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しおりを挟む「いやすみませんね、わざわざこんな所にお呼び立てして」
渚は他所行きの上等なスーツに身を包み、夜にはまだ早い時間にあるバーへその人物を呼び出した。
繁華街にある小さなバーは、それでも価格帯は高く、2階には個室も用意されている。
まだ開店前のせいか、店内は明るく、スタッフが開店の準備に追われていた。
呼び出された人物は怪訝な顔で辺りを見渡す。
「いえ…」
それだけ言うと、渚に促されるまま向かいに座る。
「知らない番号から電話したので、取って下さるか心配でしたが、取っていただけて良かった。あまり人目につくのもあれかと思いましてね。ここは知り合いの店の一つなんです。それはそれは古い付き合いで、先代もよく知っているんです。 Ωの…方でして」
渚の言葉に、向かいに座った端正な顔立ちが一瞬ピクッと眉を顰めた。
「今Ωにご執心な方には、よろしいかと」
渚がニッコリ笑うと、喬一は苛立ち紛れに舌打ちをする。
「…お話とはなんですか?」
喬一はさっさと話とやらを終わらせたかった。瑞稀の家族のようなこの男…瑞稀の両親と家族ぐるみの付き合いがあり、瑞稀の世話をしているという古く小さな医院の医者の端くれ…
瑞稀、に関するものは全て遠ざけたい…喬一はそう思っていた。
苛立ちが隠せず、そんな自分が喬一は余計に気に食わない。
なのに、喬一は瑞稀に近づいてしまう。
「そんなに慌て無くても。ここはコーヒーも美味しいんですよ」
「要りません。早く、話を」
喬一は渚を急かす。
「…千扇さん、千扇さんがなんで瑞稀に付き纏うのかお気付きですか?」
渚の言葉に、喬一は顔を顰めて首を傾ける。
言っている意味が分からない…とでも言いたげに。
「良かった。まさか番だったらとヒヤヒヤしてましたが。まぁ番なら、もっと瑞稀を大切にしてくれるでしょうし…それでも貴方で無くて良かった。貴方のような方はお断りだ」
はっと喬一が嘲笑を漏らす。
「貴方の賢い頭で今のご自分の状況をよく把握してますよね。これでもかなり大目に見てきたつもりだ。こちらにも、瑞稀の体質に関しては報告していなかったから。まぁそんな事をしても千扇さんは握り潰すのでしょう…でもこちらもやられっぱなしでいられる訳にはいかないので…」
渚は書類を幾つか喬一の前に広げる。
「分かります?あなたのお父様も、界隈では有名な方だ…。いろいろな意味で、ですが。Ωがお好きなんですね。
お父様の被害に遭われた方も知ってますよ。僕が診察したから。
Ωは希少種、故に噂はすぐに出回ります。この店を経営されてる方のように、表で商売をしていれば情報は自然と集まる。国に報告する前に、警察にこの書類を出せば、すぐ逮捕だ。言い逃れ出来ない。
αに対して良くない印象をお持ちだったのか、本当に事細かにいろいろ報告してくれた。僕が診た瑞稀の体の状態も、事細かにここに記してある。まさか準備も同意も無く妊娠させようとしたなんて…」
喬一は目を見開いて、もう一度書類を見る。
「契約違反だ。罰則も重い。Ωを保護出来るように、買った君達…α側にわざわざ罰則も重くしてある。
だが、貴方のお父様も似た様なことは何度もしてます。その証拠は既に幾つかに分けて保管してある。もし僕の身やその周りに何かあれば、すぐ表に出る様に…まぁ表に出なくても、やりようはありますが。傲慢なα達に恨みを持つ者も多いんですよ。同じαでも、ね」
喬一の顔色が青くなるのを見て、渚はこんなものかな…と頃合いを伺う。
「…君が、αである前に瑞稀の事を大切に思ってくれるなら、何も言わないつもりでいた。例え、君達が契約書の内容を何度も好きに変えていってもね」
運ばれてきたコーヒーに、渚は手を伸ばす。
「瑞稀も同じ気持ちを抱ければ尚更。αに対して僕も希望を抱いていたい。でも、彼女は重い体を引き摺って冷たい床に横たえてたよ」
「…瑞稀は…瑞稀の体は、大丈夫ですか?かなり無理をさせたと思います…」
喬一の言葉に、渚の動きが止まる。
その様子は、とても沈痛なものに見えた。
「…瑞稀が心配?」
渚の問いかけに、喬一は応えない。
「驚いた…。まさかと思ってたけど…瑞稀の事が、好きなんだね」
渚は目を丸くして喬一を見る。
その言葉に驚いたのは、渚だけでは無い。
「好き?」
喬一には全てにおいて最高級の恋人が居る。あんな野暮ったい貧乏猫じゃ無い。
「だから、こんな理屈じゃ無い事ばかりするんでしょ。心配したり、付き纏ったり…君が気付いて無くて苛立ってるだけだ。でも、それは瑞稀のせいじゃ無い。好きなら、相手にもっと優しくしてあげるべきだった。大切にしてあげれば良かったじゃ無いか。Ωだから…ってバカにせずにさ」
Ωだから…?
αを喜ばせる為に存在する下等で劣った生き物…
それ位しか取り柄も無い、αが居なければ価値も無い…
じゃあ…瑞稀は?
「もし瑞稀が君に笑い掛けてくれたら、君は嬉しかったんじゃないの?もっと笑って欲しいって思わない?喜んで欲しいって…。体が欲しいじゃ無くて、ただ側に居たいって…」
いや、笑い掛けてくれた事なんて無い。
ただ、あの日は、あのクリスマスの日だけは…何かを期待して部屋に行った。
このモヤモヤとした何かを晴らせるかもしれないと、直感でそんな事をした。
「…。ではもうそろそろ僕はお暇します。これきりにしましょう。その賢い頭を良く冷やして、冷静になってください。本当に瑞稀が好きなら、瑞稀の幸せを祈ってあげなきゃ。そうじゃなきゃ、君は独りよがりなままだ…」
渚が去っても、喬一は暫くそこから動けなかった。
一体自分が瑞稀に何を言ったのか。
何をしたのか、一つ一つを思い出す度に頭が酷く痛くなる。胸は痛んで息さえしづらい。
もう、取り戻せない…
自分に、そんな資格が無い…
突きつけられる現実が、喬一の体をブスリと刺していく。
Ωだから?違う、瑞稀が良かった
下らない先入観と優越感で、どれだけ瑞稀の気持ちを踏み躙ったのだろう
瑞稀の絶望、全てを諦めた目、口から出る拒絶…
あれだけ時間があったのに、自分は何をしたのか…
潰れた白い箱の様に、もう時は戻せない。潰れてもう、元には戻せない。
だが、瑞稀が自分以外の手に染まるなんて耐えられない。自分以外に微笑むのも、名前を呼ぶのも腹立たしい…
喬一の頬を、何かが伝う。
それが一体何なのか、喬一には考える余裕も無い。
それでもただひたすらに、一筋一筋、零れ落ちた。
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