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空き教室に入ると、凛々子はワインレッドのヴァイオリンケースを置いてから、千鶴が音楽室で見つけた細長い箱を開けて中を一瞥した。
「弓は使えそうね。じゃ、コントラバスも出しましょうか」
凛々子は、千鶴が昨日まるで教わらなかったことをいくつか、小さな子供が授業で初めて学ぶことを教える教師のように、丁寧に教えた。
まずは両足を肩幅程度に開いてまっすぐ立つこと。
楽器は胴体の一番下から生えているエンドピンで高さを調整すること。
楽器のてっぺんにある、弦を締めたり緩めたりするペグボックスから出た弦が通るナットという部分がだいたい眉毛のあたりの高さになるように、楽器の胴体の角を左腰に引っ掛けて構えること。
弓は毎回演奏前にスクリューという持ち手部分にある棒状の飛び出た部分を回して弓の毛を張って、真っ黒い飴のような松脂を塗ること。演奏が終わったら弓も緩めておくこと。
昨日は引っ込めたままだったエンドピンを大幅に伸ばした、まだ殆ど弾けないコントラバスが、不思議に千鶴の身体に馴染んだ。
千鶴は凛々子に教わった通りに弓を張った。準備が終わると、凛々子は千鶴の右手を握手をするときのような形に開かせて、弓を持たせた。
「弦楽器に限らず、楽器演奏の基本は余計な力を使わないことよ」
凛々子は千鶴の手をそっと取って、箸を持っているような、習字の筆を二本掛けで持っているような形に弓を持たせると、そのまま千鶴の手をコントラバスの弦に置いた。弓の毛が弦に接触して、微かに軋むような音がした。
「じゃ、音を出してみましょうか。そのまま腕にあまり力を入れないようにして、弦をゆっくり擦ってみて」
凛々子の穏やかなアルトの声に促されて、千鶴はおっかなびっくり弓で弦を擦った。
コントラバスの胴体が共鳴して、直接指で弾くのとは違う、唸るような低い音が教室の中に響きを満たしていくのが気持ち良い。
千鶴はふと思い付いて、昨日教わった音階を左手で作ってみた。
(確か、Gメジャーとか何とか言ってたっけ)
エンドピンを調整したり腰で楽器で支える構え方を凛々子に教わったりしたあとのせいか、弦を押さえる左手は昨日より遥かに楽だった。昨日よりずっと明瞭な音階の姿が、千鶴が鳴らすコントラバスから生まれていた。
「あら、あなたの音程、悪くないわね……じゃ、今度は私と弾いてみましょうか」
凛々子は自分のヴァイオリンをワインレッドのケースから取り出した。先に自分のヴァイオリンの調弦を弓で弾いて、それから千鶴が構えているコントラバスの弦を指で軽くはじいてどちらも狂いがないのを確かめると、改めてヴァイオリンを構え直す。
「江崎さん、さっき弾いた音階、もう一度弾いてみましょうか。私の弓を見て、ゆっくりね」
「はい」
「行くわよ。いち、に、さん、し」
凛々子は、ゆっくりとブレスを取ると、小さな子の手を引く母親のような、柔らかな優しい声でカウントを取った。
千鶴は昨日教わった一オクターブの音階を、左手で探りつつ凛々子の弓の動きに合わせてゆっくりと弾いた。
時々音を踏み外しそうになる千鶴のコントラバスが、二オクターブ上の高さで流れる凛々子のヴァイオリンになんとか噛み合う。音階を往復しながら、千鶴は凛々子の左手に目をやった。
(あれ? 仙道先輩の左手、全然動いてない……?)
凛々子の左手は、遠目には全く動いていないかのように見えた。弦を押さえるべき場所のすぐ上で待機して、僅かな動作で弦を押さえている。
(じゃあ、私もあんな風に動かせば……?)
千鶴は、一オクターブの音階を、今度はなるべく手や指を動かさないように弾いてみた。人差し指と中指と小指の三本を、大きく等距離で開いた形だとどうやら左手を動かさずにこの音階を弾けそうなことが、千鶴にわかってきた。
二回目の音階の往復が終わる頃には、千鶴のコントラバスはより整った音程を組み立てられるようになっていた。
凛々子はヴァイオリンを下ろすと、満足そうに頷いた。
「初めてでここまでできれば上出来ね。今弾いたのはト長調の音階だから……丁度あったわ」
ワインレッドのケースの外側に付いた薄くて広いポケットから、凛々子は楽譜を二枚取り出した。その一番上には、千鶴には見たこともないアルファベットの連なりに混じって、括弧付きで「Jesu,Joy of Man's Desiring」とあり、そのすぐ後ろには「BWV147」と何かしらの番号らしきものが付けられている。そのうちの片方に、凛々子は手早く数字を書き込んで、千鶴に渡した。
「この曲、今あなたが弾いていたト長調の音階ができたら弾けるわよ。今書いた数字は、1が人差し指で2が中指で4が小指ね」
「あ、ありがとうございます」
「明日はこの曲をコントラバスとヴァイオリンでデュエットしてみましょうか。では、今日はここまで。慣れない楽器を触って腕とか腰に負担がかかってるから、後でストレッチをしておくのよ」
凛々子はそう伝えると、千鶴に優しく微笑んだ。
(続く)
「弓は使えそうね。じゃ、コントラバスも出しましょうか」
凛々子は、千鶴が昨日まるで教わらなかったことをいくつか、小さな子供が授業で初めて学ぶことを教える教師のように、丁寧に教えた。
まずは両足を肩幅程度に開いてまっすぐ立つこと。
楽器は胴体の一番下から生えているエンドピンで高さを調整すること。
楽器のてっぺんにある、弦を締めたり緩めたりするペグボックスから出た弦が通るナットという部分がだいたい眉毛のあたりの高さになるように、楽器の胴体の角を左腰に引っ掛けて構えること。
弓は毎回演奏前にスクリューという持ち手部分にある棒状の飛び出た部分を回して弓の毛を張って、真っ黒い飴のような松脂を塗ること。演奏が終わったら弓も緩めておくこと。
昨日は引っ込めたままだったエンドピンを大幅に伸ばした、まだ殆ど弾けないコントラバスが、不思議に千鶴の身体に馴染んだ。
千鶴は凛々子に教わった通りに弓を張った。準備が終わると、凛々子は千鶴の右手を握手をするときのような形に開かせて、弓を持たせた。
「弦楽器に限らず、楽器演奏の基本は余計な力を使わないことよ」
凛々子は千鶴の手をそっと取って、箸を持っているような、習字の筆を二本掛けで持っているような形に弓を持たせると、そのまま千鶴の手をコントラバスの弦に置いた。弓の毛が弦に接触して、微かに軋むような音がした。
「じゃ、音を出してみましょうか。そのまま腕にあまり力を入れないようにして、弦をゆっくり擦ってみて」
凛々子の穏やかなアルトの声に促されて、千鶴はおっかなびっくり弓で弦を擦った。
コントラバスの胴体が共鳴して、直接指で弾くのとは違う、唸るような低い音が教室の中に響きを満たしていくのが気持ち良い。
千鶴はふと思い付いて、昨日教わった音階を左手で作ってみた。
(確か、Gメジャーとか何とか言ってたっけ)
エンドピンを調整したり腰で楽器で支える構え方を凛々子に教わったりしたあとのせいか、弦を押さえる左手は昨日より遥かに楽だった。昨日よりずっと明瞭な音階の姿が、千鶴が鳴らすコントラバスから生まれていた。
「あら、あなたの音程、悪くないわね……じゃ、今度は私と弾いてみましょうか」
凛々子は自分のヴァイオリンをワインレッドのケースから取り出した。先に自分のヴァイオリンの調弦を弓で弾いて、それから千鶴が構えているコントラバスの弦を指で軽くはじいてどちらも狂いがないのを確かめると、改めてヴァイオリンを構え直す。
「江崎さん、さっき弾いた音階、もう一度弾いてみましょうか。私の弓を見て、ゆっくりね」
「はい」
「行くわよ。いち、に、さん、し」
凛々子は、ゆっくりとブレスを取ると、小さな子の手を引く母親のような、柔らかな優しい声でカウントを取った。
千鶴は昨日教わった一オクターブの音階を、左手で探りつつ凛々子の弓の動きに合わせてゆっくりと弾いた。
時々音を踏み外しそうになる千鶴のコントラバスが、二オクターブ上の高さで流れる凛々子のヴァイオリンになんとか噛み合う。音階を往復しながら、千鶴は凛々子の左手に目をやった。
(あれ? 仙道先輩の左手、全然動いてない……?)
凛々子の左手は、遠目には全く動いていないかのように見えた。弦を押さえるべき場所のすぐ上で待機して、僅かな動作で弦を押さえている。
(じゃあ、私もあんな風に動かせば……?)
千鶴は、一オクターブの音階を、今度はなるべく手や指を動かさないように弾いてみた。人差し指と中指と小指の三本を、大きく等距離で開いた形だとどうやら左手を動かさずにこの音階を弾けそうなことが、千鶴にわかってきた。
二回目の音階の往復が終わる頃には、千鶴のコントラバスはより整った音程を組み立てられるようになっていた。
凛々子はヴァイオリンを下ろすと、満足そうに頷いた。
「初めてでここまでできれば上出来ね。今弾いたのはト長調の音階だから……丁度あったわ」
ワインレッドのケースの外側に付いた薄くて広いポケットから、凛々子は楽譜を二枚取り出した。その一番上には、千鶴には見たこともないアルファベットの連なりに混じって、括弧付きで「Jesu,Joy of Man's Desiring」とあり、そのすぐ後ろには「BWV147」と何かしらの番号らしきものが付けられている。そのうちの片方に、凛々子は手早く数字を書き込んで、千鶴に渡した。
「この曲、今あなたが弾いていたト長調の音階ができたら弾けるわよ。今書いた数字は、1が人差し指で2が中指で4が小指ね」
「あ、ありがとうございます」
「明日はこの曲をコントラバスとヴァイオリンでデュエットしてみましょうか。では、今日はここまで。慣れない楽器を触って腕とか腰に負担がかかってるから、後でストレッチをしておくのよ」
凛々子はそう伝えると、千鶴に優しく微笑んだ。
(続く)
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