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8.ヒイラギナンテンは、激しい感情を伝える
願うのは絶望の中の光
しおりを挟む静まり返った中、口を開いたのは微妙な顔つきをした河原崎だ。
「……あのよ、涙話の腰を折って悪いんだが。話に出て来た碧眼女を取り巻く相関図を整理させてくれねぇか。碧眼女ばかりで、もう俺……誰が誰やらで」
聡明な河原崎が、なにが真実なのかを把握出来ないはずはないと香乃は思った。
これは彼なりに、慟哭に震えるこの空気を少し鎮静させようとしたのだろう。
それがわかったのか穂積は頷いて、落ち着いた声でおさらいをする。
「真宮家には大正期から奥の院に碧眼女がいた。それは河原崎がアナスタシアと呼んでいた……仮に名前をAとしよう。Aは子供を産めない体だった。しかしAと真宮の直系との子供でAの血筋を守る使命を果たすべく、河原崎や河原崎の父親は、真宮の女を代理母にした。その結果、真宮には碧眼の子供が生まれることになるが、河原崎はAを生かすために、真宮で序列最下位の宿下がりした女や碧眼女達の体を切り取って、Aに貼り付けて生かしてきた。ここまではいいか」
「ああ」
香乃も聞かれてもいないのに頷く。
「その舞台に予想外にも父さんが乱入し、Aと交わってしまった。河原崎の歪んだ愛は父さんへの嫉妬に狂い、父さんへ近親相姦の罪を被せようとして香乃の母親の腹に、河原崎とAとの子供を人為的に孕ませた。その子がB。喋れないなどの障害を持っていた」
「そしてBは、俺の実姉かもしれないんだな」
「ああ。Aを誰にも触れさせたくないという河原崎の思いからすれば、父さんとAが関係を持ってしまってからは特に、Aの血を引く子供はすべて河原崎を父としているだろう。理人と同じ両親の、理人の兄弟姉妹だ。B以外にどの程度いるかはわからないが」
河原崎は乾いた笑いを見せた。
「……ぞっとするな。ロシアでは王族、日本では真宮の従者でありながら、身分違いの純愛で留めず、肉体関係を無理矢理結んだ挙げ句に自らの血族を密かに築き上げているなど。どちらの主をも裏切り、自分の種を残したいという男の本能丸出しの結果が、俺達かよ……」
河原崎が蔑んだ先には、床に座り込み、虚空を見つめて笑い続ける父親がいる。
執事に、息子の声が届く日は来るのだろうか。
(子供に、こんなに悲しい顔をさせるなんて……)
怒りなのか悲しみなのか、河原崎の肩が震えていた。穂積は静かに河原崎の元に歩むと、その肩を軽く叩く。
言葉はかけない。だがきっと、真宮の犠牲となり、生まれてきた意味を自問自答してきただろう穂積こそが、河原崎の一番の理解者なのだ。
主従を超えた関係にあればこそ、その励ましは誰よりも嬉しいはずだ。
河原崎は少しだけ照れ臭そうに口元を緩め、視線だけで穂積に続きを促した。
「……河原崎はBは死んだものと思っていたが、父さんは密かにBを座敷牢で保護していた。そしてBと父さんとの間に生まれたのがH……そこにいる穂月のふりをしていた女だ。Hが穂月の記憶を持っているのは、穂月と親しかったから。穂月から聞いた情報を再現しているだけだ。穂月や俺と似ているのは、父さんを同じ父親として、母親も近しい存在だったからだろう」
透けるように白い肌は、いまだ興奮しているのか仄かな赤みをさしている。
蒼い瞳と、薄紅の白肌と、短い黒髪――。
涙をこぼし続ける彼女は、儚げで幻惑的だった。
当主がそんな彼女に手を伸ばした。
それは慰めなのか、艶めかしさに触れたくなったのか。
しかし彼女は当主の手を、パアアンと音をたてて払った。
それは、当主と愛し合っているふりが終焉したのだと、告げているかのようだ。
彼女は濡れた碧眼に、剥き出しの憎悪を宿して当主を威嚇する。
当主が思わず、怯んでしまうほどの。
それを見ていた穂積は悲痛げに目を伏せ、続けた。
「Hは母であるBとは違い、利発だった。父さんから性虐待を受けていたHは、真宮の中枢である奥の院に住まうために母親であるBを使って、奥の院の主である老衰状態のAを殺させた。そして父さん経由で河原崎を使い、Aの脳をBに移植することに失敗させ、Bを死亡させる。そしてAの脳をHの体に移植するという名目で、外部から脳外科医を招くが、実際移植は行われなかった。Hは移植に成功しAの記憶を取り戻したように振る舞って河原崎を騙し、奥の院の主に居座ってきた」
――オレだって殺され続けてきたんだから、オレを見殺しにしている奴らを殺したっていいじゃないか。虐げてきた男を愛しているフリをして、生きる場所を確保するのがそんなにいけないことか?
勿忘草色の瞳を持った、穂積や穂月と似た女性。
孤高というよりは、孤独に弱々しい。
虚勢を張っていきがっていただけで、心は成長しきれていないのかもしれない。
助けて、助けて、と声が聞こえるようだ。
香乃は昔、初めて穂積を見た時のことを思い出した。
どこまでも生を諦めた澱んだ目をしていた穂積。
花よりも先に散ってしまうそうな危うさを持っていた穂積。
……助けたくてたまらなかった。どんなに絶望的な環境であっても希望はあるのだと……信じさせたかった。
それはきっと自分が、恵まれたところで育ったからだろう。
真宮の外で、両親の愛を受けて生きてきたからだ――。
(もしわたしが座敷牢で生まれ、逃げても真宮の囲いの中だったら……)
どうしても香乃は、目の前の彼女を責める気にはなれなかった。彼女もまた、犠牲者だと思ったのだ。だから香乃は、きゅっと握った拳に力を込めた後、彼女の横に歩んだ。そして穂積のように無言で、震えるその手を握る。
「なにを……!」
振り払おうとしたその手を、香乃は離さなかった。彼女が求めた父や母のように、手を離してはいけないと思ったのだ。
自分と彼女との間には、穂積と河原崎のような信頼関係はないが、昔の穂積が心を開いてくれたように、ゼロから築けるものはあるはずだ。
少なくとも今、同じ女として寄り添いたいという心が彼女に伝わってくれれば――。
それが通じたのかどうかはわからない。やがて彼女は、抵抗をやめて俯いた。
繋いだ手から、細やかな震撼が伝わってくる。
……香乃は、迷い子の手を引いているような気がした。
生まれや育ちが酷ければ、誰かを犠牲にしたり、ひとを弄んでいいわけではない。
それでも香乃は思うのだ。
もし彼女が、せめて太陽の下に出ることが出来ていたら、なにかが変わっていたかもしれないと。
じめじめとした暗い牢から出ても、彼女には自由はなかったはずだ。
奥の院もまた、愛に狂った真宮の男達の……妄執の鳥籠だったのだから。
逃げても逃げても逃げきれない。彼女はどこまでも真宮に囚われた咎人なのだ。
それはある意味、彼女に与えられた宿業。罰である。
(それでも……彼女にも光をと思うのはいけないことなのだろうか)
「彼女は私のものだ!」
突如そう叫んで、香乃が握る手を引き剥がしにかかったのは――当主だった。
その目は血走り、少し前の……壊れる寸前の執事と同じ狂気を宿していた。
彼こそが、彼女を闇に引きずり込む元凶だと思った香乃は、意地でも彼女から手を離さなかった。
「ご当主。あなたがよく考えるべきことは、他にあるはずです!」
香乃は叫んだ。
手の甲には当主の爪が食い込み、肉が削がれそうだ。
それでもきっと、ここにいる皆が受けた傷よりは軽い。
そう想い香乃は歯を食いしばった。
「彼女との愛より大切なものなどない!」
「あります、よく見て下さい! 今ここにいるのは、あなたの娘、あなたの息子! その血に連なる者達です! 皆、家族なんです!」
抉られる痛みに声を上げる。手からは血が流れ、穂積が駆け寄ろうとした。
「来ないで! ご当主、この血の色が見えていますか!? わたし以上に、あなたの子供達はもっと大量の血を流し、痛みに泣いてきたんです。あなたはその子達にとって父親、子供は親を選ぶことが出来ないんです!」
「私だって、好きで子供を作ったわけではない。出来てしまったから仕方がなく生かしただけ。殺したわけでも遺棄したわけでもない。河原崎のように、切り刻んできたわけでもない。なぜ私を責める。なぜそんな目で私を見る!」
当主は叫ぶ。
「お前だって穂積を愛したのならわかるだろう。どれだけ愛する者と引き剥がされるのが辛いことか。自分の愛を否定されることがどんなに辛いものか!」
香乃の中でもやもやとしたものが、怒りとなって込み上げてくる。
「わかったように言わないで! 愛というものを口実にするのなら、私と穂積の幼かった愛をなぜ理解せずにあなたは壊したんですか。どんなに引き離されてもどんなに成長しても、初めましてから始めながらわたしは、何度も穂積を愛した。その愛を、あなたの愛と同じにしないで下さい。わたしにとって愛するひとはただひとり。穂積が死ぬならわたしも死ぬ。その覚悟があなたにはおありですか!」
僅かに当主の狂気の迸りが、静まった気がした。
「ひとりを想い続けたという点では、執事さんの方がよっぽど一途です。ただ彼は想い方を間違えた。してきた方法は非道だと糾弾されていい。……あなたはどうなんですか。泣いている子がいるのに、ご自分は非道なことは一切していないと言い切れますか!?」
当主からは言葉はない。だが、反省の色は見られない。
「今は彼女に夢中かもしれませんが、彼女だってやがて老いる。その時、別の碧眼少女が現れても、あなたは今ここにいる彼女だけを愛すると胸を張って言えますか!? 他の碧眼女には、一切手出しせず生涯彼女だけを愛し抜くと、今ここで彼女に誓えますか? 誰を泣かせても、禁じられている近親相姦を是として貫く気であるのなら、それだけの覚悟と愛の強さを証明して下さい!」
当主は彼女を見て……何も言わなかった。
彼女の体はもう、幼い少女ではないのを自覚しているからなのか。
「わたし達は、人間なんです、ご当主と同じく。人間は子供から成長して大人になり、老いて死ぬんです! そこからどうして目を背けるんですか。なぜ外見だけに愛を注ぐんですか。碧眼がなんだっていうんです。碧眼を持つ人間だって、傷つけられれば痛みを感じて血を流す。玩具なんかじゃない! 相手の気持ちに寄り添って大切にすることが、愛するってことじゃないんですか!?」
香乃の手からするりと当主の手が落ち、そして香乃が掴んでいた手が香乃の手を恐る恐る撫でる。
彼女は痛みがわかる、優しい子なのかもしれないと香乃は思った。
ならばその声を、闇に封じてはいけない――。
「あなたが虐げてきた彼女や穂積の声に、耳を傾けて下さい。それが親としての、いえ、ひととしての最低限の責務です。それが出来ないのならあなたは、犬畜生以下です!」
当主は項垂れるようにして動かなくなった。
香乃が肩で息を繰り返していた時、河原崎が穂積の背中をぽんと押した。
思い詰めたような顔をした穂積が香乃の横に立ち、香乃の手を握る。
「父さん」
覚悟を決めたような穂積の声。だが当主は顔を向けなかった。
穂積は僅かに悲痛な顔をして、続けた。
「……俺や穂月がいても。俺が、どれだけあなたに助けを求めていても、あなたはいつも背を向けていた。それは、穂月の方が可愛いからだと、穂月の方が跡取りに相応しいからだと、俺はずっと思ってきた。俺は穂月のスペアで、いつか死ななくてはならない。俺はあくまで穂月の影。あなたに見向きもされないのは、当然のことなのだろうと無理矢理納得して」
穂積の声が震えていた。
「あなたは、大切にしていたはずの穂月から抉り取った碧眼を無理矢理俺の目につけた。その瞬間から、俺は穂月の命も背負って生きてきた。穂月の代わりに次期当主となった今ですら、あなたから愛を向けられたことはない。その一方で穂月が無残な骸になった後も、あなたは穂月に似た女と関係を続けている。あなたは……穂月に対して痛める心はないのですか」
穂積の冷たい手をきゅっと香乃は握りしめた。
すると呼応するように、反対の手を彼女が握った。
裏方から真宮の表舞台に立つ穂積と、表に出られない彼女。
彼らは当主の血を受け継ぐ、兄と妹なのだ。
裏と表、どんなに対立しようとも、当主に虐げられ真宮に苦しんで来た兄妹なのだ。
穂積は、兄として妹の想いも代弁しているのだろう。
「あなたにとって、娘とは……息子とは一体なんなんですか。血が繋がっていようといまいと、年老いていない碧眼の女であればあなたは、そんなに簡単に愛を向けられる。それなのに俺はそんな簡単な愛すら、向けてくれなかった……」
穂積の蒼い瞳から、涙が零れる。
共鳴したように、彼女の蒼い瞳からも涙が落ちた。
ふたりは憎しみ合い、そして互いを羨み合う存在ではない。形を変え、今も尚、親の愛に飢えて苦しんでいた仲間なのだ。誰よりもその心をわかりあえるはず。
香乃は、ふたりの心が繋がればいいと思い、両手に力を込めた。
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