私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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 海途に連れられるまま、警備を通して海途の勤め先であるビルの中に入る。
 
 既に人気は無く、暗い室内には所々に残業している人の照明が遠くに小さくポツポツと室内を照らしていた。
 沈黙のまま、エレベーターを上がっていくと海途の押したフロアに到着する。
 

 青葉は大きなガラス張りの休憩室に案内されると、海途に座るように促された。
 窓に付いた雨粒が、階下の夜景を所々淡くボヤけて見せている。
 
 ここで働く人間に相応しいように、モダンで手の込んだ休憩室だ。
 

 座るように言われても、青葉にそのつもりは無い。
 長居する気は無い——
 言葉にしない意思表示だった。

 海途は一度休憩室を出るとすぐ戻ってきて、小さなタオルと淹れたての暖かいコーヒーの紙コップを青葉に差し出す。
 だが、青葉にそれを受け取る意思はなく、ただ顔を伏せて立っているので、海途は早々にそれを察して1番近いテーブルへそれを置いた。

 
 記憶に残る様な、洗練された芳しい香りが一瞬、青葉の鼻を掠める。
 外では気付かなかった、海途の香水の香りだろう。
  
  
 ふと青葉は、壁に掛かる時計に気付き、それをじっと眺める。
 

「急いでる?」
 
 立ち尽くす青葉に遠慮して、海途も席には座らずに、窓の高い位置に取り付けられた細長い机に肘を置き、湯気が揺れる暖かいコーヒーを口にする。


「……いえ。電車の時間を——」
 青葉はそれ以上言葉を続けられなかった。
 どうしても、声が震えてしまう。

 
 雨の日の満員電車が大嫌いだ——
 匂いも、擦れ合う体も……
 あの温度も感触も……
 
 

「家、遠いの?」
 海途は青葉から少し距離が空いた場所から、そう青葉に尋ねる。

「……遠いし、電車がっ……混むので」
 それだけ絞り出すと、青葉は触ってもいないタオルとコーヒーに目線を移す。

「タオル、ありがとうございます。もう、行きます……」
 
 それだけ言うと、青葉は軽く頭を下げ、休憩室を出ていこうとした。
 髪に付いた水滴が揺れて、青葉の顔を濡らす。


「……まだ、雨降ってますよ」
 少し大きな、はっきりとした海途の声が、青葉の動きを制した。
 声が大きくても、焦った様子はない。 
 
 落ち着き払っていて、感情が全く読み取れない、そんな声色だった。この場の主導権を海途は完全に握っている——そんなある種堂々とした態度は、自身とはまるで正反対に青葉には思えた。
 
 
 大した出来事じゃない——
 10年ぶりに、顔を合わせただけ——
 橘くんの態度は、それを証明してる……——


 もう二度と、会う事は無いと思っていた青葉だけが、予期せぬ再会に動揺を隠せない。

 けれど、それを海途に察してしまわれては……
 青葉は背筋を伸ばし、毅然とした態度で顔だけを海途の方へ向けた。


「大丈夫です」
 
 それでも、目線を合わせる事が青葉には出来ない。
 
 
 私は濡れても構わない——
 雨なんて気にしていない、そんな態度を突き通さなければならなかった。


「資格の本……勉強してんの?」
 海途は雰囲気を変えるように話題を変えて、二、三歩青葉に近付く。
 
 
 自分の背中に投げかけられる声に、また青葉の中の何かが手を伸ばしそうだった。懐かしさに飢えた、温もりを求めようとする手が、青葉の意思を無視して体の内側を這っている。



「……いえ、頭も悪いし。少し読んでみようかなって……思っただけです」
 先程よりも、青葉ははっきりと喋る事が出来た。
 
 大した事じゃない……——
 10年前の出来事だ……——
 
 繰り返し、繰り返し、そう唱えるように言い聞かせて、青葉は自身の背を撫でるように呼吸を落ち着かせる。


「成績、悪くなかったって知ってる。星川……いや、今は安斎さんか」

 海途の声は相変わらず余裕がある。
 どこか冷たく、冷静で、自信に満ちている。
 
 久しぶりに会ったとは思えない程、堂々としているので、まるで二人の間には何も無かったかのようだ。

 
「名前違うから人違いかなって思ったけど。……でも首筋のほくろ」

「え……」
 
 青葉は咄嗟に困惑の表情を浮かべ、思わず海途を見た。
 

「……星川からは見えないか。首筋に2つ並んだ小さいほくろあるんだ。それでやっぱり、本人だって……」
 海途が自身の首でそのホクロの場所を指す。それに倣って、青葉も困惑しながら同じ場所を指で掠めた。
 
 一つに結んだ髪から、その場所はよく見えるらしい。青葉は今まで一切、その存在に気付きもしなかった。
 
 
 
「安斎って事は、結婚したの?」
 
 
 海途の言葉が、青葉に深く沈み込む。
 遠慮も無しに、鋭く抉る。
 
 
 知らないのだろうか……——あんな事があったΩがどうなるのか……——
 いや、知る必要が無い。
 
 だって、あなたはαだから——
 そんな事、知らないままでいい……
 
 
 
 
「……だとして、関係ある?」
 青葉はしっかりと体を海途へ向けて、まっすぐ海途を見つめてそう言った。
 
 海途もじっと青葉を見返す。
 射抜くように鋭く、そして青葉の何かを探る様に……



「タオルとコーヒー、ありがとうございました」
 
 青葉はまた同じ言葉を繰り返し、体を出口に向けた。

「傘、使って」
 
 海途はサッと青葉の前に歩み出ると、どこからか出した折り畳みの傘を青葉に差し出した。
 
 予備もあるなんて……——
 さすが準備の良い……——そう思いながら、青葉は差し出されたモスグリーンの傘に視線を落とす。

「大丈夫です」
 
 それだけ言って、青葉は海途を避けて進もうとする。
 
「俺、家近いから。それに、これは予備の傘。返さなくていい、捨てても良い」
 それでも尚、海途は傘をぐっと青葉へ差し出してきた。
 
 
 青葉は海途が少し強引で、引き下がらないという性格は記憶していた。
 そんな姿に、青葉は冷たげな海途の感情の波を、少なからず感じる事が出来た。
 
 そこは変わってない……——
 
 そんな懐かしさが一瞬込み上げる。
 
 
 青葉は選択の余地が無いと知って、サッと傘を受け取ると、足早にきた道を戻る。
 
 
 警備に許可証を返すと同時に、傘を返しておいて欲しいと預けて外へ出た。


 借りは作りたく無い——
 関わりたく無い——
 
 少しまばらになった雨の中を、それでも濡れない様にと青葉はリュックを前に抱えて走り出す。
 
 震える身体を、大嫌いな雨の中に投げ出した。一刻も早く逃げるように、足はいつもよりよく走る。
 
 
 雨なんて、どうとも思っていない……——
 私は大丈夫——
 
 
 何度も何度も言い聞かせた。
 
 自分は、怖がってなんていない——
 後悔していない……
 弱く無い——
 
 そんな自分でありたい——
 
 例え強がりの、偽りであっても……——


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