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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える

捨てないで

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 ゴホンゴホンというわざとらしい咳払いが聞こえた。
 泣いていた香乃はびくりと肩を震わせ、そして真宮はそれが誰だかわかっているかのような舌打ちをする。

「えー、総支配人総支配人。いいところをお邪魔して申し訳ありませんが、本日難関の業務が滞っています。それと総支配人に頼まれていた特急クリーニング最上客用フルコースがぱしっと出来上がりましたが、どういたしましょう」

 ……河原崎の声であった。
 香乃は慌てて涙を拭い、パンパンと頬を叩く。
 いつからいたのだろうか。

「支配人。私が取りに行くと言ったのに、わざわざ届けて下さりありがとうございます」

 どこか不機嫌そうな棘ある声で礼を言った真宮に、河原崎がにやにやとした顔でポンポンと真宮の肩を叩く。その姿は友達のように親しげだ。

「総支配人、あとは私が引き受けます。あなたは仕事にお戻りを。蓮見さん、素敵です! さすがは総支配人が、勿忘草色を纏うあなたをイメージして……」

 真宮は無表情のままで河原崎の口を手で塞ぐと、河原崎になにやら耳打ちをする。
 すると河原崎が頷き、真宮の手が離れた途端、河原崎は大きな声で言った。

「オーケーオーケー、大丈夫ですって。蓮見さんには手を出しませんから! 我慢がきかなかった、お子ちゃまなあなたじゃあるまいし」

 真宮から殺気が飛んだ――と香乃が思った瞬間、真宮は河原崎を足払いをした。体勢を崩した河原崎の手を背後で捻り上げ、真宮は冷たい笑顔で河原崎に言う。

「……私の期待を背くことがない、丁寧で真摯な対応をよろしくお願いします。河原崎支配人」

 恐ろしく低い声で圧をかけた後、真宮は河原崎から手を離すと、どさりと床に河原崎が崩れた。
 そして真宮は固まっている香乃に蕩けるような笑みを見せて会釈し、出て行った。

「おーいててててて」
「だ、大丈夫ですか、支配人」
「はははは。いつものことですよ」

 笑いながらも河原崎は、腕を摩っている。

「いつもの……こと?」
「ええ。昔は私が総支配人に体術を教えていました。それが今ではご覧の通り、完全に追い抜かされてしまいまして。気を抜いていると骨の一本や二本は覚悟しないといけないことになる」
「……ええと、ホテル業務にそういったものは必要なんですか?」
「まあ、色々な客が来ますので、護身術として役には立ちます。ですが彼は、真宮の御曹司ですから。あれくらい出来ねば、今頃誘拐犯によって海の藻屑となっています」

 河原崎は、物騒なことを実にさらりと言った。
 その内容を追及することは怖いからやめ、香乃は真宮のことをよく知っているような河原崎に聞いてみた。

「……支配人は総支配人の古くからのお付き合いで? 幼馴染み、とか?」
「幼馴染みなんていうもんじゃないです。河原崎家は代々真宮に仕える家系でして。総支配人が小さい頃は私達と家族同然に育ち、一時、彼は私と同じ姓を名乗っていたりした間柄です」
「同じ姓……」

 香乃の心臓がどくんと脈打った。

「あ、ご存知なかったんですね? はい、河原崎穂積と名乗り、それで今は真宮姓に戻ったんです」

 カワラザキホズミ――。
 〝キ〟……を持つ、碧眼黒髪の少年。

(まさか、そんなはずない。馬鹿なことを……)

「あの、支配人」
「はい?」
「総支配人の瞳の色ですが」
「はい」
「カラコン、とかはありませんよね?」

 すると河原崎は笑った。

「ありません。真宮の血は特殊でして、たまにああいった日本人離れした色合いの子供が生まれてくるそうです。中でも碧眼は不思議な特徴があるらしく、正当なる跡継ぎの証とされています。虹彩認証装置なんかも真宮家の奥の院にはあって、生まれついた時に認識をさせるので、本人のふりをしたカラコンでは騙せない。ちなみに父上君は碧眼ではありません。奥の院に入れた前代は、今から五代前だと言います」
「そう、ですか」
「私としては色々と突っ込みどころはあるんですけれど。五代前と言ったら百年以上も昔。そんな時代に虹彩認識装置を作る技術なんて日本にあるわけないでしょう。なのにいつにできたのか、おかしな機械が後生大事にされてきているんですよね」

 香乃は押し黙る。
 夢を信じるのなら、勿忘草を纏った黒髪碧眼の〝きーくん〟は死んでしまった。
 しかし現実には、黒髪碧眼の真宮は存在している。
 同じはずがない。
 なにより夢の中の少年は傲慢だった。
 真宮は違う。
 
「あの蓮見さん」
「は、はい」
「着替えませんか? その……目のやり場に困るというか」

 河原崎の視線を追うと、香乃のスカートが捲れたままだった。
 香乃は悲鳴を上げてスカートを下ろし、クリーニングされた自分の服に着替えた。

「……まるで新品のようだわ。いや、もしかすると買った時よりも綺麗かもしれない」

 スーツは糊が利いて光沢があり、ブラウスは純白。
 本当に自分のものか疑わしくなるくらいだ。

 そんなスーツを着ながら、香乃は河原崎に懇願して、リネン室を含めてモップ掃除をやり遂げた。
 非常階段も磨こうとすると、真宮に殺されると止められ、では掃除以外の仕事をくれと頼むと、河原崎はロビーに香乃を連れた。

 一葉が見えるフロントからすこし離れた位置に立ち、フロントで忙しく動き回り、客に対応している真宮を見た。
 あれだけ真宮が動いているのに、手伝う従業人はおらず。
 いや、フロントから飛び出した一葉が、老人の客の荷物を持ち部屋に案内している。

「……支配人、申し訳ありません。わたしがいなければ、支配人も駆けつけて、総支配人や設楽さんのように応対なされていたでしょうに。わたしはいいので、お仕事を……」
「……あなたに見て頂くのが、総支配人から言われた、今の私の仕事です。フロントだけではなく、裏側の広報や総務も同じ状況です」

 客のためににこやかに頭を下げている真宮を眺める。
 いつでも彼は笑みを絶やさない。

 彼はきっと部下を正さない。
 そして彼は部下に代わって、ああやって頭を下げ続けるのだろう。

「支配人。どんな志があろうとも、なにもしない従業員の前で頭を下げるのは屈辱にはならないのでしょうか。仕事だと割り切れるものなのでしょうか」

 それは総支配人としてではなく、真宮個人に対して芽生えた、香乃の〝興味〟でもあった。

「ふふ、あなたも今日、真宮に頭を下げていたのでは?」
「そ、それは……。不特定多数にという意味です。仮にも真宮HDの後継者であり、ひとから頭を下げられることになれているだろう彼が、どんな客にも笑みを浮かべて、頭を下げないといけない。きちんとしたサービスをしない従業員を庇うように、なぜホテルの責任者である彼が軽々しく頭を下げられるのでしょうか。なぜ仕事をしろと、部下を叱らないのですか? わたしが上司であるのなら、怒っています。自分をなめるな、いい加減にしろと」

 すると河原崎は笑った。

「上からの力で部下を抑えつけたところで、恐怖から逃れようと部下は離反をくり返す。真宮が求めているのは一次的な支配ではありません。建前だけの服従は、必要としていない。むしろ彼は切り捨てる」

――もしかすると、なにも言わずに見て見ぬふりをすることで、見極めているのではと。

 不意に一葉の言葉が思い出された。

 香乃が思っている以上に、真宮は信念に則って動いているということか。
 同じ上司として、ますます興味が出てくる。

「わたしの勝手なイメージで恐縮ですが、総支配人というものは、ホテルの中をうろうろして、トラブルがあれば顔を出すくらいで、下々のことは従業員に命令している……そんなイメージがあります。総支配人が嫌な思いをしながら、下々に命令を下さないのは……、今後共にやって行く仲間として、平和的に解決したいというのが理由なのでしょうか」

 香乃はわざと、生温い方法をとっているのかと尋ねてみる。
 すると河原崎は皮肉気に笑った。

「あなたの中の総支配人像は、随分と気楽で無能そうですね。仲良しこよしでやっていくために、部下の振るまいに目を瞑っているというのならば、真宮だけではなく私も、相当気弱で節穴の目をしていると思われていることでしょう」

 つまり真宮も河原崎も、そうではないのだ。
 彼らはわざと、そうしている。

「設楽さんが仰ってました。総支配人が従業員に見て見ぬふりをするのは、意味があるのだろうと。彼は無能などではなく、傍に置きたいもの、捨てたいものを見極めているのだろうと」
「ほう?」
「そして彼女は、ホテルをガタガタにした前総支配人を厭い、総支配人に期待をかけて『ファゲトミナート』の利用客が笑顔になって貰えるようにと、総支配人の背を追い、頑張っています」

 河原崎は優しい眼差しで、一葉を見つめていた。
 特に驚いた様子がないのは、それは既にわかっているからなのか。
 
「蓮見さんは、真宮のことを無能だと思わないのですか? 好き勝手している従業員を野放しにしているのは、統率者としての能力のなさの現れだと。所詮はボンボンの道楽、ホテル業を甘く見ているだけの若造だと」
「思いません」

 香乃は真宮を冷静に見つめながら、断言した。
 九年も遊び人と思ってきたのに、軽々しく仕事をするような男には思えなかった。
 
「では蓮見さんは、どう思われますか?」
「総支配人は、彼の意思を読み解けるような人材を求めている……そんな気がします。それは河原崎支配人や、設楽さんのように」
「ほう」
「言われないとしない人材ではなく、言われなくても状況を読んで動ける人材を。……恐らく、このホテルに欠けているのは、そうした自発的な意識と判断力を持つ人材。そして総支配人は待っている」

――耐久性があるように見せかけて、ある日突然、裁きの雷を落としそうな、そんな気すらします。

「来るべき日までに、覚醒をする従業員を。その猶予を与えるため、あえてなにも言わない。情け容赦なく、彼らを断罪する日まで」

 河原崎は口元を吊り上げて笑う。

「そうだとしたら……蓮見さんは、彼が怖いですか?」

 一葉は、真宮を怖いと言った。

「……怖いです。ですが、さすがだなと思います」
「さすが?」
「はい。さすがは真宮HDの御曹司にふさわしいと」
「ほう」
「効率よい大量の首切りをするためには基準が必要。その基準をご自分の好き嫌いの価値観とせず、あくまで彼らの自由意思に任せた。そこにはきっと、絶大なる忠誠心が試されている。そして猶予を与えられたのはきっと、温情から出たわけではない」
「……ではなんだと?」

 今度は香乃が唇を引き結び、そして言った。

「すみません。それ以上はわかりかねます」
「はははははは」
 
 河原崎は笑った。
 それは愉快そうに。

「面白いことをいう蓮見さんに、ひとついいことをお教えしましょう。10パーセントの力も出していない従業員に、彼が求めているのは100パーセントの力ではない。200パーセントの力だ。それが出るためなら、彼は自らをも犠牲にする覚悟はある」
「……っ」
「私はね、ぞくぞくするんですよ、真宮を見ていると。彼が耐えた先にしようとしているものがなにか。なにのために彼が耐え忍んでいるのか。彼が自らの意志でやろうとした時に、どんな革命が起きるのか。彼は、だてに真宮の血を引いていない。真宮をも大革命を引き起こすだけの大きな男だと、思っています」

 香乃は、河原崎が思い描いているものを少し理解出来た気がした。
 彼はきっと――女遊びをするとかしないとか、そんなレベルを超えたところにいる男なのだろう。
 自分などが把握出来るような小さな男ではなく、ホテルの頂点に留まるだけの男なのではない
 ……世界が違うと、悲しくなるほどに。

「ただね蓮見さん。これだけは言っておきます。真宮があなたに見せる顔は、他のどの女にも見せたことがない。今までどんな執着をも見せず、嘘と偽りの世界で我慢ばかりしてきた男が、唯一あなただけを必死に真剣に求めている。それを嘘にだけはしないでやって欲しい」
「……はい」
「誰を選ぶのかはあなたの自由だ。あなたもあなたなりに思うところはあるかもしれない。が、あいつは、穂積は……いつもは器用なくせに、あんたには真面目すぎて不器用な堅物になる。あんたを想って、まだ童貞だしな」
「……はい。え?」
「女を知らねぇよ、あいつ。あんた以外にまるで興味がないから。商売女や男はおろか、恋人も作ろうともしねぇ。どこで抜いてるのかねぇ……」
「いや、いやいやいや……」

(だって、図書館でわたし……。それよりあのスペックでそれは……)

「穂積が女慣れしていたなら、あんたはもうとっくの昔に食われてたぞ? 童貞だから余計あんなにちんたらしてんだ、わからなかったのか?」
「そ、それは……」

(ど、どう反応すればいいの……)

「あんたが応えないと、穂積はあのスペックで死ぬまで女知らねぇんだぞ。可哀想だと思わねぇか?」
「で、でも結婚相手とか……」
「は! あの頑固者が他の女と結婚するかよ。仮にあんたの命がかかって結婚しなければいけなくなっても、その女に舐められたところで勃つこともないだろうさ」
「勃……!」

(さっきは硬かった気が……って、そこじゃないそこじゃない!)

 河原崎の素は、かなり砕けているらしい。
 薄々感じていたものの、理知的な顔立ちなのに出てくる言葉にかなりギャップがある。

「それは、穂積の目付役の俺としても避けたいわけよ。だからあんたに頼むわ、穂積を男にしてやってくれ。魔法使いにだけはさせないでくれ」
 
(魔法使いって……三十歳まで童貞だったら魔法使いになれる、っていう俗信?)

「た、頼まれてもですね」
「あんた、穂積に触られても濡れねぇの?」
「濡……!!」

 香乃がストレートな河原崎にたじたじになった時だった。
 玄関から随分と派手なご一行様が入って来たのは。
 遠目だが、先頭を歩くのは、赤い振り袖姿の日本人形のような女性だ。

(圭子ちゃんを和装させて、隣におきたい)

 その後ろには、サングラスをかけた黒服の男がぞろりと控え、違和感あることに彼らは花を持っている。

(なんで花!? 彼女に求愛とか!?)

 そして――。
 先日香乃が生け替えた花瓶の前に立ち止まった着物姿の女性は、ホテル利用客も見ている中、苛立ったように生けられた花をぽんぽんと床に投げ捨て始めた。

(な、なにを……)

 女性の声が響いた。

「これ、誰か弄りましたね。私、こんな安っぽい生け方をしていないし、こんな生きの悪い花をまだ飾っているなんて! 捨てておしまい」

(す、捨てるって……まだ元気じゃないの!)

 河原崎が舌打ちをして、香乃に言う。

「厄介な奴が来た。いいか、あんたは関係ないから。いいな、関係ないからここにいろ」
「は、はい」
 
 そして河原崎がツカツカとその集団に歩み、そして真宮も集団に向けて歩いていく。
 VIPなのだろうか。

 女性の後ろでは、ゴミ袋を広げた黒服が捨てられた花を始末している。

(カビの生えたドライフラワーじゃないのに、まだ萎れていないお花をなんだと……)

 膨らんだゴミ袋は、ホテルの外にあるゴミ捨て場に捨てられるのだろう。
 ホテルを出ようとした黒服を追いかけて、香乃は走った。
 そして自動ドアを出たところで、香乃は黒服に声をかける。

「すみません。まだ使えるお花なので、わたしに頂けないでしょうか」
「……ゴミを?」
「ゴミではないです! 水揚げすれば、まだひとの目を楽しませてくれます!」

 ついつい声を荒げて、ゴミ袋を奪い取ってしまった。

「――蓮見?」

 聞き慣れた声に顔を上げれば、牧瀬が怪訝な顔をして立っている。
 まだ二時前なのに、牧瀬はホテルにやって来たらしい。

「お前なにやってるんだよ、こんなところで」
「それは、後で話すわ。いいですね、これはわたしが貰います!」

 香乃は黒服にそう言うと、牧瀬と共にホテルに入っていく。
 河原崎と真宮の姿が、香乃と共にいる牧瀬に注がれ、牧瀬はなにか強張った顔をして頭を下げる。
 
 大きな花瓶には、高級そうな花が活けられていた。
 花言葉も無視された、上辺だけで選ばれた華々しい花が香乃を見つめている。

 背を向けて花を生けている女性が、大輪のバラをぽいっと投げ捨てた。
 それは少し萎れている。

 香乃は追いかけて、そのバラを手にした。
 無性に泣きたい心地になる。

 河原崎が離れろとジェスチャーをして、真宮がなにか言いたげに香乃を見て。
 事態を把握出来ない牧瀬が訝しげに見守っている。
 香乃はバラを手にしたまま、後ろから女性に声をかけた。

「申し訳ありません。せめてこのバラ、元気にしてから使ってあげて下さいませんか? 今、火で炙りますので」

 女性はゆっくりとこちらを振り返る。

「花を火で炙る? 燃やすつもりなの、あなた」

 その顔に、香乃の心臓に杭を打ち込まれたかのような衝撃を感じた。

――あなたが、四年の蓮見さんですか? 私は大学一年のマミヤって言います。

 ……九年前、勿忘草の手紙を破った彼女が、今ここにいた。
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