者ではないわね)
未乃梨のフルートが唇から離れ、凛々子のヴァイオリンが顎の下から外れて、二人の楽器はゆっくりと下りた。
「今日はここまでにしましょうか。小阪さんが良かったら、また三人でも合わせましょう」
凛々子の言葉に、千鶴も頷いた。
「未乃梨、初めてやる曲だったんでしょ? いきなり合わせられるなんて、凄いね」
「うん。……ありがと、千鶴」
千鶴に未乃梨は、何故か言葉少なに応えてから、凛々子に小さく頭を下げた。
未乃梨とコントラバスをを音楽室に片付け終えた千鶴は、昇降口でヴァイオリンケースを提げた凛々子と出くわした。未乃梨は、凛々子の姿を見ると、目を伏せた。
「今日はお疲れ様。お二人とも、これから帰りかしら?」
「はい。未乃梨と一緒に電車です」
「気をつけてね。私はバスだから。それと小阪さん」
凛々子に名前を呼ばれて、はっとしたように顔を上げた。
「はい……?」
「今日のあなたのフルート、素敵だったわ。また、聴かせてね。それじゃ」
踵を返してバス停に向かう凛々子の後ろ姿を見ながら、未乃梨は千鶴の腕にすがり付くように自分の腕を絡ませた。
「あの、ちょっと、未乃梨?」
「……千鶴、ごめん。電車が来るまで、手を繋がせて」
未乃梨は腕をほどくと、改めて千鶴の手をそっと握った。
駅の改札を通る時も、ホームで電車を待つ間も、未乃梨は千鶴と手を繋いだままだった。
ホームの外を見ながら、未乃梨は千鶴に尋ねた。
「ねえ。今日の曲を合わせた時、千鶴ってブレス吸ってた?」
「ブレスって?」
「息継ぎのことだよ。管楽器だったら吹く前に絶対にいるし、合奏のときに合図でブレスを合わせたりするけど、弦バスって息を使わないじゃない?」
「ああ、それね。やってたよ」
未乃梨は、少し顔をうつむかせた。
「……それ、誰かに教わったの?」
「今日、初めてやったんだ。未乃梨はフルートだから弓なんて使わないし、未乃梨と一緒に息を吸ったら合わせやすいかな、って思ったんだ」
「私のために、やってくれたの?」
未乃梨の声が、少し明るくなった。千鶴見上げる顔も、いつもの明るさを取り戻しつつあった。
「……うん。朝に音楽室で合わせる時に思い付いたんだけどね」
「そうなんだ」
未乃梨は安堵したように千鶴に身を寄せた。未乃梨を受け止めながら、千鶴は「もう」と微笑んだ。
「未乃梨って、こんな甘えたさんだった?」
「今日は、っていうか、今日も、こうしたいの」
「私、未乃梨の彼氏にはなれないよ?」
「いいの。……女の子同士なんだし、くっついてたっていいでしょ」
微かに甘酸っぱい香りが、未乃梨のハーフアップの髪から漂って、千鶴の嗅覚をくすぐった。
凛々子は、バスの窓の外を流れる夕方の街を眺めながら、今日の放課後のことを思い返していた。
(江崎さん、たった数日でここまでできるなんて……やっぱりあの子、うちのオケに欲しいわ)
そこまで思いかけて、凛々子の脳裏を千鶴と一緒にいる未乃梨の姿が横切っていった。千鶴とよく手を繋いでいる様子の親しげなフルートの少女はどこか微笑ましくもあり、凛々子にとっては少しばかり羨望のような気持ちも浮かんでくるのだった。
その、未乃梨に向ける千鶴の振る舞いや視線はどこまでも優しいことに、凛々子は気付いた。その優しさは、千鶴の始めたばかりのコントラバスの演奏に、早くも滲み出ているように、凛々子には思えた。
千鶴のコントラバスの音色の穏やかな心地良さも、演奏中に見せた、凛々子には弓の動きを合わせて未乃梨にはブレスの動作を示したそれぞれに合わせた合図も、千鶴の奥深くの優しさから来るものだと、凛々子にははっきりと見てとれた。
(もし、あの優しさに、私ももっと触れられたら? ……私が小阪さんのように、江崎さんの側にいられたら?)
それは学年も違う、吹奏楽部の部員でもない凛々子には考えても仕方がないことのようでもあり、それでも凛々子には千鶴の側にいる自分が、どういう訳か容易に想像がつくことでもあった。
(ヴァイオリン奏者がコントラバス奏者と一緒にいて、いけないことなんてないはずよね)
そこまで思いを巡らせた自分がふと可笑しくなって、凛々子はバスの窓に映った自分を見ながら、少しだけ笑った。
金曜日の、吹奏楽部の木管分奏の日がやってきた。
千鶴は未乃梨や他の部員と一緒に音楽室で譜面台や椅子を並べるのを手伝いながら、音楽室を見回した。
指揮者から見てすぐ左手側の未乃梨が座るフルートの席と、右手奥になる千鶴がコントラバスを構えて立つ位置はかなり離れていて、フルートの側に二人ずついるオーボエとファゴット、そして大勢いるクラリネットとサックスが並んでその後ろにコントラバスの千鶴が立っている形になるのだった。
一人だけ椅子に座らず立って演奏する千鶴からは、かなり離れたフルートの未乃梨の姿は簡単に視界に入った。それでも、朝に合わせた時や凛々子や未乃梨と三人でバッハを合わせたときのようにお互いの呼吸を見て合わせるのは難しいことのように思われた。
(これ、本番は他にも色んな楽器が増えるんだっけ。……どんな風になるのかなあ)
千鶴はコントラバスと楽譜を用意すると、余っていた音楽室の机に腰掛けて、改めて音楽室を見回した。
(続く)
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