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第3章 帰還
黒崙の街 1.
しおりを挟むサクの家には古参の下人も知らぬ、外に通じる幾つもの抜け道があるが、普段それは誰にも近づかぬ場所に巧妙に隠されている。
それはすべてハンが幼いサクの怠け癖や逃げ癖の矯正と生存本能の鍛錬を兼ねて、誰の手も差し伸べられぬ場所に閉じ込めては、サクが生延びるための野生の勘を養わさせるものに作ったものだ。
ハンが作ったのは抜け道だけではない。
時間がかかりすぎたり不正解であれば、飢餓感を覚えるより前に、サクを追いつめる武器や罠が容赦なく飛んでくる。サクが自力で脱出するまで、たとえサクが熱を出していてもサラにも手出しをさせなかった厳しいハンの期待通り、サクはいつも泣きながらでも意識朦朧としてでも、必ず生き抜いて出てきた。
そうしてハンは、サクがいついかなる状態であろうとも、生き抜ける術をまだ小さかったサクの体と潜在意識に叩き込んできたのだ。
成長してからは昔ほどこうした鍛錬は必要なくなったが、今でもたまに夜中ににやりと笑うハンが夜襲をかけにきたりして、おちおち寝てもいられない。
「……随分と沢山のお仲間引き連れて、人様の家を勝手に家捜ししてくれてるようですね。こりゃ……家の中が大変だ……」
窓から屋敷の外に出たサクは、屋敷の物陰からあたりの様子を観察していた。
この敷地内のあちこちで、近衛兵の影が見える。
「サク……サラを助けに……」
「いや、俺が大変に思うのは、お袋の怒りを受ける羽目になる、あいつらですよ。お袋は礼節を重んじるもんで……ああ、ほら」
サクが先に促したのは、聞こえてきたサラの怒声。
「無礼者っ!!! それが武人のすることかああああっ!!!!」
続けて、男の絶叫があがる。
ひとりふたりの声ではない、大合唱だ。
なにが起きたのかと、近衛兵達が一カ所に動く――。
「お~、派手にやってるなお袋。陽動じゃなく、本気かよ」
「な、なにを……」
「お袋はおとっりそうに見えて、過激な武闘派なんですよ」
「武闘……!?」
「そのギャップに親父は惚れ込んだそうですけどね。夫婦喧嘩した際なんか、お袋が家の中派手に壊すんで、親父はお袋を抑える担当、俺は屋敷の中片付ける担当で、大忙し。喧嘩したら親父よりお袋の方が強いです、間違いなく。あ、このことはご内密に。お袋は、永遠の乙女路線突っ走って、皆の目を騙していますから」
唖然とするユウナ。笑うサクは様子を窺いながら、刺々しい茨の垣根が植えられている中庭に連れた。その裏は高い外壁があり、普通の人間が飛び越えられる高さではなく、思いきり跳ねたとしても茨が体に接触して無事にはすまない。
「いいですか、姫様。俺にしっかりしがみついていて下さいよ?」
そしてサクは駆け、塀の真ん中あたりの位置にて、垣根の色あせた部分に足を差し込む。
そこに隠されていたのは石台。それを踏み台にして一気に外壁を飛び越え、その向こう側で宙返りして着地した。
幸い、通りには人はいない。
サクはまた自分の上着をユウナの頭に被せた。
「サク……」
ユウナが、サクを見上げておもむろに口を開いた。
なにかを訴えるような眼差しだった。
「なんですか?」
サクは首を傾げながら、ユウナの次の言葉をじっと待つ。
「お猿みたい」
「うるせぇですよ、姫様」
無表情だったユウナの顔に少しばかり柔らかさが戻り、サクは思わず顔を緩め、いつものような口調で返した。
「その調子です、姫様。さっきみたいにぶすっとしてると、可愛くねぇですから。かといってお袋のように喜怒哀楽激しくても、可愛くねぇですけど」
「か、可愛くなくて悪かったわね。それにサラは表情が魅力的だし、とっても可愛いわ。それはサラに失礼よ」
「狂暴さを隠してるお袋を、可愛い可愛いって猫可愛がりする奇特な奴は親父ぐらいなもんですよ。あんなのが可愛いのなら、黒陵の美姫と言われる姫様はどうなるんですか。それとも俺が親父のように、姫様を猫可愛がりして、その魅力的な表情とやらを作ってみます?」
サクが真摯な表情を作り、ユウナの頬を撫でて言う。
「姫様は……すっげぇ可愛いです。他の女など及びもしねぇ。姫様、このまま……俺の腕の中に閉じ込めていいですか。俺の中で、その可愛い顔をずっと俺だけに向けていてくれませんか……?」
僅か……ハンがサラに口にしている言葉を模しながら、そこに微かに自分の本心を織り交ぜたサクは、ハンと同じように無意識にその瞳をとろりとさせ、ユウナの反応を待つ。
「………」
「………」
「……おーい、姫様」
「……っ」
「な、なんでそこで顔を赤らめるんですか! 冗談に決まってるでしょう。いつもみてぇに、キーキー言い返して下さいよ。なんだか俺が、小っ恥ずかしい気障男みたいじゃないですか!」
「いや、その……」
もじもじとする様は、〝可愛い〟だけに反応しているのではない。
「サク……お風呂……あ、いいの。何でもない」
ユウナは思い出したのだ。とろりとしたサクの瞳から、浴場でサクとの睦み合いのような触れあいをしたことを。
「今さらかよ……」
ぼそっと、密やかにサクは呟いた。
「姫様、昨日のはただの洗浄です。そこには、なぁんの特別性もありません。変に意識されると守れなくなっちまうから、もじもじは禁止です」
「……」
ユウナは、割り切れるサクに恨みがましい目を投げた。
あんな恥ずかしいことをしておいて、それは洗浄だと言い切れるあたり、サクは自分を女として意識していたわけではないのだろう。
主人だから、そうしただけ。
そこに寂寥感はあれども、なにかほっとする。
昔と変わらぬ、いつものサクがいるから。
……自分は穢れ堕ちる寸前で、昔と同じ日常の世界で踏みとどまっていられるように思えるのだ。
「……ありがとう」
「ん?」
「サクのおかげで、少しだけ……薄れた。悪夢のようなこと……全部」
〝悪夢〟。
それが意味するところの重さを十分知るからこそ、サクは陽気に笑う。
「あれだけ洗浄したのに、少しだけですか。だったら今度はもっとたっぷりしてあげましょうかね。姫様、俺の洗浄をお気に入りのようだったし、洗浄係に拝命下さればいつでも!」
「……っ、サクの馬鹿! 馬鹿馬鹿っ!」
真っ赤な顔でぽかぽかとサクの胸を叩くユウナに、サクは呵々と笑う。
ユウナの結婚が決まってから、サクもまた、ユウナとこうして笑いあうことができなかった。
奇しくも、ユウナが凌辱されたからこそ、絆が再度強まりこうした場面が早く訪れたことを複雑に思いながらも、ユウナの顔や心が少しずつ解れていく様を見れるのは、サクには嬉しかった。
……恋心を犠牲にして、どこまでも浴室での睦み合いを引き摺りたいことを、それ以上のものを望むのを堪えて、洗浄というひと言で笑って片付けたからこそ。
彼の心知らぬからこそ、昔ながらの関係に戻れる。ユウナの心を立ち直らせるには、極力いつも通りにてサクが変わ
らぬことを信じさせねばならない。
サクが〝男〟を見せれば。リュカや金の男のように、性的な欲を昂ぶらせてその体を求めれば、ユウナはきっとサクを恐れる――。
たとえその行為の根底が、愛というユウナの心を求めるものであっても、リュカに裏切られた今のユウナにそれを理解させることは酷だ。
そしていずれ消え去る彼が生を執着させることは、サク自身にとっても、残されるユウナにとっても苛酷だ。
だからサクはいつものように笑い続ける。
おどけて、軽口叩いて……道化者のように――。
「……やっぱり、サクといるとほっとする」
サクと共にいることが日常であったユウナにとって、サクが……誰かの日常の一部でもあることを見せつけられて寂しかった。
自分にとってサクしかいないように、サクにとっも自分しかいないと思ってくれるのが当然だと思ってしまっていたのは、それだけ玄武殿でサクとの交流が深かったためだ。ユウナの世界は、玄武殿での生活がすべてだった。
時折揺籃に遊びにいっても、そこには必ずサクかハンがいて。
黒崙の屋敷にも、そこにはやはりサクやハンがいた。
サクが玄武殿に泊まらずにハンと黒崙の家に帰ることがあっても、それは必ず自分が寝た後で、目覚めた時には既にサクは傍にいたから。
ユウナにとって、サクの次に馴染み深いのは父親のハンであり、サクと同性がゆえの気安さがあるものの、サラは自分と同じ女であり、サクとは異性となる。
母親なのだから当然とは思えども、愛されているサクを思えば。
そして母親を愛するサクを見れば――。
そこにあるのは、自分を弾くような世界であり、どんなにおいでおいでと招かれようと、嫉妬にも似たもやもやとした気分になるのだ。
だからこそ、自分がよく知るサクがいなくなってしまったような喪失感に居たたまれず、感情表現がますますできなくなってしまった。
気遣ってくれるサラに悪いと思いながらも。
だが、いつものようにサクとふたりだけならいつもの調子が出てくる。
「サクがいるだけであたし……頑張れそうな気がする……」
未来は真っ暗でも、進んで行けそうに思える。
……ましてや、それがサクの願いならば。
周囲に目を光らせているサクは、ユウナの呟きを聞き逃してしまった。
「姫様、なにか言いました?」
「ううん。なんでもない」
ユウナは笑った。
――俺の中で、その可愛い顔を……ずっと俺だけに向けていてくれませんか……?
サクの腕の中が、すごく温かくて気持ちがよかった。
ずっと包まれていたいほどに。
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