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しおりを挟む「……たまには若者の風を感じに行かない?気晴らしに。ね?」
有紗は自身の部屋のソファでぐったりと横になる青葉にそう声を掛けた。
仕事を辞める、それだけ言って何を聞いても反応の薄い青葉を、有紗は有無を言わさずに外に連れ出す準備を始める。
有紗は青葉の身支度を買って出て、青葉は見かけだけは今風のキラキラした女性に整えられた。長い黒髪を器用に巻き髪に変え、有紗の高級な化粧品達は青葉の顔から辛気臭さと蓄積された疲労感を追い出す。
体に張り付くようなトップスと、スタイルを綺麗に見せてくれるパンツを身につけ、慣れないヒールは青葉には歩きづらくて仕方がない——が、有紗は脱ぐ事を許さなかった。
よく似合ってる、と有紗ばかりは満足気で、テンションが高い。だが、既にその頬は薄ら赤いのを青葉は確認済みだ。
タクシーに乗って着いた先を見て、有紗は舌を出しておどけ、苦笑いを浮かべる。
「ヒートだったら最悪だね……」
青葉も引き攣った笑いを起こす程、そこは人でごった返していた。
「その格好本当似合うよ。普段からそうしてれば良いのに。それ全部あげるよ」
招待客の列に並んでる間、有紗はそう言って青葉の姿をもう一度確認するようにまじまじと上から下まで眺める。
どちらかと言えば、自らの手腕に惚れ惚れ、と言った方が正しいかもしれない。
「ねー青葉の顔、そうやって仏頂面だと老けて見える。ていうか顔色悪くて辛気臭いんだよねー……もうちょっとチーク入れ無いと……」
有紗はズケズケと言い放つと小さく重厚な高級ブランドのバックからこれまた小さい何かを取り出し、指で青葉の頬をポンポンと何度か軽く叩く。
力加減が出来ないのか、時折有紗の長い爪が青葉の頬に引っ掛かり、ピリッとした痛みが青葉の頬に走った。
「……さっきから思ってたんだけど……もう酔ってる?」
「当たり前じゃーん!」
と言って有紗は青葉の顔へぐっとその顔を近づけ、ニコッと笑う。
その吐息は確かにアルコールを帯びていて、青葉は呆れた溜め息を吐いた。
手首に招待客用のシリコンブレスレットを嵌められ案内された先は、下のフロアよりも高い場所に設置されたソファー席で、ライブハウスなのかクラブなのか曖昧な建物の中でずっと立たなくて済むと青葉はホッと腰を下ろした。
ハイヒールはやはり歩きづらく痛みを伴う。
席に座り、有紗も気が抜けたのかソファにより深く座り直すと、手首に付けていたキラキラと輝く腕時計を鬱陶しそうに外し鞄に入れた。
その代わりにスマホを取り出してsns用にパシャパシャと写真を撮り始める。
「そう言えば、誰からの招待なの?」
既にガヤガヤと辺りがうるさい中、青葉が少し大きめの声で隣に座る有紗に尋ねた。
「誰だっけ?あの人のツテだよ。そもそもあの人ももうこういうの行かないじゃん?行きたかったら行こうよって言われてたけど、そのままだったからあの人も忘れてる」
有紗はそう言って運ばれてきたシャンパンに手を伸ばす。
「今日は凄いんだって、ゲストが。だから人も多いみたい」
そう言う有紗の言葉通り、喧騒と熱気が建物内いっぱいに籠っていた。
「誰か男の子も適当に誘えば良かったねー。青葉が居るなら、他の男に会う口実が出来たのに。失敗したなー」
有紗はそう言って、はー……とわざとらしくため息を吐いてみせる。
あの人は、有彩が他の男性と見知らぬところで会うのをとても嫌がるらしい。有彩はあの人の物だから、そういった部分の束縛はしているらしかった。
「ほら誰だっけ、青葉の仲良い子。爽やかで結構かっこいい…」
「晴臣?」
「そうそうその子!会ってみたい。α?」
「βだよ」
青葉がそう言うと、残念、と有紗は呟く。
「でもβでも上手な人居るからなー…… 色仕掛けが効きづらいけど」
百戦錬磨の手練手管……
経験値が物を言う……——
ある種の畏敬の念を持って青葉が横目で有紗を見ると、一際大きな歓声が下の客席から上がった。
そろそろ始まるらしい——
「——今日はゲストが居ます!」
そう主催者がマイクを通して絶叫に近い大声を上げると、それを上回る歓声が会場内に反響する。
「音楽プロデューサーでダンサー、皆さんご存知の超超超ー……有名グループのー?」
そんな風に煽られると、観衆の歓声と熱気が茹るような湯気にさえ見えてきた。
「——Ryuseiです!」
スポットライトを浴び、大歓声を一身に浴びるその人物——
浅黒い肌、筋肉質でアスリートのような恵まれた体躯、端正な顔立ちに青く染めた髪が揺れる。
その姿を見て、会場内で怯える目付きで凍えるように激しく震え出したのは青葉だけだっただろう。
息が止まり、体が動かない——
あいつだ……——
高校の時の——
あの時はもっと下衆な笑い方をしてた——
やっと獲物を見つけた、そんな強く、自分以外を捉えていない目——
まだ線の細い青年は、丸く黒い瞳をギラギラさせて、荒い呼吸のまま青葉の制服を剥いだ。
そして許可も無く身体中をあの手で撫でまわし、掴んで……
あの時の、雨の匂いが混じったむせ返るような香り……
ベタベタとした汗と湿気に絡まれた肌……
逃げることの出来ない茹だるような熱さが、血管を開かせて……
あの時自分は、どうだった——?
逃げようと思った……
あの時のαはどう映った——?
食べられてしまうようで身がすくんだ……
けれど、体は……——?
逃げたかった?本当に?
ラットの熱に浮かされて、よりΩのフェロモンは強くなり、熱は溶けあって……
あの体中を駆け巡った熱は……——
それを考えると青葉は建物内の熱気が酷く不快に感じて、眩暈がし始める。
熱が引いた後に襲ってきた恐怖と嫌悪……忘れられない光景が青葉を休まず戦慄させ震え上がらせる——
忘れたくとも、忘れられない記憶として脳に強制的に焼き付けられた、あの雨の日——
スポットライトの下で、満足気に笑みを浮かべてるあいつ……——
あの時、私は……——
本当は——
本当に——?
とてつも無い悪寒が何度も体を駆け巡って、何度目かの強い震えが襲ってきた時、青葉は強烈な吐き気を催した。
「青葉?……青葉?大丈夫——?」
心配して青葉を覗き込む有紗を半ば押し除けるようにして、青葉はハイヒールに足を挫きながらトイレに駆け込む。
便座の前に座り込むと、吐き気に任せるまま、胃液になるまで全てのものを吐き出した。それでも目眩は治らない。
震えが止まらない……——
吐きすぎて痛む胃をさすり、荒い息で口元を拭う。
冷たい壁に背を預けて、青葉は浅い息を整える。
不意に目を閉じると、青葉はそのまま意識を失った。
「——っ青葉?青葉!?」
ドアを叩く音に、薄らと青葉は目を開ける。
どれ程時間が経っただろう……——
そんなに長く無い——
そんな事を思いながら、腰を上げてトイレのドアを開けた。
「どうしたの…?!顔、やばいよ、真っ青……」
目を見開いて顔を歪める有紗に、青葉はゆっくりともたれ掛かる。
「帰りたい……」
青葉が小さくそう呟くと、ただならぬ青葉の状態に有紗は青葉の腰に手を回し、帰ろうと低く言って、トイレを出た。
「今アプリでタクシー呼んだから。すぐ来ると思う。そのまま病院行く?」
有紗がそう青葉に尋ねると、青葉は力無く首を横に振った。
「あれ、アリサちゃん?来てくれたんだ!……どうしたの?何かあった?」
男性の低い声がする。
青葉は顔を伏せたまま、微かに見えるのは黒い床だけだ。
「すみませーん、友達が体調悪いみたいで……」
「大丈夫?タクシー呼ぶよ?」
「大丈夫です、さっき手配したので。ありがとうございます、また来ますねー」
と有紗は明るい口調でそう答えてみせる。どんな時でも愛嬌が良いのは、有紗の魅力の一つだろう。
「どうした?」
そこに加わった声に、青葉の体は条件反射で覚醒した。目をカッと見開いて、衝撃に備えるように体は強張る。
聞き覚えのある、忘れる事の無い声——……
「ああ、友達が具合悪くなっちゃったんだって」
あいつの視線を、青葉は確かに感じた。
心臓がバクバクと脈打ち、耳が痛い。
指先まで、脈の振動に震える。
「……大丈夫ですか?」
そう覗き込んだあいつの黒々をした目と、青葉の目が合った。ギョロリとしたあの黒い瞳に、自身が映っているのを青葉は見る。
この黒い瞳が、あの日も自分を見ていた——
あの日と同じように、情けない程怯えた顔の青葉が、確かにそこに在る——
「わーこんなに近くに本物ー!かっこいいー!ライブ行った事あるんです私ー!」
青葉の様子を察した有紗が、Ryuseiの距離の近さに違和感を覚えぐいっと青葉の体を引く。有紗は青葉とRyuseiの間に距離を作った。
有紗が適当に褒めちぎってその場を後にする。有紗は青葉を支えながら歩みを早め、自分達に向けられる視線に、何度か軽く後ろを振り返った。
向けられる視線を、牽制する様に……——
「…今日はうちに泊まりなよ。具合良くなるまで居ていいからさ」
有紗の体温を感じながら、青葉は今にも崩れ落ちそうな体をなんとか持ち堪える。
青葉は決してそんな姿は見せたく無い。
私は怯えていない……
弱く震える、そんな人間じゃない……
そんな自分では、いたくなかった。
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