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2.リナリアは、この恋に気づいて欲しいと訴える

仮初めの恋人

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 そんな否定的な香乃の様子を感じ取ったらしい牧瀬は、苦笑しながら言った。

「蓮見。まだなにも始めてもいねぇうちに、俺の本気を却下されたくない。俺も腹くくるんだから、お前も腹くくって俺を男と意識してみせろよ」
「そ、そんなこと言ったって……」
「だからさ。まずは一週間。お試しで付き合って。それでお前が嫌じゃなかったら、また一週間延長。で、一ヶ月大丈夫なら、お前とのキスで本採用」
「な!?」

(なぜそんなことになる!)

 九年苦しんで来た香乃に、一ヶ月程度で真宮への想いを消す自信があるのか。
 それとも、彼なりの苦肉の策なのか。
 にやりと笑っている牧瀬からは、そこまでの切迫感はみられない。

「無理なら友達に戻り、また再スタート」
「……あのね。そこで諦めるということは……」
「ねぇな。拗らせた三十男はどれだけしつこいものか、思い知らせてやる」
「な……」

 牧瀬はどこか吹っ切ったように、呵々と笑った。

「……だから気楽に考えろって。今までの男だって、よく知らなくても大丈夫そうだと思って付き合っていたんだろう? だったら俺のことは、お前は十分わかっている。セックスの相性もいい。お前の仕事も理解してるし、会社ではいつも顔を合わせるからすれ違うこともない。要はお前が俺を、恋人として意識出来るかどうかだけの問題だ。お前の努力次第」
「んむう……」

 そう言われてしまえば、そのような気にもなってくる。
 自分が努力してみればいいだけの話に。

「俺に頑張らせろって。四年も我慢してきたんだぞ? その間、お前何人男を替えてきたんだよ」
「ひ、ひとをビッチのように言わないでよ……。わたしだって、本当の恋をしたと……」
「他の男には本当の恋をしようとして、どうして俺は駄目だ? 同期の友達だろうと男と女だし、此の世には友達から恋人になったカップルなんてごまんといる。禁断でもねぇぞ?」

 やや強引な理屈で、牧瀬は香乃を丸め込んでいく。

「試そうともしていねぇのに、駄目だと先入観だけで物言うな。お前に片想いしている俺に失礼だ。俺の気持ちに、まずは誠意で応えろ。それが筋だろ」

 さらには香乃が弱い〝正論〟が持ち出されてくれば、香乃は唸ることしかできない。
 そして――どこか必死なやり手の営業課長相手に、反論する余地すら奪われ続けた香乃は、とうとう渋々ながらも白旗を揚げたのだった。

「……わかった。わかりました。お試し、前向きに頑張ってみます」

 押しに負けたというよりも、拒む理由がわからなくなった……という表現の方が正しい。
 真宮のことを理由にすれば、真宮への心が育っていることを認めることになる。
 そのため、それ以外を理由にして断ろうとしていたのだが、それでなくとも気持ちに応えられない罪悪感があるのに、牧瀬の言葉で「努力もしないですぐに断る自分は牧瀬に大変失礼なことをしている」という、無責任さをひどく実感してしまったのだ。これはいけない。

 セフレを解消すればただの友達に戻れると、否、戻りたいのだと……そう訴えれば、牧瀬ならわかってくれるものだと思っていたが、香乃は牧瀬が契約を必ず勝ち取る、やり手の営業マンであるということを失念していた。

 反対意見を変えるなんて、牧瀬にとってはお手のもの。
 しかも相手が、彼のよく知る香乃であるのなら特に。

「でも! それでも駄目なら、すぐに今までの関係に戻るということでいいのよね?」

 友達としてやり直す道は残されているのが、少しほっとする。
 それでも持ち前の責任感の強さが、一旦引き受けたものはきちんと努力はしてみようと思わせているが。

「ああ。……だからって、そっちにばかり意識を向けるなって!」
 
 牧瀬が、断る前提のような香乃の言葉に不満そうに小突いてきたが、香乃はそれがなにか面白くて吹き出してしまった。

(やっぱり牧瀬とはこういう関係、崩したくないな)

 顔を綻ばせる香乃を見て、牧瀬は笑みをこぼすと、片手で香乃を抱きしめる。

「ちょ……」
「……ようやく、笑った」
「え?」
「……気にはしていたんだ。俺の気持ちぶつけることで、お前が重荷にならなきゃいいなって。俺が惚れた女は、笑顔が一番だから」
「……っ、朝っぱらからなに言うのよ」

 優しい眼差しに、香乃の頬に熱が集まった。

「なに、照れてるわけ?」
「……そういう牧瀬も、耳赤いけど」
「そこは無視してろよ、お前~!」

 香乃は笑った。

(牧瀬を……意識、出来るかもしれない)

 今はまだ、牧瀬にというよりも、今まで知らなかった一面にドキっとしてしまう程度だけれど。
 牧瀬なら傷つけないと安心できるから。

(彼を忘れられるかもしれない)

 そう思うと脳裏に真宮の顔がちらつき、妙な罪悪感を伴った。

――蓮見さん。
――……では、お待ちしています。

 不意によみがえる真宮の声。
 香乃は雲ひとつない青空を仰ぎ見ると、深呼吸をして心の中に巣くう真宮を、外に大きく吐き出した。
 心の中はクリアな空色になるが、そこには勿忘草の名残は見えない。

(大丈夫、なんとかできる。昔のように気持ちは育っていない)

 ……牧瀬を男として意識してみよう。
 今度こそ、完全に勿忘草を消し去るために。

(……前に進むんだ。強くなれ、香乃!)
 
 香乃は自分に気合いを入れると、静かに……昨夜焦がれた勿忘草に別れを告げた。
 きっともうこれで、真宮に心動かされることはないと、そう思いながら。

「――ということで、すまん蓮見。記念すべきお付き合い(仮)の初日は、遅刻決定だ」
「え? ええええええ!?」

 香乃は腕時計を見て声を上げた。
 時刻は九時二十分過ぎだった――。

 

 ◇◇◇



 午後一時、『ファゲトミナート』付近の喫茶店で、牧瀬と遅い食事をとる。
 げっそりとした顔で香乃は、食後の珈琲に角砂糖をひとついれながら、呟いた。

「……なんだか、誰かさんのおかげで、大した仕事もしていなかったのに午前中はめちゃくちゃハードだった……」
「俺は、隠すのやめて素直になっただけだぞ?」

 牧瀬は揚々と、ブラックのまま珈琲に口をつける。
 明け方までのセックスの疲労など感じさせずに、いつも以上にすっきりとした顔つきで上機嫌だ。

「いやだけどさ、あんたの動きは目立つんだから、もう少し慎重に……」
「ん? だったらお試しだろうとつきあっているって言えばよかった? 言ってもよかったわけ?」
「つきあってるなんて言ったら、わたし殺されるよ」
「ははは。それは俺も同じだ」
「え?」
「ん?」

 牧瀬は笑顔でそれ以上を言わないため、香乃も言葉を続けずにため息をついた。
 
 役職あるふたりが揃って遅刻。さらに昨日と同じスーツだ。
 その上に香乃が腰を重そうにして、牧瀬がやけに溌剌としていれば、社員の好奇な視線がふたりに向く。

 香乃と牧瀬は深い関係になったのかなっていないのか、つきあったのかつきあっていないのか……そんなざわめきの矛先を変えたのは、営業部下の揶揄に、牧瀬がこう答えたからだった。

――俺、蓮見が好きなんだ。今、頑張っているから、お前達も応援して。

 営業のフロアに響き渡るくらいはっきりと。
 厳密に言えば牧瀬は大声を出したわけではなく、皆が聞き耳をたてていたために、響きすぎてしまったのだ。

 牧瀬の告白があまりにも話題センセーショナルになったおかげで、遅刻の理由は追及されずにすんだものの、噂は全部署に広まってしまったらしい。

――牧瀬さん! ようやく告れたんですね!?
――ヘタレ牧瀬! 勢いのままつきあって、嫁にしちまえ!

 香乃にとって気安く話が出来るのは、牧瀬と圭子くらいしかいなく、しかも毎日顔を合わせていた上に、セックスもする特別な友達だった牧瀬の気持ちは、昨日知ったばかりだ。それが、これだけ多くの社員が知っていて、好意的な応援をしていたとは。

――まだつきあってないのだから、大丈夫よ!
――公開したところでどうせいつもの、牧瀬課長の片想いだって。

 好意的ではない視線も勿論ある。どれだけ社内に牧瀬なみの人気ある男性社員がいないのか、どれだけ牧瀬の気持ちが異性にも漏れていたのかを思い知り、香乃はいたたまれなくなった。

 牧瀬が告白したからつきあった……とは誰も考えていないようだが、正式につきあわなければ、香乃は何様だという反感と共に牧瀬同情論が大きくなり、パッシングのひとつやふたつ、受けてしまいそうだ。

 お試しという形で牧瀬の告白を受けてしまったけれど、これだけの大騒動になるのなら、もっと慎重に進めていくべきだった。軽率すぎた自分にため息しか出てこない。

(大体会社では、真面目に仕事しようよ……。暇人共め)

 普段通り仕事をしたいのに、どこにいても視線とひそひそ声に邪魔をされ、香乃が一言物申そうと口を開きかけた時、圭子がすくりと立ち上がり一喝した。
 
――いい加減になさいまし! 牧瀬課長の拗らせ愛を黙って見守れるような方は、こちらの会社にはいらっしゃらないのですか! そうした度量のなさが、MINOWA一の営業課長をさらに腑抜けたトリ野郎チキンにさせるのです。そんな観客は、結構結構のコケコッコーですわ!

 ……内容はどうであれ、自分が男なら、即刻惚れたと思えるほどの、リアルお嬢様の貫禄。
 圭子によって、雑音はひとまず取り払われ、時間になったから出て来たのだった。

(上司の面目なし。帰りに圭子ちゃんが好きそうなお菓子でも買って帰ろう……)

「蓮見、時間だ。もう出るぞ」

 テーブルに片肘をついて、どこの菓子店に寄ろうかと考えていた香乃は、牧瀬の声に我に返る。
 そして硬い顔をすると、珈琲を一気に飲み干して、立ち上がった。
 
 

 ◇◇◇
 
 
 
 客がまばらにいる『ファゲトミナート』のフロントでは、河原崎支配人がふたりを出迎えた。

「いらっしゃいませ。牧瀬さん、蓮見さん」

 真宮同様、河原崎も実に品のいいおじぎをする。
 トップふたりの礼法は申し分ないのに、どうしてそれが末端まで伝わらないのか、香乃には不思議となりながら、お喋りを続ける従業員を横目に見る。

(神経質そうなこの支配人も、こんな従業員を放置しているんだ……)

 解せぬ心地となる香乃の横で、牧瀬が河原崎に訊ねている。

「ええと、総支配人は……」

 すると河原崎は、牧瀬ではなく香乃を見ると、僅かに詰るような眼差しを向けた。

「真宮は、ただいま屍です」
「は、い?」
「冗談です」

 ……河原崎は見るからに、冗談とは無縁のところにいるように思える。
 さらには生真面目そうな彼が語る〝死〟に関係するものは、どうしてもあの夢を思い出して、香乃はどきりとしてしまうのだ。あれは事故の記憶ではなく、予知夢だったのかと――。

性質タチの悪い冗談をいう支配人だわ)

 冗談でよかったと僅かに滲んだ冷や汗を拭う香乃を見つめ、再び河原崎が口を開く。

「本日、真宮は拗ねていて、お会い出来る状態ではなく」
「え?」
「冗談です」

(……どう反応したらいいの?)

 そう思っているのは、牧瀬も同じようだった。
 同意も出来ないようで、複雑そうなな笑みを浮かべている。

「真宮は至急の用がございまして、本日は彼の代わりに私が……」

 コツコツと靴音が大きくなった。
 河原崎は笑顔のまま言葉を切り、小さく舌打ちをした気がする。

「河原崎支配人。冗談もほどほどに」

 現われたのは、真宮である。

「……遅くなりまして、申し訳ありません」

 遅くなったわけではない。香乃達が十分前に着いたため、現在は二時五分前だ。
 それを牧瀬が指摘すると、真宮は控え目な笑い声を響かせた。

 香乃は唇を噛みしめ、真宮から顔を背けた。

 鉄壁な心でホテル訪問に臨んだというのに、九年も見ていなかったその姿が自分と共にあるだけで。……その声が聞こえるだけで、勿忘草の香りがするだけで、発火しそうな心地になり、動悸が止まらないのだ。
 まるで大学時代に戻り、あの図書館に入った時のように――。

(なに……反応しているのよ、わたし! お試しとはいえ、牧瀬と始めようとしているんだから、牧瀬に失礼よ。平常心、平常心!)

 自分に小さく気合いを入れて、ゆっくりと顔を戻すと、真宮の目が香乃に向いていた。
 吸い込まれそうなほど綺麗な蒼い瞳が、なにかを訴えかけるかのように静かに揺れている。
 だがすぐに、凍てついたような寒々しい光を湛えると、真宮は香乃からすっと視線を外して言った。

「では参りましょうか」

 ……それ以降、勿忘草色の瞳は、香乃に向くことはなかった。
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