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6.ハイドランジアは、冷酷な美にその身を染める

睨んでいるもの

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 ◇◇◇

 結論が出ない推測が飛び交う中、時間は刻々と過ぎた。
 香乃は今日のところは一旦お開きにして牧瀬と圭子を先に帰し、香乃自身は総支配人室に残る。

 三人になれば隠すものはなく、ざっくばらんに話せるはずだが、簡単に続きを口に出来る話題でもなかった。

 重苦しく流れる空気。
 それを変えたのは、河原崎だった。

「はー。しかし、牧瀬サンはともかく、なんであの妖怪かっぱ娘を連れて来るよ! 顔まで見られたら俺、電話を切れば逃げられるという方法をとれなくなっちまったじゃねぇか。あのかっぱ娘、こっちが逃げようがなにしようが、地の果てまでやってくるぞ!」
「す、すみません……」

 それでもいがみ合いが薄れた最後には、打てば響く太鼓のような会話をしていたのではないか……とはあえて言わないでおく。
 河原崎を制したのは、腕組みをしている穂積である。

「ふぅん? 理人は、彼女に追われている立場なんだ? 恋愛的な意味ではないよな、理由は?」
「そ、それは……」

 圭子にどんな弱みを握られているのかは、穂積には言えないものらしい。

「まさか、名取川家の者に、真宮家の者が弱み握られて、いいように使われているとかいうわけじゃないよな?」
「あはははは、何を仰るウサギさん!」

(追い詰められても、〝うさぎ〟を出しちゃうんだ……)

 そして穂積もその動物がなにを意味するのかわかっており、ひくりと片頬を引き攣らせると、冷ややかに言った。

「……そうだよな、一応お前は俺の懐刀と呼ばれているし、主人は俺だものな? まさか他の奴の命令に従ってなどないよな?」
「モ、モチロンデスヨォ……」

(うん、河原崎支配人の上には穂積と圭子ちゃんがいるのは間違いなく、あとは彼と彼女のバトルで弱肉強食のピラミッドの頂点が決まるわね)

「まあ、彼女は名取川文乃の縁者だけあって、詳細を知らなくとも頭が回る、かなりの切れ者だ。テーゼアンチテーゼジンテーゼ……弁証法的な考えも見せながら、彼女の理論はそれに留まらず場合によって柔軟に形を変える。これは俺にとってはいい刺激だ。ありがとう、香乃、彼女を連れてきてくれて。そしてあなたの下に彼女がいるのなら、とても安心だ。色々と」

 穂積が安心する〝色々〟の内訳を聞いてみたい気がしたが、あまりに穂積が綺麗に微笑むため、香乃はへらりと笑って赤くなってしまった。
 するとそれを見た河原崎が、けっと悪態をつく。

「頼りねぇ下ですみませんねぇ! 俺の主は、本当に俺には辛辣だけど、愛しの彼女には甘いよな。いいもん、いいもん。りーくん、ホズぴょんに片想いでも頑張るもん。たとえホズぴょんが、発情期と繁殖期を満喫していても、真面目なりーくんは……」

 制する者がいなければ、河原崎の軽口はどこまでも続く。
 内線が鳴り始めても止まらない。

「……理人。電話が鳴っているぞ」

 河原崎の言葉のみ聞き流していた穂積が顎で電話を促すと、ようやく河原崎は止まった。

「ここは総支配人室だろう? お前の電話だろうが」
「お前の方が近い」

 にっこりと笑って威圧する穂積。
 舌打ちした河原崎が内線を取って応答する。

(支配人って、変なところ素直だよな……)

 電話を切った河原崎は、ため息をひとつついて穂積に言った。

「トラブルだ。俺が行ってくる。お前はここで、ちゃんと守ってやれよ?」
「言われなくてもわかっているから。……頼むな」
「了解」

 小さくなる河原崎の後ろ姿を見ながら、香乃は思った。

(守ってやれって……わたしのこと?)

 もしかして、牧瀬と圭子が去った後の河原崎と穂積のやりとりは、薄気味悪さをぶり返した香乃が怯えないように、気を遣って盛り上げてくれていたのだろうか。

(多分そうなんだろうな……。彼らはわたしが思っている以上に、気が回るひと達だから)

「香乃」

 名前を呼ばれて香乃が穂積を見ると、彼は僅かに顔を横に傾けて微笑んだ。

「隣に来て?」

 それは総支配人としての顔でも、河原崎の主人としての顔でもない。
 香乃だけに見せる、甘やかな顔だ。

 甘えっ子のような口調ながら、誘う表情は妖艶な大人の男のものだ。
 香乃は心臓を鷲掴まれた心地で、ふらふらと穂積の隣に座った。

「捕まえた」

 途端に穂積の両手が伸び、香乃は彼の胸の中に掻き抱かれた。

 ……勿忘草の香りが鼻腔に広がる。
 大好きな甘い香りが。
 身体も心も扇情する、蠱惑的な香りが。
 
 穂月に対する怯懦の心を掻き消すようにして、抑えていた穂積への恋心が膨れあがる。

 香乃は穂積の背に回した手に力を入れた。
 すると蕩けたような勿忘草の双眸が優しく細められ、香乃の頬に手が添えられる。

 熱情を炎のように揺らめかせる碧眼。
 穂積の火種が飛び移ったかのように、香乃の肌が熱にひりついた。

 言葉ないまま頬を撫でられた後、穂積の親指が香乃の唇に紅を引くように左右に撫でる。
 香乃が薄く唇を開くと、それを合図にして唇が重なり、口づけが深まっていく。

(ああ、身体が溶けてしまいそう)

 眩暈がするほど甘美で、奮えるほど官能的で。
 隠しきれない恋慕の渇望を露にしていく。

 唇が離れても視線は熱く絡み合い、再び引き寄せられるようにして口づけは繰り返される。
 気持ちを確認しあうような優しいキスは激しさを増し、貪るようなものへとなっていった。
 急くような息と声を漏らしながら、香乃が必死に穂積に応えていた時。

「……ごめん。がっつきすぎだ、俺」

 名残惜しそうに唇を離した穂積は、さらに力強く香乃を抱きしめると、香乃の額に唇をあてた。
 そしてやるせなさそうな息を吐いて呟く。

「昨日会っていたのに……会いたくてたまらなかった。ひとりで家で寝ていられなくて、またあなたのマンションに行ったんだ」
「え……。電話かチャイム鳴らしてくれれば……」
「部屋の電気が消えていたから、起こしたくなくて。だから休み返上してホテルに仕事に来た。俺……香乃がいつも傍にいないと、寂しくて死んでしまうかもしれない」

 穂積は香乃の頬に唇を押し当て、悩ましげな声で言った。

(寂しくて死んじゃうなんて……うさ……)

「……今、あのパジャマを思い出してるだろう」
「……ごめん」

 そしてふたりでくすくす笑ってしまった。

「あなたを思いきり抱けば、少しは募る想いが落ち着くかなと思ったけれど、まったく逆だ。あなたの味を知ってしまったために、中毒みたいになって頭がおかしくなりそう」
「……っ」
「香乃が好きでたまらない」

 耳元で囁かれる声に、香乃はふるりと震える。

「でも香乃は……牧瀬さんと楽しそうだったよね」

 穂積の声が僅かに拗ねたものになる。

「友達だし……」
「理人の電話で、あなたと牧瀬さんが待っていると聞いて、最悪なことも考えたのに」
「最悪?」
「やっぱり牧瀬さんの方がいいと言われるんじゃないかと」
「そんなはずない!」
「……じゃあ、今夜……あなたの家に行ってもいい?」
「……うん」

 ストレートなお誘いに、香乃の顔がぼんと赤くなった。

「ふふ、可愛い。香乃がいるだけで、俺……立ち向かっていけそうな気がする」
「……っ」
「たとえ、穂月を騙る奴が、俺から色々と奪っていっても、香乃だけは奪わせない」

 穂積も、正体不明な輩に奪われているという意識があるのだろう。

「真宮家には、秘密がありそうだね」
「ああ……。しかも父さん公認と来てる」

 穂積では開かない奥の院。
 そこにあるものがなにか、現当主はわかっているのだろうか。

「今さら、碧眼にしろ父さんの信任にしろ、俺から奪ったところでなにが変わるわけではない。それで穂月が生き返るならまだしも」
「……っ」
「俺は……穂月をいいように利用されるのがたまらなく嫌だ。死んでからも、道具のように扱われるなど。人間として、せめて穏やかな眠りにつかせてやりたいのに」

 手術室のことが思い浮かび、香乃は唇を噛んで、そこから視線をそらした。

 どんなに穂月に虐待されて、恨んでいても、穂積にとっては、穂月の人生を背負った瞬間から、私怨を超えて……穂月を突き放すことは出来なくなったのだろう。

 穂積にとって穂月は、穂積が永久に抱えなければならない己の罪の烙印なのだ。

 碧眼を受け取ると共にそれを刻まれ、そこから逃れることは出来なくなった。
 赦されることはなくなったのだ。
 祈るしか出来なくなったのだ。
 ……穂月の死を無駄にしないようにと。

「志帆さんは、誰に会っていたんだろうね。本家にいるのかしら」
「……わからない。ただ父さんが関わっているのなら、志帆はまだ無事だろう。だが時間の問題だ」
「……っ」
「奥の院に入る必要がある。なんとしてでも」

 穂積の翳った顔は険しい。

「……すべてを守る。俺は、泣いてばかりいた昔の俺じゃない」

 穂積はぎゅっと香乃を抱きしめた。



 ◇◇◇

 穂積が総支配人としての仕事が一段落つくまで、香乃はずっとホテルにいた。
 今日はエンジェル一葉は早帰りだったらしく、母親が生けた花を見廻っていた。

(我が母ながら、見事だわ)

 伝統美を重んじながらも、大胆な華やかさもある。
 これならば、華道家を名乗る志帆も舌を巻くだろう。

(真宮は華道に秀でた家なのかしら)

 ならばもう少し、優秀な血をちょっぴりとでも受け継いでいるはずの自分にも、センスが欲しかったと苦笑した。
 あくまで自分は凡庸の域を出ていない気がする。

 穂積とホテルを出たのは、午後十時を大きく回っていた。
 タクシーは香乃のマンションに向かう。
  
「本当にいいの、ホテルから出て来て」
「ああ、元々この時間帯は落ち着いているし、トラブル客も泊まっていないからね。朝方には戻るけれど」

 さりげなく指を絡ませ合い、手を握っている。

「……お休みの時に、ゆっくり来ればいいのに」
「休めると思って休めないこともある。その方がダメージ大きいから、いける時にはいきたい」

 ネオンが穂積の美しい顔を幻惑的に彩っている。
 彼と自宅に戻るなど、なにか夢の出来事のようにも思える。

 タクシーから降り立つと、穂積はあたりを見回して言った。
  
「なんだか感慨深いな。この前は招かざる客だったのに」
「ふふ、必死に帰ろうとしていたよね。ここでずっと待っていたのに」
「そういうつもりではなかったから」
「だったら、今はどういうつもり?」

 笑いながらエレベーターに乗ると、穂積が軽くキスをして笑う。

「どういうつもりだと思う?」

 途端に妖しいまでの色香を纏う。

 欲しい。
 このひとが欲しい。

「そういうつもりで、いいよ?」

 きゅっと穂積の服を摑んだ時にエレベーターの扉が開き、穂積は香乃の腰を引き寄せながら耳打ちする。

「またたくさん、蕩けた可愛い顔を見せて?」

 香乃は恥ずかしそうにこくりと頷き、廊下を歩く。
 家の前に着き、バッグから鍵を出そうとした香乃だったが、穂積が警戒に満ちた声を出す。

「待って。中に……誰かいる」
「え?」

 ……窓に明かりが漏れている。

 香乃を背後に立たせ、穂積が静かにドアノブを回すと、ドアが開く。
 
「鍵、閉めて出て来たのに……」

 穂積は唇に人差し指をたてる。
 中から物音がしたのだ。
 
 足音が、玄関に近づいている。

(なに、誰!?)

 そして現れたのは――。


「香乃、おかえ……」


 母親だった。
 顔を強張らせたまま固まっている。

「え、なんで母さんが……」

 そして香乃は言葉を失った。
 母の視線の先にいるのは、穂積だからだ。

 時刻は夜十一時少し前。
 そんな時間に、自分が部屋に連れ込もうとしていた男と母親が対峙している。

(なんでよりによってこのタイミングで……)

 ただの男ならまだしも、よりによって彼は――。

「夜分申し訳ありません。俺は……」

 穂積の言葉を遮り、母親はヒステリックに叫んだ。


「どうして、香乃と一緒なの、あなた!」


 決して許さない――そう語っているような母親の睥睨は、記憶の中の穂月のものと重なった。



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