私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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 ヒートが終わり青葉は自身のアパートへ戻る。
 
 扉を開けると青葉の体の力は抜け、這うようにしてベッドに辿り着くと三日間ほとんど寝続けた。目が覚めると青葉の体は少し軽くなり、頭も随分とハッキリして青葉は安堵する。
 
 そして今一度部屋の掃除をし始めようと、青葉は改めて辺りを見渡した。
 
 ここで、あんな事があったとは到底想像も出来ないが、生々しい混乱の後は確かに残っていた。

 ……あの熱——
 あの匂い……
 
 海途が纏う香水とは違う、海途自身の香りを青葉の鼻はしっかりと嗅ぎ分けた。その残り香を未だに求めて、青葉の体はどこか落ち着かず指先をジリジリ痺れさせる……
 
 青葉の体は、仄かに熱を持ち始めていた。
 けれどその熱の伝播を阻むのは、ヒートが終わった青葉の理性だ。
 
 到底正気とは思えない欲望が、この狭い部屋に満ちたあの時……
 
 あの手で、恋人に……——
 愛する人に……
 
 青葉は体に残った海途の痕跡を思い出しながら、海途が愛する人に触れる時一体どんな風に触れるのか……どんな顔でどんな目でその人を見つめるのかを考えてしまった。
 それはきっと暖かで、今青葉の中に湧く自己嫌悪と説明のつかない虚しさのようなものでは決してない。青葉の内側に、言いようの無い冷たさは確かに広がっている。
 
 
「……やっちゃえば良かったじゃん。理由がある内に」
 
 体調が戻った青葉が有紗の家を出るとき、有紗は青葉にそう言った。
 
「誰のせいでも無いし……。αとΩだから仕方ないって割り切っちゃえば良いんだよ。じゃなきゃ青葉、ずっと彼を引きずるんだよ?
 ……所詮はただの男、盛ったα、そう思えば呆気ないよ。美化された思い出なんて、現実はそんなもんて区切りが付く……」

「……」
 有紗の言ってることは、青葉にも理解出来る。
 引きずっている……その言葉を、すぐさま青葉は否定したかった。
 けれど、青葉は一瞬動揺し、突かれた苛立ちが青葉の中で僅かに蠢く。

「彼には……結婚する恋人が居る……」
 青葉は視線を伏せたまま、ドキドキと聞こえる自らの鼓動を悟られまいと有紗にそう言った。
 
「だったら何……?」
 ふっと鼻で笑う有紗の声で、青葉は顔を上げた。

「結婚してようと、恋人が居ようと、関係ないじゃん。こっちだってαを都合良く使っちゃ悪いの?」

 有紗の機嫌を損ねたのを、青葉は察した。有紗の立場であれば、確かに何を今更と捉えても仕方ない……

「これは、あくまで私の事だから……」
 失言だったと気付いた青葉がそう気まずげに声を絞り出す。
 
「……もし今回の事がバレたら……もし彼の恋人が傷付いたら……青葉が悪いの……?」
 
 力なく笑う有紗の声に何も答えられないまま、青葉は有紗の部屋を出た。
 



 あの弾けるような輝く女性は海途に見合う、海途の望む幸せを運んでくれるだろう。きっと、与えてくれるだろう——
 周りも羨むあの2人には、一点の影も曇りも見えない。
 
 そう考えると、青葉の中に胸を締め付けるほどの罪悪感が湧く。中身は空っぽで、そこに何も無いとしても、それは信頼を裏切る行為に直結する。計らずしもその裏切りの片棒を担いでしまった自分が、あの二人へ暗雲を運ぶきっかけになりたくなかった。
 今も昔も、どこをどう考えても、青葉は自分が海途にとって決してプラスになりえない存在だと分かっている。

 〝青葉が悪いの?〟

 有紗の言葉が、青葉の脳内に響く。

「……そりゃ、悪いに決まってるよ」
 青葉の小さな独り言は、自らを嘲笑っていた。

 そうだ、そもそも忘れられないのは……——

 青葉は乱雑に広がった買い出した品物を眺める。
 
 自分だけが10年前のまま……
 記憶に惨めたらしく縋り付いて、勝手に美化して勝手に傷付いている——
 
 下さないプライドだけを守って……——
 こだわっている——
 認めたくない、認められない……

「私は……橘くんを、忘れられない……」
 言葉に出された、誰も聞くことの無い青葉の告白はすぐに静寂の中に消えた。

 あの頃の勝手気ままな幼い恋を、いつまでもいつまでも、馬鹿みたいに——
 
 けれど、星川青葉がもうこの世に居ないように、10年前の海途ももう居ない。体を這うその手も、漏れる吐息さえ、圧倒時な時間の流れは自分が立ち止まったままなのだと嫌でも分からせた。
 
 海途の歩む人生の中で、青葉の存在も共に過ごした時間も、それはほんの一瞬の出来事だ。もうとっくに通り過ぎて、過去に埋もれている。
 
 そう分かっていても、青葉は自分の気持ちにもう言い訳も嘘もつけなかった。全て分かっていても——あの頃の幸せと、海途の隣に立つ自分……そして、海途が恋しくて恋しくて仕方ない。

 例え、ハッピーエンドを迎えることが無いとしても……——

 青葉の目から、頬に一筋の跡が流れ落ちる。
 
 あの時、遅く流れる車窓を眺めながら、焦る気持ちを抱いて青葉は電車に乗り海途に会いに行った。
 もし、会えたら、会えていたら……ちゃんと伝えられただろうか。
 
 海途が、ただ好きで、堪らない、と……——




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