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「……あ、起きた。良かったー、もう救急車かなーって考えてた……」

「……有紗?」
 
 青葉はぼんやりする頭を振って、少し上体を起こす。そこが有紗の部屋だと理解するのには見慣れ過ぎていて余り時間は掛からなかった。

「大丈夫?水飲める?」
 そう言って有紗は青葉の顔色を注意深く観察し、ミネラルウォーターを差し出した。

「……あの薬、ダメだって言ったじゃん。
 しかもあの図太い注射器の抑制剤使ってすぐ飲んだでしょ?じゃなきゃ2日も寝てるはずないもん」
 
 青葉は差し出されたミネラルウォーターをとりあえず受け取り、混乱する頭と、いまだどこか燻る熱を持ったままの重い体を起こして大きなクッションを背にし体を支えた。
 

「……なんで」
 
「なんでって、合鍵で入ったらぐったりした二人が居てそれはそれは凄い匂いで……。私も危なかったんだから。
 一回部屋出て私も抑制剤飲んだ後とりあえず二人が目覚めたらまずいと思って、青葉だけなんとか車に乗せてー……見て、爪折れたよ、ほら」
 
 有紗はそう言って見事にぽきりと折れた長い爪二本を不機嫌そうに青葉に見せつける。

「自爪もってかれなくて良かったよ、ほんと……。
 勝手にスマホいじっちゃったけど許してね。一緒にいた人は晴臣くんに引き取って貰った。
 しかし青葉登録人数少なすぎて笑っちゃった。そのおかげですぐ連絡出来たけど……」
 

「……晴臣、来たの?」

「うん。だって無理じゃん、あんなガタイ良い人動かすの。
 車に避難して、晴臣くん待って、晴臣くんがあの彼引き取って、終わり。病院行こうかと思ったんだけど、青葉眠ってるだけみたいだったし、ヒート中に病院行くといろいろ厄介でしょ?だからとりあえずうちで寝かせてた」

 あれは現実だったのか——と青葉には実感が湧かない。そして、有紗が居なければどうなっていたか……青葉の顔から血の気が引く。
 
 
「ありがとう……有紗。いろいろ迷惑かけて……ごめん……」
 
 青葉がそう言うと、有紗は首を振り全然、と言って青葉をしっかりと見た。

「……あのやけに綺麗な男の人、αでしょ?もしかして……あれが高校の時の彼氏?ドア開けた時、フラフラしながらそれでもなんとかスマホ持って助け呼ぼうとしてたよ。私の顔見てホッとしたみたいで、その後気失ったけど……」
 
 有紗の問いに、青葉は一瞬考え、そしてゆっくりと頷く。
 助けを呼ぼうとしていた……——
 海途に刺した注射器の中身を青葉は全て注入することは出来なかった。指先が痺れて、力が上手く入らなかったのだ。
 それでも、海途の意識を朦朧とさせるには充分だったのだろう。

「押しかけてきたんだ。……呆れた。
 しかも、ヒートの時。つくづく間の悪いαだねぇ……」
 
 有紗はそう言って呆れたように小さく笑う。
 
「まぁ、とりあえず寝てなよ。まだヒート終わってないでしょ?あの薬は禁止。 抑制剤はここに置いとくけど、何か必要なら言って。オモチャも動画も何でも準備するから。食事はドアの前置いとく。 私はゲストルームに居るから、連絡してよ」
 
 有紗はそれだけ言うと、手を振り部屋を出て行った。
 
 青葉は、先日の海途の姿を思い出す。
 
 初めて見る、彼の一面……
 過去の海途と今の海途を、何度も繰り返し繰り返し、青葉は思い出す。

 考えなければいけないことは山程あるのに、それしか、考えられなかった。

 触れた唇……
 大きな手……
 大きくしっかりとした体躯……

 海途に触れられた箇所が、その痕跡を浮かび上がらせるようにジン……と響いて、青葉の体を物欲し気に切なくさせる。

 燻る熱が、青葉の体の奥を、確かに熱くさせ始めていた……——





「……永瀬、ごめん」
 
 意識がハッキリしてきた海途が、馴染みの無い紺色のソファから起き上がる。
 晴臣が海途にかけていた柔らかな白いブランケットが、そのはずみで床へ落ちた。
 
「……水飲む?どうしたら良いんだっけ、俺分からないんだよね。抑制剤効いてるんだよね?だから橘そんな寝ぼけてるっていうか……」
 晴臣は部屋着のまま幾つか飲み物を冷蔵から取り出すと、海途に見えるようにソファの前に置いてある机へ置いた。
 
「ああ……うん……ありがとう……」
 海途は起き上がり、未だモヤモヤする視界が気になって目を擦る。
 
 正確には、打たれた——
 とはいえ量は半分ほどなのは確認した……それでもかなり強い……
 あんな物を打ってるのか……
 と海途に遅れた驚きが襲ってくる。
 
 
「……俺は迎え行っただけだから。しかし橘を運ぶのは苦労したわ。ベッドまでは運べなかった」
 そう言いながら、晴臣は海途の様子を窺う。
 
「……あれがラットとヒートってやつなんだな」
 
 急な青葉からの着信、だが電話の相手は見知らぬ女性で、すぐに手を貸して欲しいと焦りながら晴臣に助けを求めた。仕事を置いてすぐさま向かった古びたアパート……その扉の先には、異様な雰囲気が広がっていた。
 
 熱く、甘いムワッとする空気……
 
 βにも分かる——
 
 一体、そこで何があったのか……——
 

「……なんで青葉の家行ったの?」
 
「……も話さないといけないことがあって」
 海途はそう言って座ったまま晴臣を見上げる。
 
「どうやって家知ったの?」
 
「……調べた」
 海途の声は小さいがはっきりとしていた。
 そこには特段の悪気は感じない。
 
「……合法であることを祈るよ」
 晴臣はそう言って、苛立ちを隠さないため息を吐く。
 
 
「俺には、都合の良い偶然なんて……降って来ないから……」
 海途はそう言うと、晴臣が置いた飲み物の一本に手を伸ばす。
 何のことやら分からない晴臣は、一瞬眉を顰めた。

「話さなきゃいけないことって……杉崎の話?」
 
 晴臣の言葉に、海途の手は止まる。
 
「知ってんの……?」
 
「手当たり次第聞きまくってるから。杉崎本人じゃ無くて、所詮腰巾着って奴が。
 青葉の連絡先知らないかって……」
 
 晴臣はセットしていない髪を掻き上げ、胸の前でキツく腕を組む。

「αもよくよく罪深い性質してんな……。
 俺がαなら、さっさと青葉を噛んで解放したいよ。……勿論、死ぬ気で口説いた後にだけど……」
 
 晴臣の言葉に、海途の体はピクッと反応する。あの部屋で何があったか、それを既に察している晴臣は海途に軽蔑の視線を送った。
 
〝解放したい〟——
 それは善意だけで出来る物では無い。お互いを縛る決して破れない契約でもある。番、もしそれをしようと思うなら、その根本にある感情は……
 
 海途には晴臣が何を言っているか、分かる。


「……青葉が気になる?今更?10年も経ってから?」
 晴臣は相変わらずの視線を海途に向けて、薄ら笑みを浮かべ尋ねた。
 
「……」
 海途はただ黙って、その視線を受け止める。
 
「卑怯だな、黙ってるなんて。……もう星川青葉は居ないよ。分かってるだろ?」
 
 俺は、安斎青葉を知ってる——
 海途に出会う前の青葉も……——
 
 晴臣には、誰よりも青葉を知っている自信があった。
 

「……何度も会いたいと思った。それでも、拒絶されるかもしれないって怖かったんだ、多分……
 だから、きっと幸せに生きてるって信じてた。番か伴侶が居て、仕事して、もしかしたら子供も居て……」

 海途は目を伏せそう言った。

「予想が外れたな。でもそれは橘には関係無い……。 もう関わらない方がいいんじゃない?橘、結婚するんでしょ?彼女と。周りにいる人皆、傷付くことになる」

 
 晴臣は、誰よりも青葉を知っている……——けれど誰も決して入れない場所が青葉にはあった。

 青葉が、入る事を許さないその場所に……
 恐らく、そこへ入れた人間は——

 晴臣は長い睫毛を伏せ、何かを考え込む海途を見る。
  

「青葉……朦朧としながら言ったんだ。
 あの頃の私だけを、覚えておいてほしかったって……」
 
 海途の眉間に深い皺が刻まれる。
 
「もし、それが理由で……青葉が消えたのなら……10年、ずっと青葉は……」
 
 ヒート以降、自分の全てを青葉が否定して生きて来たなら……——
 確かに自分は存在していたのだと本人が望んで全てを捨てたのなら……
 海途は唇を噛む。
 

「……βの俺には、よくわかんないんだけど。ヒートだからじゃないの?正気じゃないじゃん」
 
 晴臣の口調は、先程より苛立ちを隠しきれなくなっていた。
 
「αって……俺からすれば橘も杉崎も一緒だよ。心配だからとか、謝りたいとか適当な理由つけて、10年前のことわざわざ掘り起こして、今でも青葉の傷抉って傷つけてる。そんなにΩに執着するもんなの?αって」
 
 
「……俺が、あいつと一緒?」
 
 海途の首に血管がくっきりと浮き出し、それはピクピクと引き攣った。
 海途は血走った目で晴臣を睨む。
 
 
 晴臣の献身は、確かに青葉を支えたかもしれない——
 晴臣は人懐こく、誰にでも好かれる嫌味の無い青年だ。それが、彼の才能で長所だ。
 
 けれど……幾ら晴臣が慈愛に満ちた真心と、唯一を慕う恋情を持って青葉の懐に入り込んでも……——
 
 晴臣は、青葉を解放出来ない。
 それしか、青葉を救う方法は無いのに。
 
 
「……βは、どうやってもΩを解放出来ない」
 
 海途は顎を上げて冷たくそう言い放つ。
 
 βでは叶わない——
 幾らαを貶そうと、Ωを解放出来るのはαだけだ——
 
 それはどう足掻いても変える事は出来ない。
 
 
 
「……可哀想なやつ」
 晴臣は熱が冷めた様にポツリとそう溢した。
 
「αとかΩとか……うんざりだよ、もう。
 確かに俺は噛めない。青葉をΩの苦しみからは救えない。けど、青葉には青葉の理想とか生き方がある……。青葉にも、プライドがあんだよ。Ωである前に、一人の人間で……そんなの関係無く青葉は橘が好きだったんじゃないの……?だから、忘れて欲しく無かったんだろ……」
 
 
 晴臣の自身を哀れむ様な視線、普段なら屈辱的に感じるかもしれないその視線が、海途の心臓に大きく強く音を立てさせる。
 
 それと同時に、これ以上ない程締め付けた。
 
 
「……青葉の家族、もう居ないの知ってる?家族ごと名前も住む場所も全部変えたけど、青葉だけ安斎になった。家族とも縁切って今は暮らしてる。自分が悪いからって……。人生狂わせて、家族に凄く恨まれてるからって。
 飲んで酔うとたまにそんな話してた。
 橘が充実した人生送って、杉崎達はスポットライトを浴びて楽しそうに生きてる。だけど青葉は違う。何も無い。
 それでも、青葉って名前だけは、変えずに生きて来た。なんでだと思う……?」
 
 晴臣の告げる現実に、海途はただ圧倒されて呼吸さえ上手く出来なくなった。
 
 喉の奥が焼けて、声も出ない。
 
「……青葉の家族、俺もよく覚えてるよ。
 家族皆仲良くて、弟はっ……一樹は俺と同じでサッカーやってたし。青葉、弟のこと凄く大事にしてただろ?一樹も、シスコンて揶揄われるくらい仲良かったのに……」




 海途はどう晴臣の部屋から出て、自身が今どこを目指して歩いているか、分からない。
 
〝……あの頃の私だけを、覚えてて欲しかった……。橘くんにだけは……〟
 
 青葉の放った言葉が、耳に残って離れない。

 
 
 青葉には、家族さえもう居ない……
 青葉が全てを捨ててオークションにまで出ようとする原動力は一体何なのか、海途も考えていた。
 いくら生活に困っていると言っても、何もそこまでしなくても……とさえ思っていた。


 違う……もう、引き留める人も居ない。
 自らが思い留まる理由が無いのだろう……

 
 青葉の弟……——
 
 海途は懐かしい記憶を辿る。
 一樹に会えば、海途もよくシスコン、シスコン、と一樹を揶揄った。
 
 青葉は時に海途でさえヤキモチを焼く程一樹を可愛がり、一樹は少しうざったそうに、照れ臭そうに青葉に接していた。
 
 だが、周りに居る誰もが、一樹の方が青葉の事を大好きなのだと知っていた。
 
 それ程、仲が良い姉弟だった……——
 
 
 海途の記憶に残る、姉弟……
 青葉に似た顔立ちで、青葉より背が高く、少し生意気そうな目つきをした一樹……
 
 揶揄われても、それでも一樹は照れて嬉しそうに青葉を何度も呼んでいた——
 
 姉ちゃんっ!——、と……——
 
 
 
 
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