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1.ゼラニウムは、予期せぬ出会いを誘い寄せる
勿忘草を引き裂くのは誰?
しおりを挟む「髪、切ったんですね」
どくり、と、香乃の心臓が大きく拍動する。
どんなに身構えていても、ストレートに向けられる声と視線が、香乃の心を掻き乱していく。
(どうして、そんな……懐かしそうに言えるの?)
ひとときの……気まぐれな彼の遊び。
勝手にのぼせてしまった想いが迷惑だと、恋人に勿忘草の手紙を破らせたくせに。
(憐憫でも嘲笑でもなく、そんな……優しい声で)
「……似合っています。その髪の色も、その赤いピアスも」
「……っ」
心臓が、直接握りつぶされたかのように痛い。
香乃は顔を俯かせながら、破裂して爆ぜてしまうそうなその痛みに耐えた。
「長い黒髪も素敵でしたけれど」
容貌はわざと変えたのだ。
九年前の面影を消すために。
(簡単に……言わないで。わたしが、どんな思いで……っ)
――乱れるこの黒髪も、たまらない……。
彼が、長い黒髪に指を絡ませ口づけたから、髪を切り落として染めた。
――止まらない。あなたが欲しくて……。
彼が、無防備な耳朶に口づけたから、穴を開けて、彼と正反対の色の石をつけた。
「当然か、あれから九年も経ったのだから。……きっと俺だけが、あの日に取り残されたまま」
まるで自分こそが被害者であるというように、悲しげな声がする。
(どうして、そんな言い方……)
「……蓮見さん」
頑なに顔を上げない香乃に、真宮は静かに呼んだ。
「蓮見さん。俺を……見て下さい」
「……っ」
香乃は唇を引き結びながら、覚悟を決めてゆっくりと目を合わせた。
忘れようとしていた、勿忘草。
大好きだった……大嫌いな花の色。
いつだってその花は、香乃の心を掻き乱す。
どんなに過去に散った花だとしても。
今にも消えそうな儚げな色を纏いながらも、ここにいる自分を忘れるなと言うように、強烈な存在感を示す勿忘草は、悲痛さに曇った表情で語る。
「……待っていました、俺」
途端、勿忘草の香りが、ぶわりと広がった。
……まるで、咲き方を忘れた花が、一斉に狂い咲いたかのように。
――……嫌なら、俺を殴って。……俺を止めて下さい。
あの時、彼の〝遊び〟の誘いに、合意してしまったから――、
「あなたが図書館にくるのを、ずっと」
だから彼は、自分はそういう女だと思って、そんなことを平然と気軽に言えるのだ。
……痛むものも、失うものも、なにもないから。
懐古的な思い出が、なにもないから。
――ホズミは、全く先輩に気持ちなんてないと言っていました。
勘違いしてはいけない。
あの日、別のひとの手に渡り、千切り捨てられた勿忘草は幻想で、いまだ咲き続けていた……などと。
――これが、ホズミの返答です。
揺り動かされてはいけない。
これは――偽り。フェイクだ。
(……胸が痛い)
「覚えているんでしょう? 俺とのこと……」
傷口を平気で抉って、塩をなすりつけて。
(こんなにも、胸が……痛んでたまらないのに。それはわたしだけ……)
九年後、彼は平気で地雷を踏んで、温度差を思い知らせてくる。
「忘れていませんよね、俺にくれた……勿忘草の手紙のこと……」
(痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い……)
したためた想いを、彼女を使ってびりびりに破かせたのは、誰?
そんな重い気持ちなど傍迷惑だと、間接的に告げてきたのは。
――ホズミ、すごく困ってました。こういうの、やめて下さい。迷惑です。
細かくなって、絶望という風に舞って消えた、勿忘草。
大好きだった花は、どうやってももう、咲くことはない。
咲いていたのかすら怪しいあの幻の花は、もう此の世に存在しないことを知っているから。
(……どんなに彼が、心抜きの関係をわたしに求めていたとしても)
勿忘草の過去がない以上、彼とは仕事だけの付き合いだ。
だから香乃は、痛みを我慢しながら、わざと首を傾げて言うのだ。
「なんのことだか、わかりません。どなたかと勘違いなさっているのでは? わたし、総支配人とは今日初めてお会いしましたので」
「そんな……」
(どうして、そんな傷ついた目を向けられなきゃいけないの?)
どうして、それを見た自分までもが、また傷つくのか。
どこまでも傷と痛みで織り込まれた、負の連鎖。
出口なき迷宮から抜け出せたと思っていたのに、どうしてまた引き戻され、辛い思いをしないといけないのだろう。
「仮に、九年前……でしたっけ? そんな大昔にわたしが忘れている思い出があるとしても、九年も経っているんです。わたしは、それに引き摺られるだけの子供ではありませんし、遊んでいる暇もないんです」
(ああ、誰か。わたしを止めて)
痛くて。
痛みから逃れたくて。
口から出た言葉は、さらに香乃自身を切り裂いていく。
「ああ……でも、総支配人はとてもお若く、成長盛りでしたものね。そうやって、意味ありげに年上女をからかって遊ばなくてもよろしいんじゃ?」
びりびりと……九年前に破かれた、勿忘草の切れ端。
「それに今は、同年代の……結婚なされている方でも、いらっしゃるんじゃないですか?」
今度は自分自身の手で、自分を引き裂いていく――。
(……こんなこと、言いたいわけではないのに!)
息をするのも憚れるような、たっぷりとした沈黙が流れた。
僅かに視線を落としていた真宮は言う。
「いると……思いますか?」
ゆっくりとその目に香乃を映し、真剣ゆえに翳って見えるその顔は、傷ついているようにも思えて。
「妻がいながら、からかい半分にあなたと遊ぼうとする……、俺はそんな男に、見えますか?」
彼の表情に言葉に、またもや香乃の心は痛む。
質問をしたのは自分だというのに、そのすべては彼の質問に覆される。
「……蓮見さん。あなたにとって俺は、そういう男に見えているんですか?」
香乃の唇が薄く開いて戦慄くが、是とも否とも……そこからは言葉が出てこなかった。
……ただひたすら、自己嫌悪と罪悪感だけが香乃の心を占めていた。
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