私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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「……晴臣。先に言ってよ、こんな格好で来ちゃったじゃん」
 
「いいよ、そんなの気になんないじゃん。
 誘ったの俺だし」
 
 バイト終わりに青葉が晴臣に呼び出された先は、小さく小洒落たイタリアンレストランで、雰囲気はとても良い。
 仕事帰りの白いシャツに膝が擦れて色が薄くなった黒いパンツ、くたびれたリュックで来る場所では無いのは誰が見ても明らかだった。
 
 入ろうか迷って青葉が晴臣に連絡すると、晴臣はスマホを耳に当てたまま店の外までやってきた。
 

「見て……。穴空いてるスニーカーだよ?」
 青葉は気まずそうな苦笑いを浮かべて足元を指差す。

「靴下が黒で正解だったな、青葉」
 そう言って晴臣は両眉を上げニヤッと笑う。
 
 先程まで財布の中に幾ら残ってるか心配した青葉だったが、考えるのを止めた。

「先生、奢りだよね勿論」
 青葉がわざとらしく睨みつけると、晴臣はフッと噴き出す。

「……俺は金が大好きな弁護士だけど、人としての良識は捨ててないから好きなだけ食べろよ」
 そう言って、晴臣は青葉を中へ促す。
 
 狭い店内は、暖かい照明で照らされ、席につくと可愛らしい木製のテーブルには真ん中に鮮やかなタイルが埋め込んであった。
 徐に晴臣はじっと青葉を見つめる。
 
「……髪、下ろしてるの珍しい。似合うな」
 何気なくそれだけ言うと、晴臣は青葉にメニューを手渡す。

「……そうかな」
 そんな風に言われた事が、あったような気がする……と青葉は記憶を巡らす。


 ああ……高校の時……——
 
〝結んでても可愛いけど、下ろしてる方が好みかな。でも……どっちも好きだよ〟
 
 そう海途に言われて、結んでも出来るだけ下ろすようにしてたっけ……

 最近あんな夢ばっかり見るからだ……——
 忘れてた思い出まで蘇ってくる……——

 青葉はポケットからヘアゴムを取り出すと、適当に髪を結んだ。


「……ねぇ晴臣」
 不意に、青葉は晴臣に声をかける。
 
〝橘君に……〟
 そう言おうとして、青葉はとっさに口を閉じた。

「んー?」
 晴臣は相変わらずメニューを見ている。

「……なんでも無い」
 青葉もそう言って、メニューに目を落とした。


 
 
 夢のように美味しい料理に舌鼓を打って、予想に反して青葉も饒舌になった。
 
 晴臣も随分ワインを飲んで、すっかり酔っていた。
 勿論会計もスマートに彼はこなしたが、青葉は帰り際、晴臣にどうこの楽しい晩餐のお返しをしようか考える。
 
 お返しも、スマートにしなければならないのは大人ならば暗黙の了解だ。
 そんな焦ったさが、青葉は少し苦手だった。
 
 大人になると、そんな焦ったさは試される様に多くなる。
 
 
 そもそも誕生日だとかそういう訳でも無いのに、こんな事をしてもらう訳には……——
 
 青葉の頭にそんなことが浮かんで、頭の中にペラペラ捲られる暦が浮かんだ。
 
 
 今日は何日?——
 
 誕生日……——
 
 晴臣に見送られた窮屈な満員電車、その中に揺られながら青葉は来週が弟、一樹いつきの誕生日だと思い出した。
 
 
 
 今は血の繋がりがあるだけの他人だが、もうそんな季節か——と青葉の記憶をそっと呼び起こさせる。
 
 
 青葉より三歳下の一樹は、もうすっかり社会人になっているだろう——
 
 その姿を、一度も見たことは無いので、青葉の中の一樹はまだ幼さの残る思春期の少年のままの姿だった。
 
 
 一樹が産まれた時の事を、青葉は今もよく覚えている。
 
 楽しみで仕方なかった弟の誕生……——
 
 その日が来るのが嬉しくて堪らなかった。母に連れられ一樹が帰ってきた時、その手に抱かれた一樹は、柔らかい光を帯びて青葉は目が離せなかった——
 
 小さく眠る一樹を、いつまでも眺めていた。
 
 一樹が泣けばすぐに飛んでって、抱っこさせてと母を困らせ、泣き止ませようと子供心にあの手この手であやしたものだ——
 
 お姉ちゃん、お姉ちゃん、といつも一樹は後ろを付いてきた——
 
 外では必ず手を繋いで歩いた。
 可愛い弟が自慢で、大好きだった——
 

 誕生日が来れば、ケーキを母と一緒に手作りして、一樹が好きなコロッケを買いに商店街へ買いに寄るのは仕事帰りの父の恒例で……——
 
 サッカーに行ってる間に飾り付けを済ませておくが、毎年の事なので一樹はそれを分かっている。
 それでも、一樹は何日も前からその日を楽しみにしてて……——
 
 

 今年は誰と祝ってるのかな……——
 お父さんお母さんと?それとも友達?彼女?——

 
 両親は青葉がヒートを起こしたせいでΩと知られ、行政の指導の下仕事も変えずっと慣れ親しんだ土地を離れて親族とも連絡を絶った……

 青葉を守るため——

 でもそのせいで両親は不仲になり、喧嘩が絶えなくなった。
 
 そんな家庭を憂いて、青葉が明るく振る舞えば振る舞うほど、気丈にいようと思えば思うほど、家族はバラバラになっていった。
 
 母はお酒と安定剤が手放せなくなり、父は家に寄り付かなくなって、青葉を見ると露骨にその存在を避けた——
 
 今まで築いた世界が崩れ去った衝撃は、何も青葉だけに降りかかった訳じゃ無い。
 だから弟に、一樹に恨まれても仕方無い——と青葉は思った。
 

〝お前のせいで、俺は全部失った!
 お前が居るせいで!——っ返せよ!全部返せよ!お前が居るから……っΩのお前が、全部壊したんだ……
 お前なんて、……っ居なければ良かったのにっ!〟

 そう涙を飛ばしながら怒鳴られても、青葉は何も言い返せなかった。

 その通りだと思った。

 自分がΩのせいで、家族は取り返しのつかない大きな犠牲を払った。



 今は、少しでも元の生活取り戻せてるのかな……私が居なくなったから——
 
 物理的にも法的にも他人になった。
 
 家族じゃない——だから、少しでもその重荷から解放されたんだろうか?

 生きやすく、なったのだろうか……

 

 眠る前、青葉は小さな飾り箱の中から一枚の写真を取り出す。
 
 一枚だけ残った家族の写真——
 青葉が高校を入学する時に撮ったものだ。青葉が家を出ると決まって、アルバムや思い出の品は出来る限り処分した。自分が写ってるものは全部。

 家に残る自分の痕跡も、全て——

 それがせめてもの償いだった……——
 
 この家に、青葉は産まれなかった。
 Ωは産まれなかった。

 自分で自分が産まれた時の写真をゴミ袋に詰めた時、写真には付箋が貼ってあって小さな字で母が何かを書いていた。
 何が書いてあったかも、今ではもう分からない。
 
 自分の過去全てを見ない様にして、青葉は全てを捨てた。
 
 

 それなのに、それでも自分はたった一枚捨てきれない。
 
 既に失ったものに執着している……——
 
 あの時でさえ……と青葉は不意に海途を思い出す。
 
 

 星川 青葉はこの世にもう居ない。
 パッと消えてしまった……
 
 消えてしまった、と思いたい——
 
 でなければ後ろを振り返りたくなってしまう。枯れる程流した涙が、また溢れてきてしまいそうになる——




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