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♯14
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上機嫌な未乃梨に手を引かれながら、千鶴は教室へと急いだ。
(これも、仙道先輩のおかげかな……先輩のこと、いつか未乃梨にも言わなきゃ)
朝の音楽室での合わせが上手くいったのは、間違いなく凛々子にコントラバスの練習を見てもらったことが大きな理由に違いなかった。
コントラバスの構え方や弓での弾き方も、ヴァイオリンとはいえ同じ弦楽器の奏法をよく知っている凛々子に教わらなければ楽器演奏そのものが未経験だった千鶴にはできようもなかった。
未乃梨が自分に向けている好意は、千鶴にも伝わっていた。土曜日に遊びに出掛けたとき、未乃梨はずっと楽しそうな笑顔を見せていた。それだけに、凛々子に練習を見て貰っていることを未乃梨に知らせていないのは少し後ろめたさがあるのも確かだった。
教室に着くと、千鶴は自分の机にスクールバッグと手に持ったままだった楽譜入りのクリアファイルを置いた。ファイルに透ける、さっき音楽室で合わせた「スプリング・グリーン・マーチ」ではない方に、未乃梨が声を漏らした。
「あれ? 何か他に練習曲とかやってるの?」
ファイルには「BWV147」と書かれた楽譜の一部が透けていた。千鶴は、努めて平静を装って、自分の三つ後ろの席に向かおうとしていた未乃梨に振り向いた。
「ちょっと、練習にって楽譜を一枚貰っててさ。大したことはやってないんだけどね」
「そうなんだ? 千鶴、頑張ってたんだね!」
明るく笑う未乃梨には屈託がなかった。丁度そこでチャイムの本鈴が鳴って、一限目の授業の担当の教師が教室に入ってきた。
(……あとで、未乃梨にちゃんと説明しなきゃね)
千鶴は、慌ててプリントシールを貼った楽譜のクリアファイルを仕舞うと、一限目の教科書とノートを机に出した。
放課後に、千鶴はコントラバスを抱えて練習場所を探した。いつもの空き教室はその日も空いていて、程なくしてワインレッドのヴァイオリンケースを肩から提げた凛々子がやってきた。
千鶴がコントラバスの調弦をしている横で、凛々子が千鶴の楽譜が入ったクリアファイルに目を落としていた。
「あら、プリントシール、っていうのかしら? お友達と撮ったの?」
「あ、はい。土曜日にちょっと遊びに行ってて、その時に」
「そうだったわね。楽しかった?」
「初めて私服のスカート買ったんですけど、結構気に入っちゃいました。これにちょっとだけ写ってるやつがそれです」
千鶴と未乃梨の上半身が写っているプリントシールには、千鶴のスカートの腰回りが見切れていた。スカートのウェストを締めるリボン結びのベルトや、一枚重ねられているチュール生地が、凛々子には気になっているようだった。
「可愛いの見つけたわね。今度、穿いているところ、私も見たいかな。さて、始めましょうか」
凛々子はとっくに調弦を済ませたヴァイオリンを構えて、千鶴を見た。千鶴も、凛々子の弓を見つめて、二人は息を合わせた。
凛々子は、空き教室の机に広げたバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の楽譜から目を離したまま、ひたすら千鶴を見つめてヴァイオリンを弾いた。ふと、ノイズのように千鶴の楽譜が入ったファイルが凛々子の脳裏を過った。
(江崎さんが穿いてるあのスカートに、一緒に写ってるワンピースの可愛い女の子……やっぱり、オケの練習の帰りに見かけたのって、江崎さんだったのね)
その日の二人で合わせる「主よ、人の望みの喜びよ」は、前回よりややテンポが速かった。千鶴が無意識に作った速めのテンポが、バッハの音楽を押し進めて、三拍子のリズムから踊るような愉しさを引き出しかけていた。
(江崎さん、この曲で自分好みのテンポを見つけたようね。……いいわ、付き合ってあげる)
凛々子のヴァイオリンの弓が、千鶴のコントラバスが組み立てる三拍子のテンポに乗って舞うように動いた。バッハの書いた泉が湧き出るようなメロディが、いつにもまして滑らかに、鮮やかに描き出されていく。
凛々子は、もう一度プリントシールに千鶴と一緒に写っている少女のことを一瞬だけ思い浮かべた。
(ごめんなさい、ちょっとの間、貴女の江崎さんを借りるわよ。今だけ、私に釘付けになってもらうわ)
千鶴のコントラバスから、踊り出すような活気が増した。千鶴も、楽譜から目を離して凛々子の弓の動きを見ながらコントラバスを弾いていた。二人の紡ぎ出すバッハのメロディとリズムが、生命を吹き込まれたように揺らいでは流れていく。
千鶴と凛々子は、いつしかバッハの音楽の中で手を取り合うように揺蕩っていた。
フルートパートの練習が一段落して、未乃梨は「うーん」と伸びをした。
「それじゃ、休憩にしましょうか。今日は、その後は自由練習で」
「はーい」
未乃梨は上級生に返事をすると、ふと、遠くから流れてくる聴き覚えのある旋律に耳をそばだてた。
それは二つの楽器のデュエットで、片方はフルートと良く似た音域の、あまり聴き慣れない楽器だった。もう片方は何度か聴き覚えのある低音楽器で、トロンボーンやテューバにしては音色が柔らかい。
未乃梨は、低音の方に心当たりがあった。
(まさか、弦バス? 千鶴が誰かと弾いているの!?)
胸の奥が泡立ってざわつくのを、未乃梨は感じた。今日の朝に音楽室でマーチを合わせていたのとは違う、ひたすらメロディについていく弾き方ではなかった。
(しかも、これバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」……そういえば、千鶴が持ってた楽譜、バッハの作品番号が……!?)
朝に教室で、千鶴の楽譜が入ったクリアファイルから、「BWV147」という文字の並びが透けて見えていたのを、未乃梨は急速に思い出していた。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます。すぐ戻ります」
未乃梨はフルートパートの上級生に告げると、バッハが聴こえてくる方へと足早に歩き出した。
(続く)
(これも、仙道先輩のおかげかな……先輩のこと、いつか未乃梨にも言わなきゃ)
朝の音楽室での合わせが上手くいったのは、間違いなく凛々子にコントラバスの練習を見てもらったことが大きな理由に違いなかった。
コントラバスの構え方や弓での弾き方も、ヴァイオリンとはいえ同じ弦楽器の奏法をよく知っている凛々子に教わらなければ楽器演奏そのものが未経験だった千鶴にはできようもなかった。
未乃梨が自分に向けている好意は、千鶴にも伝わっていた。土曜日に遊びに出掛けたとき、未乃梨はずっと楽しそうな笑顔を見せていた。それだけに、凛々子に練習を見て貰っていることを未乃梨に知らせていないのは少し後ろめたさがあるのも確かだった。
教室に着くと、千鶴は自分の机にスクールバッグと手に持ったままだった楽譜入りのクリアファイルを置いた。ファイルに透ける、さっき音楽室で合わせた「スプリング・グリーン・マーチ」ではない方に、未乃梨が声を漏らした。
「あれ? 何か他に練習曲とかやってるの?」
ファイルには「BWV147」と書かれた楽譜の一部が透けていた。千鶴は、努めて平静を装って、自分の三つ後ろの席に向かおうとしていた未乃梨に振り向いた。
「ちょっと、練習にって楽譜を一枚貰っててさ。大したことはやってないんだけどね」
「そうなんだ? 千鶴、頑張ってたんだね!」
明るく笑う未乃梨には屈託がなかった。丁度そこでチャイムの本鈴が鳴って、一限目の授業の担当の教師が教室に入ってきた。
(……あとで、未乃梨にちゃんと説明しなきゃね)
千鶴は、慌ててプリントシールを貼った楽譜のクリアファイルを仕舞うと、一限目の教科書とノートを机に出した。
放課後に、千鶴はコントラバスを抱えて練習場所を探した。いつもの空き教室はその日も空いていて、程なくしてワインレッドのヴァイオリンケースを肩から提げた凛々子がやってきた。
千鶴がコントラバスの調弦をしている横で、凛々子が千鶴の楽譜が入ったクリアファイルに目を落としていた。
「あら、プリントシール、っていうのかしら? お友達と撮ったの?」
「あ、はい。土曜日にちょっと遊びに行ってて、その時に」
「そうだったわね。楽しかった?」
「初めて私服のスカート買ったんですけど、結構気に入っちゃいました。これにちょっとだけ写ってるやつがそれです」
千鶴と未乃梨の上半身が写っているプリントシールには、千鶴のスカートの腰回りが見切れていた。スカートのウェストを締めるリボン結びのベルトや、一枚重ねられているチュール生地が、凛々子には気になっているようだった。
「可愛いの見つけたわね。今度、穿いているところ、私も見たいかな。さて、始めましょうか」
凛々子はとっくに調弦を済ませたヴァイオリンを構えて、千鶴を見た。千鶴も、凛々子の弓を見つめて、二人は息を合わせた。
凛々子は、空き教室の机に広げたバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の楽譜から目を離したまま、ひたすら千鶴を見つめてヴァイオリンを弾いた。ふと、ノイズのように千鶴の楽譜が入ったファイルが凛々子の脳裏を過った。
(江崎さんが穿いてるあのスカートに、一緒に写ってるワンピースの可愛い女の子……やっぱり、オケの練習の帰りに見かけたのって、江崎さんだったのね)
その日の二人で合わせる「主よ、人の望みの喜びよ」は、前回よりややテンポが速かった。千鶴が無意識に作った速めのテンポが、バッハの音楽を押し進めて、三拍子のリズムから踊るような愉しさを引き出しかけていた。
(江崎さん、この曲で自分好みのテンポを見つけたようね。……いいわ、付き合ってあげる)
凛々子のヴァイオリンの弓が、千鶴のコントラバスが組み立てる三拍子のテンポに乗って舞うように動いた。バッハの書いた泉が湧き出るようなメロディが、いつにもまして滑らかに、鮮やかに描き出されていく。
凛々子は、もう一度プリントシールに千鶴と一緒に写っている少女のことを一瞬だけ思い浮かべた。
(ごめんなさい、ちょっとの間、貴女の江崎さんを借りるわよ。今だけ、私に釘付けになってもらうわ)
千鶴のコントラバスから、踊り出すような活気が増した。千鶴も、楽譜から目を離して凛々子の弓の動きを見ながらコントラバスを弾いていた。二人の紡ぎ出すバッハのメロディとリズムが、生命を吹き込まれたように揺らいでは流れていく。
千鶴と凛々子は、いつしかバッハの音楽の中で手を取り合うように揺蕩っていた。
フルートパートの練習が一段落して、未乃梨は「うーん」と伸びをした。
「それじゃ、休憩にしましょうか。今日は、その後は自由練習で」
「はーい」
未乃梨は上級生に返事をすると、ふと、遠くから流れてくる聴き覚えのある旋律に耳をそばだてた。
それは二つの楽器のデュエットで、片方はフルートと良く似た音域の、あまり聴き慣れない楽器だった。もう片方は何度か聴き覚えのある低音楽器で、トロンボーンやテューバにしては音色が柔らかい。
未乃梨は、低音の方に心当たりがあった。
(まさか、弦バス? 千鶴が誰かと弾いているの!?)
胸の奥が泡立ってざわつくのを、未乃梨は感じた。今日の朝に音楽室でマーチを合わせていたのとは違う、ひたすらメロディについていく弾き方ではなかった。
(しかも、これバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」……そういえば、千鶴が持ってた楽譜、バッハの作品番号が……!?)
朝に教室で、千鶴の楽譜が入ったクリアファイルから、「BWV147」という文字の並びが透けて見えていたのを、未乃梨は急速に思い出していた。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます。すぐ戻ります」
未乃梨はフルートパートの上級生に告げると、バッハが聴こえてくる方へと足早に歩き出した。
(続く)
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