私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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 閉店作業が思いの外長引いた。
 青葉が店を出た時、外は雨が降っていた。軒下を伝って、とりあえず行けるところまで行ってみる。
 
 この音、匂い、水の感触が、青葉をいつもどこか緊張させた。
 
 出そうと思っていた申請書類を出して帰ろう、と青葉は思っていた。だがこの雨ではそれは叶いそうに無い。むしろ濡れてしまう可能性があって、傘を持ってこなかった事を青葉は心底後悔した。
 
 それと同時に、雨だから何だって言うんだ……と気にも留めない自分で居たい——
 
 仕方ない……でももう一度持ち帰って、確かめてみるのも良いかもしれない……——
 
 濡れずにどう持ち帰るか、傘をどこかで買うべきか……青葉の頭の中は忙しい。
 
 リュックを前に持って、チャックを開ける。
 
 電車も最悪だろうな……——と青葉がため息を吐いた時、後ろからドンッと衝撃が走って青葉の手に持たれた書類とリュックは歩道に投げ出された。
 

 青葉が背中に走ったその衝撃を確認すると、青葉の横を、自転車に乗った男性が通り抜ける。男性の手には傘とスマホがそれぞれ握られていた。青葉がその姿を一瞥しても、男性は何も言わずにそのまま走り去っていった。
 
 呆気に取られてたのも束の間、書類や本、リュックの中にあった青葉の荷物は、濡れた地面に散乱している。

 
 青葉は雨の中に飛び込み、急いで散らばった書類をかき集めた。
 
 文字が滲んだら……と思うと、滑らない地面をそれでも手でかき集めて少しでも早く、一枚でも多く、と駆られる思いで拾い上げていく。
 
 
 

 その時、青葉に降り注いでいた雨が不意に止まった——
 
 
 

 顔を上げると、懐かしい面影を持つ男性が、青葉を冷たく見下ろしている。
 
 声にならない声が漏れた時、その男性は大きな体を丸め、すぐにしゃがみ込んだ。

 突然の出来事に動揺して青葉の指は震え出す。紙一枚さえ、上手く掴めない。


 震えるな……——
 お願い、今だけで良い——


 青葉の様子を気に留める事も無く、男は淡々と、そして素早く本や書類をその長い指で器用に拾い上げた。だが、一瞬だけその動きは止まる。そして間を置いてすぐまた動き出し、あっという間に散らばった書類や本、青葉のリュックも拾い上げた。
 
 
 ありがとうございます……、と雨の音に掻き消された青葉の声と同時に、男ははスッと立ち上がる。青葉はしゃがんだまま顔を隠し、半ばひったくるようにしてその荷物を受け取った。
 
 
 一つ傘の下——
 二人は沈黙したままその場に留まっている——
 
 
 雨の音しかしないはずなのに、青葉の耳は痛い程心臓の音が響く。

 

 未だしゃがみ込む青葉に、海途は徐に手を差し出した。
 
 
「……星川」


 雨が地面を叩く中、ハッキリとその声は青葉を呼んだ。時が戻るような感覚に、青葉は無意識に顔を上げてしまう。

 
 声で分かる——
 
〝星川〟
 
 何度も呼ばれた、その呼び方で……
 
 青葉の脳の何処かで、もう忘れたはずの記憶と、この世に居ないはずの人間が、その声に激しく反応している。
 
 
「やっぱり……星川だよね?」
 
 
 海途は相変わらず表情も無く、そう続けた。
 
 ——違う……星川 青葉はもう居ない。
 ——何処にも居ない。
 
 咄嗟に駆け出そうとした青葉の腕を、海途は容易く引き留めしっかりと手で掴んだ。
 強い力で拘束されてる訳でも無いのに、青葉の腕は全く動かない。
 
 
 青葉が海途を睨みつけると、海途は相変わらずどこか冷めた有無を言わさない大きな瞳で青葉を捕らえている。

 
 
「時間、ある?」
 
 
 青葉に、選択の余地は与えられていなかった。
 
 
 

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