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『睡蓮』と幸せのピエロ

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 渚は九年前に碧に出会って一目惚れして以来、ずっと傍で見守り、彼に協力しているのだそうだ。幼い頃から医者を志していたことから、結果的に曲芸団の常駐医師となり、その手助けとなったという。

 また、舞台演出の勉強をするため、碧と一緒に他国の曲芸団を見学しに行ったことなども、楽しそうに話してくれた。

「碧はね、公演を楽しむお客さんたちから『幸せのピエロ』って言われてるの」
「幸せのピエロ?」
「公演を見てから、仕事がうまくいくようになったり、金運がよくなったり、好きな人への告白が成功したりとか。そういう小さな幸運を運んでくれるっていう噂が流れて、一躍有名になったわ。碧の演じるピエロは、見ていて元気をもらえるの」

 波音は、手の届かない王子様が、また更に遠くなったように感じた。それほど、たくさんの人を既に幸せにしているというのに、碧はまだ足りないと言いたげに、前に突き進んでいる。日々の穏やかな仕事に満足していた波音には、想像もできない世界だった。

 スパイスで味付けされた鶏肉を囓り、飲み込んでから、波音はあと一つだけ聞きたいことを思い出した。副団長の滉のことだ。あれから、話し掛けようにもとりつく島がなく、波音は困り果てている。

「あの、滉さんのことなんですけど……。私、異様に嫌われていませんか?」
「あいつのことなら気にしなくていいわよ。碧以外にはほとんど心を許していないから」
「碧さん、以外……?」
「滉は碧に憧れて、十代の頃に入団してからずっと、碧にべったりなの。碧はそういうところを直させたくて、敢えて滉を副団長にすることで、他の団員と交流させているのよ」
「そういうことだったんですか」
「冷たくされても気にしないようにしなさい。じゃないと、心が折れるわよ」

 碧はやはり、周囲をよく見ている。人を引っ張っていけるその統率力は、団長に相応ふさわしいのだろう。

「碧さんって、すごい人なんですね……」
「そう思うでしょ? 皇族の栄光に胡座あぐらをかかず、自ら道を切り開けるの。本当に格好いいわ」
「はい」
「波音。あんたも碧に惚れそうになったら、すぐ私に言うのよ?」
「あ……はい」
「あら? 歯切れが悪いわね? もしかしてもう……」
「い、いえいえ! 私、他に好きな人がいますから!」

 波音は両手を全力で左右に振り、訝しむ渚の視線をねのけた。碧のことを好きになってなどいない。『碧兄ちゃん』と同じ名前だし、いろいろと気にはなるが、それは好意とは違うものだ。

「好きな人って……元の世界に?」
「はい。いたんですけど、もう……会えないんです」
「そっか。帰る方法が分からないんだものね。でもまだ、希望は捨てないほうがいいわよ」
「……はい」

 波音は愛想笑いが上手くなったかもしれない。もう好きな人には会えないことを、いつもこうして曖昧にしてきた。渚の励ましが心に刺さるが、詳しいことを話す気にはなれなかった。
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