私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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空気を吸い込むたびに、体はどんどん本能によって強制的に侵されていった。 青葉の黒い瞳孔は、昂る興奮に開く。
 
 
 顔を真っ赤にした海途は苦しそうに鼻から手を離し、震える青葉の手に自らの手を強く重ねると、そのまま力を込めて青葉の体に抑制剤を打った。
 
 狭い部屋では二人の体が動くたび、買い出しの袋がガサガサと大小の音を立てる。 

 青葉の体から注射器を抜くと、気を緩めて吸い込んだ空気は全て海途の体の血液に急速に染み込んでいく。海途の体はただ一人を求めていた。
 だが、そういうわけにはいかない……自分は、自分だけは——
 理性を保たねば……呼吸さえも最低限にして海途は青葉の処置を手伝う。

 青葉が手を伸ばした茶色いプラスチックの入れ物からは、青葉の震えに連動して錠剤が激しく音を鳴らす。見かねた海途が咄嗟にその容器を青葉の手から取ったが、容器に貼られたラベルを見て海途の動きは止まった。
 
「これ……日本では認可降りて無いはずだ……なんで?」

「いいから………」
 青葉は真っ赤な顔で歯をギリギリとさせ、海途から容器を奪い返そうと手を伸ばす。

「っこんなものダメだ……!過剰摂取で死人も出てる」
 海途は熱に魘されながらも、渡す訳にはいかないと躊躇した。
 
「いいから、お願い……」
 青葉は床に倒れ込みそうになるが、それでも目一杯手を伸ばした。
 真っ赤に充血した青葉の目から、勝手に涙が零れて頬を伝う。
 
「出てって……!早くっ……
 もう二度とっ……二度と私の目の前に現れないでっ……!」
 
 青葉の目から、大粒の涙が溢れて止まらない。
 
 これ以上、海途に見せたく無い姿を晒すのは避けたかった……——
 
 
 橘くんの記憶の中の私が変わってしまう——情欲に我を失う、Ωの私に——……
 

 しゃがみ込んで青葉の様子を窺う海途から、手に握られた容器を取り戻そうと青葉はもがいた。海途は薬を遠くへ投げ出し、青葉の両手をぐっと掴む。
 海途は呆気なく青葉を抑え込み、態勢が崩れた青葉は海途の膝の間から海途の胸元に顔を埋める形で抱き留められた。

 海途の熱、海途の鼓動、そしてむせ返るような香りが、青葉の体から抗う力をいとも簡単に奪う。

 
「青葉……」
 
 海途は苦しそうな声で青葉を呼んだ。 
 絞り出すようなその吐息混じりの声は、圧倒的な熱を持っている
  
 海途の目に、顔を上げた青葉がハッキリと映る。
 
 互いの唇が吸い込まれるように重なった……その衝撃より、海途の目に映る悍ましい自身の姿より、青葉の目を捉えて離さなかったのは……—— 酷く悲しそうに青葉を見つめる、海途の苦痛に満ちた眼差しだった。

 
 
 
 
 ああ、こんなキスはした事が無い——
 
 お互いの舌が絡まり、どちらの唾液かも分からない液体が口元から首へと伝う。

 燃えるような熱の中でも、どこか冷静に青葉は状況を見ていた。
 現実感が無いせいか、与えられる刺激にのみ体は反応する。嫌悪感やトラウマさえ、この情欲には関係無いらしい。


 あの頃は触れるだけのキスで、精一杯だった。心臓が飛び出そうな程の緊張だったのに……——
 
 焦るように深く深く舌を絡ませても、心臓はどうやら口から出ないらしい……――橘くんは、確実に違う時間を歩んで来た……それが分かる——

 こんなキスも出来る、そんな経験も幾度と無く積んだのだろう……と青葉は冷静にそんな事を思った。


 頭がぼうっとする……——
 
 けれども、青葉の体は敏感に反応し、もっともっとと貪欲により強い快感を求めていた……——
 
 まるで夢だ、と青葉は思った。
 
 これは……目覚めた時、きっとまた絶望させるための、酷く残酷な夢だ——
 
 あんなに恐ろしくて、嫌悪に満ち、未だに苦しめられる、思い出したくもない行為のはずなのに――想像以上に温かくて、幸せで、そして、満たされる……――
 
 海途の手が少しでも体に触れると、青葉は表現し難い幸福感に包まれた。
 ひび割れた渇きが満たされていく――
 
 不思議……——
 空っぽなのに、愛さえないのに……
 襲われた時と同じなのに……
 ——これ以上ない程、青葉は幸せだった。
 
 このすぐに消えそうな蜃気楼じみた光景に縋ってしまいたい……
 まだもう少し、消えないで……と願いながら……
 
 
 
 
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