私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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 ……ヒートが来る——

 そう思えば青葉がすることはまず買い出し……そして用意できる限りの、大量の抑制剤と睡眠薬……
 
 抑制剤の注射器、茶色いケースに入った睡眠薬を、青葉は何度も何度も確認する。

 これで足りるのか……——
 大丈夫だろうか……——
 そんな不安が、青葉をいつも掻き立てる。
 
 睡眠薬は、海外から仕入れた鎮痛剤に近いものだ。じゃなければもうほとんど青葉の体は効果を感じられない。
 かなりの金食い虫ではあるが、仕方の無い出費だった。
 
 
 ヒートになると、あの雨の日の事を、嫌でも思い起こさせられる——……
 せめて、忘れたい……ほんの一時でも——
 

 有紗は薬剤の量を見て何度も青葉を嗜めてきた。今後を考えたら、特にこの睡眠薬はやめた方が良いとしつこく言われた。だが、青葉には聞き入れる余裕はもう無い。

 狭くて古く、カビ臭い部屋——
 そこに置いてある低いベッドに青葉は寝転がり、嫌と言うほど見た天井を眺める。
 苦痛を感じる時に見ているのは、いつもこの天井だった……

 ヒートの期間、ずっと……——

 
 ヒートは本来繁殖行為に特化した期間——αを誘い、これ以上ない程αを欲情させて、αを孕む……
 
 本能に従ってその期間に体に快楽を与えれば、体はその刺激を大いに取り込んで症状は確かにマシになるのだろう……——けれど、そんなつもりも青葉には無い。
 
 
 穴の空いた空の器を幾ら満たしても、結局は空になる。
 しかも、それは何十何百と続き、その後に残る物が無いのだから、青葉は器さえ取り出したく無い。

 虚無感に襲われれば、自己嫌悪に苛まれるのは分かっていた。
 空っぽの行為に、自らのトラウマを注ぎ込みたくは無い。


 仕事も探さなければいけないのに、これで10日は無駄に消費される……——お金も無くなる……——

 早くオークションに出ないと…——

 
 ふいに青葉はスマホに手を伸ばした。
 
 避け続けた懐かしい曲を検索したのは、惨めさに浸りたい自虐的な気まぐれだったのかもしれない。
 
 あの古い白黒映画音楽の音源……
 10年前は無かったのに……——
 
 そこには確かにあった。ご丁寧にも他のサイトには映画の切り取り動画が配信してあったりする。
 
 青葉の中の深い場所に仕舞った何かは、懐かしさに安堵し、仄かに興奮した。

 あの映画は古い恋愛映画だった。
 有名な作曲家の曲がふんだんに使われた作品で、ストーリーはお決まりで……だが、青葉は純粋に憧れた。
 身分差の恋でも、お決まりで最後はハッピーエンドだから、安心して楽しめた。


 聞いたら、一体どうなるだろう……——
 今なら、聞ける気がする……——
 
 
 そう思ってクリックすれば、流れ始めた懐かしい音楽がそっと優しく温かく、青葉の耳に入り込み、体中に巡り始めた。
 
 
 思いの外嫌悪感は湧かない……——
 あんなに嫌いだったのに、なんで……聞きたいんだろう——
 
 
 大好きだった曲
 大好きだった映画
 CDを貸してくれた、大好きだった人……——
 
 もし戻れたら……
 戻れるなら……——
 全ての出来事を回避出来たら……
 Ωで生まれなかったら……
 
 何百何千と頭の中で繰り返した……もし、の仮定——
 
 
 太陽の下、自分はどう生きてるのか——

 その時、橘くんは……——
 
 青葉の目が細くなり、体が沈み込んでいくような感覚がした。


 そんな時、突然青葉のスマホが音を鳴らして画面が変わり振動する。
 画面には有紗の文字が浮かんでいた。
 
 反射的に青葉がその電話を取ると、今時の音楽を後ろに高く可愛らしい有紗の声がする。
 
「青葉ー?そろそろヒートでしょ?温泉リゾート行ったからお土産渡そうと思ってー」

「……今?」
 有紗の言葉に、青葉は重い上体を少し起こす。

「だって今帰りでちょうど良いかなーって。車だし、こないだの事もあるし、心配だから顔見たいなって」
 
 有紗の話し方で、あの人が有紗のそばに居ないと分かるが確認しない訳にはいかない。
 
「……あの人は?」

「居ないよー。私と前のラウンジで一緒だった子と行ったの。その子はパパと合流したから、今私一人」
 
 パパ……は本物のパパでは無いだろうことは想像に易しい。

「少し寄って顔見て、すぐ帰るよ」

「お風呂入っちゃうんだけど」

「いいよー合鍵あるしー……って夫婦かよ」
 と笑う有紗の声がやけに心地良い。
 
「ありがとう……」
 青葉がそう言って、賑やかな電話は切れた。
 
 
 
 するとすぐに部屋のインターホンが鳴る。
 有紗にしては、余りにも速すぎる—— 怪訝な顔で青葉が覗き穴を見ても、外には誰も居ない。
 夜なので暗ければ申し訳程度のライトでは確認出来ないのは分かっていた。

 チェーンを掛けて少しだけ扉を開けると、そこには部屋の扉よりも少し高い海途が、何か悪いことをしてしまった子供のような顔で青葉の顔を窺ていた。


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