63 / 102
6.ハイドランジアは、冷酷な美にその身を染める
日常にはなりえない不穏な棘
しおりを挟む
◇◇◇
週が変わり、MINOWAでは噂話が絶えずに、騒がしい。
「ねぇ、名取川さんと牧瀬課長ってそういう仲なの? だったら蓮見係長は?」
「あの〝こけし〟がセフレになれるんなら、私も全然イケるってことよね」
「牧瀬、俺は堂々と二股をかけられるお前を見直した!」
「いやいやよくわかりますよ。牧瀬課長はMっすもんね」
ミーティングルーム――。
牧瀬が机の上に突っ伏して、泣き言を吐いた。
「皆でよってたかって、傷心の俺になんという仕打ち……。俺、蓮見にふられて諦めたし二股でもなんでもねぇって必死に説明したのによ。そしたら俺はあまりのショックから、ドS女王様であるこけ嬢に飼育されるドMペットに成り果てたってよ。皆の目が哀れむと引くかの、どっちかなんだぜ?」
香乃は苦笑する。
――上手くいったんだろう?
僅かにでもぎこちなさを覚悟していた香乃に向けられた、開口一番の牧瀬の笑顔。
香乃はどれだけ救われただろう。
――よかったな。
その優しさにどれだけ泣きたくなっただろう。
やがて、牧瀬の笑顔が崩れていったのは、香乃とのことが直接的な原因ではなかった。
それは牧瀬と圭子に関する噂である。
「牧瀬、ほら……ひとの噂も七十五日って言うし」
「七十五日もこうなのかよ……」
牧瀬には悪いが、噂話のおかげで、牧瀬をふったことをぶり返さずに会話が出来ている。
「牧瀬課長。いちいち噂に反応して言い訳せず、殿方ならびしっとしていて下さいませ」
今日も圭子の髪は、一段と豊かな密林仕様。
彼女の口から出される言葉は、いつものように牧瀬には容赦ない。
「こけ嬢がびしっとしすぎなんだよ……」
金曜日、香乃が穂積の元へ向かった後、牧瀬と圭子は飲みに行ったようだ。
圭子なりの激励の意味を込めた飲み会。
その帰り牧瀬と圭子が、親密に身体を寄せ合ってふたりでタクシーに乗り込んだところを、運悪く複数の社員に目撃され、さらに撮られた動画が別の社員へと拡散された。
社員の何人かが、香乃にも動画つきのメールを送って寄越したが、香乃がどう見ても泥酔しすぎて意識がない牧瀬を、圭子が面倒臭そうに介抱してタクシーに押し込み、仕方がなく自分も乗り込んだ……というものにしか見えない。
そして真実、香乃の推測通りだったようだ。
「まったくいい迷惑ですわ。上司を介抱しただけで大騒ぎ。この会社には、暇人しかいないのでしょうか」
香乃は動じることもない圭子を見ながら、煎茶を啜った。
今日も圭子が香乃にも淹れてくれた煎茶は美味だ。
とても安売りしていたティーバッグで淹れたようには思えない。
茶道家の娘らしく、お茶をたててくれたかのような上品さと色艶がある。
「大体、営業職で酒豪を語っているのに、日本酒十合ぐらいで潰れるなんて、看板に偽りありですわ」
「こけ嬢、その前に焼酎とウイスキー、何本飲ませたよ」
「一方的に言わないで下さいまし。わたくしもちゃんと同じだけ飲んだではありませんか」
いつも嗜む程度にしか酒を飲まない圭子だが、酒豪の牧瀬に付き合った結果、泥酔して牧瀬にお持ち帰りされた……わけではなく、牧瀬が圭子に潰されたらしい。
介抱のためにタクシーに共に乗り込んだ圭子が、タクシーを走らせた先は――名取川分家、圭子の実家だったようだ。
「俺が目を覚ますと、三十畳くらいの和室の真ん中で、布団で寝てるんだぞ? しかも和装の男女が横にずらりと正座して待っている。何が起きたかって、ビビるだろう? 介抱ならもっとさ、ひととしてもっと……お前ならわかるだろう、蓮見!」
「ひどい仰り方。色々と迷惑を被ったわたくしが、放り捨てずに寝所まで提供しましたのに、なぜ課長が目覚めるまで傍にいないといけませんの? 万が一課長が病院行きになってもいいようにと、家の者が待機して控えていたことに、感謝して欲しいくらいですわ。そうお思いになりません、係長」
(どちらの肩も持てないというか、どちらの言い分もわかるというか……)
「さらによ、こけ嬢のおばさんという女性とばったり会っちまってよ、二日酔いでがんがんする頭抱えながら茶を飲まされて、三時間もよくわからん蘊蓄を聞く羽目になったんだぜ?」
圭子はマイ湯飲み茶碗に淹れた煎茶をずずっと啜った。
「おばさまのことを悪く言わないで下さいまし。おばさまは、名取川流茶道、現家元の母君。かなり気難しく、余程気に入った者にしか茶をたてないおばさまが直々に、腑抜け課長にわざわざ茶をたてて下さったことは、本当に奇跡的。僅かに言葉を交わしたくらいで、課長のどこがおばさまの興味を引いたのか、全くもってよくわかりませんが」
「ちょっと待て、こけ嬢。家元の母って今聞いたけど、あのうるさいおば……いや女性、本家の……名取川文乃、とか?」
牧瀬の問いに、圭子はこくりと頷く。
「ええ。週末には分家に顔を出して下さるんですの。わたくし、おばさまには可愛がって貰っていて。おばさま曰く、わたくしはおばさまの若い頃に似ているようで……」
圭子の嬉しそうな言葉を無視するように、牧瀬が引き攣った顔で香乃を見てこっそりと言う。
「名取川文乃って、お前も知ってるよな。財界や経済界のドンとタメを張れるという……」
「……聞いたコトがある。現代の女帝とか女傑とか言われているひとだよね」
「俺、てっきり分家の中でのこけ嬢の親族かと……。蓮見……俺、凄いコネ出来たわ。超出世するかも。やべぇな、これはきっと、俺に仕事一筋で生きろという啓示……」
牧瀬が目を輝かせた時、圭子が言った。
「一言申し上げておきますが、おばさまは縁故というものを利用する者は大嫌いなお方。少し茶をたててくれたくらいで、つけあがると……今度はわたくしではなく、おばさまに人生を潰されますわよ? ぷちりと」
親指と人差し指をくっつけ、口元を歪めさせて冷笑する圭子に、牧瀬も香乃も震え上がる。
「そ、そんなこと考えてねぇって! な?」
「そ、そうよ圭子ちゃん。牧瀬は正々堂々と勝負する奴だし」
「そうですか? それなら安心しました」
にこやかに茶を啜る圭子を見て、香乃と牧瀬は胸を撫で下ろす。
(名取川の分家のお嬢様だとは知っていたけれど、まさか大物の姪っ子ちゃんだったとは……。そっか、だから圭子ちゃんに小物感がないんだ……。本家で育っててもよかったのに)
きっと名家なりの複雑な事情があるのだろう。
(名家か……)
『すべてを奪うみーを許さない』
碧眼主義の真宮家において、本家の頂点に君臨する歪な純正。
昨日ホテルに届いた剃刀入りの手紙の主が誰かは、幾ら知恵を振り絞っても出るはずはなく。
なにより、死んだ人間からのメッセージが、破られたの手紙を伴い、今送られてきた理由が、誰にも説明出来なかった。
誰かが騙っているのだろう。
香乃が大学時代に真宮に手紙を渡したことを知り、そして入手出来る誰かが。
(きーくんが生きているはずはないもの)
――明日、志帆が展示会の打ち合わせのためにホテルに来る。だから問い詰めてみる。
午後一時に彼女は来るという。
時計を見れば、一時を三十分過ぎている。
穂積は彼女からなにかを聞けているだろうか。
そんなことを思いながら、香乃は牧瀬と圭子の背中を叩いて、『ファゲトミナート』の見積を再考する。
もっと多角的で生産的な提案を出来るよう、牧瀬と香乃が練ったプランを、圭子にあえて反駁して貰う。
表面的なものの見方では駄目だ。
自分の案に驕らず、自分が見えない欠点がどこにあるのか、それを埋めるためになにをすればいいのかを考えなくては。そのためには、圭子に容赦ないツッコミをして貰う必要があった。
討論に熱が入って時間は過ぎ、三時少し前に少し休憩を入れる。
「そういえば係長。『ファゲトミナート』のお花は、係長のお母様がまだご担当なさっているので?」
「ええ。毎朝行っているはずよ」
(そういえば、お花の件についても、母さんが真宮の出だったことや、彼を知っていることとか、昔のこととかも話してなかったわ)
穂積と付き合っていますと家に連れて行ったら、母はどうするだろう。
(絶対、大反対されることには間違いないわ……)
出来れば回避したいけれど、彼と未来を歩みたいと想い続ける限り、そこから逃げることは出来ない。もう逃げないと決めたのだから。
その時、香乃のスマホに電話がかかってくる。
画面の名前を見て顔を綻ばせた香乃を見て、牧瀬が呟く。
「あいつだな」
「そのようですわね」
牧瀬の面白くなさそうな舌打ちが聞こえる中、香乃はくるりと後ろを向いて応答する。
『香乃、仕事中にごめん』
電話を通した穂積の声は、実際のものより低く聞こえて、それも新鮮だ。
「構わないよ。どうかした?」
少し躊躇した後に、穂積の声が聞こえる。
『……志帆が来なくて。連絡してみたら、土曜の夜から家に戻っていないらしいんだ』
「え!?」
『牧瀬さんに電話をかけた方がいいか迷ったけれど、先に香乃にした。牧瀬さん、その後志帆と連絡取ったり、なにか知っていないかなと思って』
「ちょっと待って、今聞いてみる」
香乃は、牧瀬に問うた。
「牧瀬。志帆さんが土曜日の夜から戻ってないみたいなんだけれど、なにか聞いてる?」
「え、戻ってない? 特に聞いては……いや、変なメール来てたな」
「どんな!?」
牧瀬はスマホを弄る。
「ちょっと電話代わって」
香乃は頷いてスマホを渡す。
「牧瀬です。お世話になっております。あ、金曜はどうも。志帆さんですよね、金曜の夜にメールが来てまして。はい、気づくのが遅くて土曜の夜に返信だけはしたんですが、それに対してメールは来ていません」
牧瀬は言った。
「内容は、『ふたりを別れさせることが出来るかもしれない人間に会いに、本家の奥の院に行ってくる』って。だから俺、ふたりを認めるからとメールして……」
香乃は牧瀬からスマホを奪った。
「もしもし。奥の院って……真宮本家よね。そこに誰かがいるとか、あなた以外にそこに入れるひとがいるの?」
『奥の院に誰かいるなんて聞いたこともないし、入れるのは俺だけだ。この碧眼が鍵なんだから。もし仮に他に入れる奴がいたとしても、志帆とそいつが、直系である当主や俺の許可なく、簡単に本家に入り、さらに奥の院になど入れない。……とにかく、父さんと本家に確認をとってみるから、一度切る。牧瀬さんに礼を言っておいて欲しい』
「ええ」
香乃は電話を切り、牧瀬に礼を伝える。
牧瀬や圭子がなにかを話しかけてくるが、香乃の耳には届かなかった。
(奥の院に出入り出来るもの……)
『すべてを奪うみーを許さない』
(違うわ。きーくんはもう、扉を開ける碧眼を無くしたのよ)
虹彩の認証をしているのだから、扉を開けることは物理的に不可能だ。
それに志帆が奥の院に行こうとして、途中で誰かに会うなり、どこかに寄った可能性だってある。
『すべてを奪うみーを許さない』
それなのになぜか、穂月の存在が消えない。
胸の奥に棘が刺さったかのように、ちくりちくりと痛みを感じるのだ。
まるで穂月が、自分を忘れるなと言っているように。
週が変わり、MINOWAでは噂話が絶えずに、騒がしい。
「ねぇ、名取川さんと牧瀬課長ってそういう仲なの? だったら蓮見係長は?」
「あの〝こけし〟がセフレになれるんなら、私も全然イケるってことよね」
「牧瀬、俺は堂々と二股をかけられるお前を見直した!」
「いやいやよくわかりますよ。牧瀬課長はMっすもんね」
ミーティングルーム――。
牧瀬が机の上に突っ伏して、泣き言を吐いた。
「皆でよってたかって、傷心の俺になんという仕打ち……。俺、蓮見にふられて諦めたし二股でもなんでもねぇって必死に説明したのによ。そしたら俺はあまりのショックから、ドS女王様であるこけ嬢に飼育されるドMペットに成り果てたってよ。皆の目が哀れむと引くかの、どっちかなんだぜ?」
香乃は苦笑する。
――上手くいったんだろう?
僅かにでもぎこちなさを覚悟していた香乃に向けられた、開口一番の牧瀬の笑顔。
香乃はどれだけ救われただろう。
――よかったな。
その優しさにどれだけ泣きたくなっただろう。
やがて、牧瀬の笑顔が崩れていったのは、香乃とのことが直接的な原因ではなかった。
それは牧瀬と圭子に関する噂である。
「牧瀬、ほら……ひとの噂も七十五日って言うし」
「七十五日もこうなのかよ……」
牧瀬には悪いが、噂話のおかげで、牧瀬をふったことをぶり返さずに会話が出来ている。
「牧瀬課長。いちいち噂に反応して言い訳せず、殿方ならびしっとしていて下さいませ」
今日も圭子の髪は、一段と豊かな密林仕様。
彼女の口から出される言葉は、いつものように牧瀬には容赦ない。
「こけ嬢がびしっとしすぎなんだよ……」
金曜日、香乃が穂積の元へ向かった後、牧瀬と圭子は飲みに行ったようだ。
圭子なりの激励の意味を込めた飲み会。
その帰り牧瀬と圭子が、親密に身体を寄せ合ってふたりでタクシーに乗り込んだところを、運悪く複数の社員に目撃され、さらに撮られた動画が別の社員へと拡散された。
社員の何人かが、香乃にも動画つきのメールを送って寄越したが、香乃がどう見ても泥酔しすぎて意識がない牧瀬を、圭子が面倒臭そうに介抱してタクシーに押し込み、仕方がなく自分も乗り込んだ……というものにしか見えない。
そして真実、香乃の推測通りだったようだ。
「まったくいい迷惑ですわ。上司を介抱しただけで大騒ぎ。この会社には、暇人しかいないのでしょうか」
香乃は動じることもない圭子を見ながら、煎茶を啜った。
今日も圭子が香乃にも淹れてくれた煎茶は美味だ。
とても安売りしていたティーバッグで淹れたようには思えない。
茶道家の娘らしく、お茶をたててくれたかのような上品さと色艶がある。
「大体、営業職で酒豪を語っているのに、日本酒十合ぐらいで潰れるなんて、看板に偽りありですわ」
「こけ嬢、その前に焼酎とウイスキー、何本飲ませたよ」
「一方的に言わないで下さいまし。わたくしもちゃんと同じだけ飲んだではありませんか」
いつも嗜む程度にしか酒を飲まない圭子だが、酒豪の牧瀬に付き合った結果、泥酔して牧瀬にお持ち帰りされた……わけではなく、牧瀬が圭子に潰されたらしい。
介抱のためにタクシーに共に乗り込んだ圭子が、タクシーを走らせた先は――名取川分家、圭子の実家だったようだ。
「俺が目を覚ますと、三十畳くらいの和室の真ん中で、布団で寝てるんだぞ? しかも和装の男女が横にずらりと正座して待っている。何が起きたかって、ビビるだろう? 介抱ならもっとさ、ひととしてもっと……お前ならわかるだろう、蓮見!」
「ひどい仰り方。色々と迷惑を被ったわたくしが、放り捨てずに寝所まで提供しましたのに、なぜ課長が目覚めるまで傍にいないといけませんの? 万が一課長が病院行きになってもいいようにと、家の者が待機して控えていたことに、感謝して欲しいくらいですわ。そうお思いになりません、係長」
(どちらの肩も持てないというか、どちらの言い分もわかるというか……)
「さらによ、こけ嬢のおばさんという女性とばったり会っちまってよ、二日酔いでがんがんする頭抱えながら茶を飲まされて、三時間もよくわからん蘊蓄を聞く羽目になったんだぜ?」
圭子はマイ湯飲み茶碗に淹れた煎茶をずずっと啜った。
「おばさまのことを悪く言わないで下さいまし。おばさまは、名取川流茶道、現家元の母君。かなり気難しく、余程気に入った者にしか茶をたてないおばさまが直々に、腑抜け課長にわざわざ茶をたてて下さったことは、本当に奇跡的。僅かに言葉を交わしたくらいで、課長のどこがおばさまの興味を引いたのか、全くもってよくわかりませんが」
「ちょっと待て、こけ嬢。家元の母って今聞いたけど、あのうるさいおば……いや女性、本家の……名取川文乃、とか?」
牧瀬の問いに、圭子はこくりと頷く。
「ええ。週末には分家に顔を出して下さるんですの。わたくし、おばさまには可愛がって貰っていて。おばさま曰く、わたくしはおばさまの若い頃に似ているようで……」
圭子の嬉しそうな言葉を無視するように、牧瀬が引き攣った顔で香乃を見てこっそりと言う。
「名取川文乃って、お前も知ってるよな。財界や経済界のドンとタメを張れるという……」
「……聞いたコトがある。現代の女帝とか女傑とか言われているひとだよね」
「俺、てっきり分家の中でのこけ嬢の親族かと……。蓮見……俺、凄いコネ出来たわ。超出世するかも。やべぇな、これはきっと、俺に仕事一筋で生きろという啓示……」
牧瀬が目を輝かせた時、圭子が言った。
「一言申し上げておきますが、おばさまは縁故というものを利用する者は大嫌いなお方。少し茶をたててくれたくらいで、つけあがると……今度はわたくしではなく、おばさまに人生を潰されますわよ? ぷちりと」
親指と人差し指をくっつけ、口元を歪めさせて冷笑する圭子に、牧瀬も香乃も震え上がる。
「そ、そんなこと考えてねぇって! な?」
「そ、そうよ圭子ちゃん。牧瀬は正々堂々と勝負する奴だし」
「そうですか? それなら安心しました」
にこやかに茶を啜る圭子を見て、香乃と牧瀬は胸を撫で下ろす。
(名取川の分家のお嬢様だとは知っていたけれど、まさか大物の姪っ子ちゃんだったとは……。そっか、だから圭子ちゃんに小物感がないんだ……。本家で育っててもよかったのに)
きっと名家なりの複雑な事情があるのだろう。
(名家か……)
『すべてを奪うみーを許さない』
碧眼主義の真宮家において、本家の頂点に君臨する歪な純正。
昨日ホテルに届いた剃刀入りの手紙の主が誰かは、幾ら知恵を振り絞っても出るはずはなく。
なにより、死んだ人間からのメッセージが、破られたの手紙を伴い、今送られてきた理由が、誰にも説明出来なかった。
誰かが騙っているのだろう。
香乃が大学時代に真宮に手紙を渡したことを知り、そして入手出来る誰かが。
(きーくんが生きているはずはないもの)
――明日、志帆が展示会の打ち合わせのためにホテルに来る。だから問い詰めてみる。
午後一時に彼女は来るという。
時計を見れば、一時を三十分過ぎている。
穂積は彼女からなにかを聞けているだろうか。
そんなことを思いながら、香乃は牧瀬と圭子の背中を叩いて、『ファゲトミナート』の見積を再考する。
もっと多角的で生産的な提案を出来るよう、牧瀬と香乃が練ったプランを、圭子にあえて反駁して貰う。
表面的なものの見方では駄目だ。
自分の案に驕らず、自分が見えない欠点がどこにあるのか、それを埋めるためになにをすればいいのかを考えなくては。そのためには、圭子に容赦ないツッコミをして貰う必要があった。
討論に熱が入って時間は過ぎ、三時少し前に少し休憩を入れる。
「そういえば係長。『ファゲトミナート』のお花は、係長のお母様がまだご担当なさっているので?」
「ええ。毎朝行っているはずよ」
(そういえば、お花の件についても、母さんが真宮の出だったことや、彼を知っていることとか、昔のこととかも話してなかったわ)
穂積と付き合っていますと家に連れて行ったら、母はどうするだろう。
(絶対、大反対されることには間違いないわ……)
出来れば回避したいけれど、彼と未来を歩みたいと想い続ける限り、そこから逃げることは出来ない。もう逃げないと決めたのだから。
その時、香乃のスマホに電話がかかってくる。
画面の名前を見て顔を綻ばせた香乃を見て、牧瀬が呟く。
「あいつだな」
「そのようですわね」
牧瀬の面白くなさそうな舌打ちが聞こえる中、香乃はくるりと後ろを向いて応答する。
『香乃、仕事中にごめん』
電話を通した穂積の声は、実際のものより低く聞こえて、それも新鮮だ。
「構わないよ。どうかした?」
少し躊躇した後に、穂積の声が聞こえる。
『……志帆が来なくて。連絡してみたら、土曜の夜から家に戻っていないらしいんだ』
「え!?」
『牧瀬さんに電話をかけた方がいいか迷ったけれど、先に香乃にした。牧瀬さん、その後志帆と連絡取ったり、なにか知っていないかなと思って』
「ちょっと待って、今聞いてみる」
香乃は、牧瀬に問うた。
「牧瀬。志帆さんが土曜日の夜から戻ってないみたいなんだけれど、なにか聞いてる?」
「え、戻ってない? 特に聞いては……いや、変なメール来てたな」
「どんな!?」
牧瀬はスマホを弄る。
「ちょっと電話代わって」
香乃は頷いてスマホを渡す。
「牧瀬です。お世話になっております。あ、金曜はどうも。志帆さんですよね、金曜の夜にメールが来てまして。はい、気づくのが遅くて土曜の夜に返信だけはしたんですが、それに対してメールは来ていません」
牧瀬は言った。
「内容は、『ふたりを別れさせることが出来るかもしれない人間に会いに、本家の奥の院に行ってくる』って。だから俺、ふたりを認めるからとメールして……」
香乃は牧瀬からスマホを奪った。
「もしもし。奥の院って……真宮本家よね。そこに誰かがいるとか、あなた以外にそこに入れるひとがいるの?」
『奥の院に誰かいるなんて聞いたこともないし、入れるのは俺だけだ。この碧眼が鍵なんだから。もし仮に他に入れる奴がいたとしても、志帆とそいつが、直系である当主や俺の許可なく、簡単に本家に入り、さらに奥の院になど入れない。……とにかく、父さんと本家に確認をとってみるから、一度切る。牧瀬さんに礼を言っておいて欲しい』
「ええ」
香乃は電話を切り、牧瀬に礼を伝える。
牧瀬や圭子がなにかを話しかけてくるが、香乃の耳には届かなかった。
(奥の院に出入り出来るもの……)
『すべてを奪うみーを許さない』
(違うわ。きーくんはもう、扉を開ける碧眼を無くしたのよ)
虹彩の認証をしているのだから、扉を開けることは物理的に不可能だ。
それに志帆が奥の院に行こうとして、途中で誰かに会うなり、どこかに寄った可能性だってある。
『すべてを奪うみーを許さない』
それなのになぜか、穂月の存在が消えない。
胸の奥に棘が刺さったかのように、ちくりちくりと痛みを感じるのだ。
まるで穂月が、自分を忘れるなと言っているように。
0
お気に入りに追加
722
あなたにおすすめの小説
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
竜人のつがいへの執着は次元の壁を越える
たま
恋愛
次元を超えつがいに恋焦がれるストーカー竜人リュートさんと、うっかりリュートのいる異世界へ落っこちた女子高生結の絆されストーリー
その後、ふとした喧嘩らか、自分達が壮大な計画の歯車の1つだったことを知る。
そして今、最後の歯車はまずは世界の幸せの為に動く!
寡黙な彼は欲望を我慢している
山吹花月
恋愛
近頃態度がそっけない彼。
夜の触れ合いも淡白になった。
彼の態度の変化に浮気を疑うが、原因は真逆だったことを打ち明けられる。
「お前が可愛すぎて、抑えられないんだ」
すれ違い破局危機からの仲直りいちゃ甘らぶえっち。
◇ムーンライトノベルズ様へも掲載しております。
Catch hold of your Love
天野斜己
恋愛
入社してからずっと片思いしていた男性(ひと)には、彼にお似合いの婚約者がいらっしゃる。あたしもそろそろ不毛な片思いから卒業して、親戚のオバサマの勧めるお見合いなんぞしてみようかな、うん、そうしよう。
決心して、お見合いに臨もうとしていた矢先。
当の上司から、よりにもよって職場で押し倒された。
なぜだ!?
あの美しいオジョーサマは、どーするの!?
※2016年01月08日 完結済。
同期の御曹司様は浮気がお嫌い
秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!?
不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。
「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」
強引に同居が始まって甘やかされています。
人生ボロボロOL × 財閥御曹司
甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。
「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」
表紙イラスト
ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる