吼える月Ⅰ~玄武の章~

奏多

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第1章 追憶

 終焉、そして 1.

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 ■□━━━・・・・‥‥……

 倭歴四九八年――。
 星見が予言した、凶兆を告げる赤き満月の出現を数日後に控え、倭陵全域四国すべて、万全な護りの態勢に入ろうとしていた。
 民には〝赤き満月〟の詳細は伝えられてはなかったものの、祠官や武神将が動く様に、平和を脅かすなにかが訪れようとしているのを感じ取っていた。
 だが、神獣の加護ある祠官と武神将に鎮護され、五百年続いた歴史が簡単に幕など閉じはしまい――。
 思い込みにも似た安直な祈りは、倭陵屈指の美姫とされる黒陵国の姫の婚儀への期待に向けられ、必要以上に盛り上がりを見せていた。
 そうした活気に、現実逃避じみたどこか空虚な虚飾さを感じていたのは、倭陵最強と呼ばれる、玄武の武神将だった。
 彼は精鋭部隊を引き連れ、ここ数ヶ月において、黒陵に点在する幾つかの小さな街が住民諸共ひと晩で消滅するという、怪奇現象の調査に乗り出していた。
 そこで彼らがいつも目にするのは、腹部を膨張させた痩せ細った人型の群れ。街の残骸を食らう、〝餓鬼がき〟の姿だった。
 永久に空腹を満たすことができないゆえに、なにより強い食欲を持ち、瓦礫はおろか家畜や人間を生きたまま食らう、生きし屍――。
 執拗に食という生に執着する、おぞましき不浄なそれらは、国が滅びる際に現れ、崩壊の使者とも言い伝えられるものでもあった。
 武神将達は浅ましい姿を晒す餓鬼の群れを駆逐しながら、餓鬼が突然湧いた理由に、不吉なものを感じずにはいられず、原因究明に奔走した。
 そして見つけたのは、険しい山にあった洞穴だった。
 数日前の落雷のせいか、入り口を隠蔽していた木々が焼け焦げたらしい。
 その中は、洞穴とは思えぬほどの立派な造りをしており、豪奢な調度が据えられ、つい最近までここで誰かが生活していたと見られる名残があった。
 玄武の武神将は、絨毯に散らばる金糸のように煌めく長い髪を手に取り、目を細めた。
  ~倭陵国史~

 ■□━━━・・・・‥‥……
 
 
 倭暦四九八年、赤き満月の上る当日――。
 その日は、十六歳になる黒陵国の姫ユウナと十九歳になる文官リュカ、若々しく美しいふたりの婚礼を明日に控えていた。
 姫の父である黒陵国の祠官は、その日の決行を望んでいたのだが、他国の反対に屈し、赤く満月が過ぎた吉日にての婚儀を執り行うこととなった。
 ユウナは、今し方、去り際にリュカが耳もとで囁いた言葉を思い返していた。
――今夜、君の部屋に行くから。
 それは不吉な予言のために、守ってくれるのだと思ったユウナに、
――初夜まで待てないんだ……。
 リュカは妖艶な眼差しで、呆けるユウナの頬に唇を寄せた。
――幸福の延長上で婚儀をしたいんだ。意味わかるよね?
 途端顔を真っ赤にさせて取り乱すユウナに、リュカは妖しく微笑んだ。
――だからユウナ。僕が君の部屋に忍び込めれるように、本殿の鍵を開けていてくれないか?
 玄武殿は、ユウナと祠官の寝所や生活するための部屋が揃っている本殿の左右に、臣下達が住まう離れ、祠官が祈りを捧げたり会議や謁見を行う際の部屋がある紫宸殿と、三つにわかれている。
 赤き満月に関連した〝異端者〟からの来襲に備え、玄武殿を複雑化をした方がいいとのリュカの提案により、正門から各殿に行き着くために罠が仕掛けられた迷路が作られていた。
 その罠の解除は祠官とリュカが、そして迷路を通らずとも離れに入れる隠し通路は、ハンとサクとリュカが知っている。
 だが離れを含め、三つの殿は夜間には鍵が落とされているため、夜に三殿を行き来するには、内外の鍵を外さねばならない。
 つまり、離れに住まうリュカは本殿への鍵を開けることは出来るが、本殿に住まうユウナの協力がなければ、離れからユウナの部屋にはこれないのである。
 それはユウナの意志を試しているようなものだった。
 リュカの夜這いに、応じるかどうか。
 ユウナは惑った。
 明日からは、リュカが夫となる。不吉な予言がなされている今夜は、独身最後の夜――。
 どうして突然そんなことを言い出したのか。どうして明日を待てないのか。

 それをサクに相談したくても、サクはその時その場にいなかった。
 厳密に言えば、一年前にリュカとの婚姻が取り決められた後から、リュカがユウナを部屋を訪れる時には、サクがすっと部屋から出るのだ。
 そしてその日、サクはユウナの部屋に戻ってこなかった。
 明日婚儀だからと、気を利かしているつもりなのだろうか。
 あの武骨なサクの機転だというのなら、これほどおかしいことはなく……これほど寂しいことはなく。
 三人、いつまでも一緒にいられると思っていた。
 誰が遠慮するということなく……。

 一年前のあの後から、サクはなにか変わってしまったと、ユウナは思っていた。
 以前のように元気な笑いがなく、表情や行動に覇気がない。寂しげに見えるその翳りが、奇しくも野性味溢れたサクの男としての妙味を強め、落ち着いた大人の男としての様相になっていた。
 ユウナが見知らぬ男のように――。
 気軽に話しかけられない。なにか距離を感じて、会話が途切れてしまう。
 そんなユウナの狼狽を感じれば、サクは見透かしたようにそっと部屋を出る。
――少し、体動かしてきます。
 昔は、喧嘩しようがなにをしようが、退室などしなかったのに。
 ひとりで大人になっていくのか。
 自分を残して行こうとするのか。
 そんな折ユウナの耳に、サクの噂が届いた。
 サクには、特別に親しくしている女がいる。それはサクの住まう街にいる、ハンも気に入っている少女なのだと。
 もう結婚までの話は整っているけれど、まずはユウナの結婚が先だとサクが先延ばしにしているらしいとのことを。
 ……初耳だった。
 
 心がざわついたユウナは、サクに言った。
 自分にも、未来を誓いあったサクの想い人を紹介してくれと。紹介がないのは、水臭いではないかと。
 ……そこから、共通の明るい話に持ち込めるはずだった。昔のように、照れるサクをいじれるはずだった。
 だがサクは、やるせなさそうに笑ってそれを拒んだ。
――そんなもんはいませんよ。簡単にはいかないんですよ、ひとの心は。
 火のない処に噂は立たぬ――。
 それが真実であれ虚偽であれ、噂がたつということは、ユウナの知らぬところでサクが親しくしている異性がいるのは事実のはずなのだ。
 その存在すら、サクは己の情報を開示しない。
 サクについてなんでも知っているはずの自分が、実はサクのことについてなにも知らなかった現実を知り、胸が軋んだ音を立てる。
 サクが離れていく……?
 一緒にいるために、サクを護衛のままでいさせたのに……?
――サクに女? 僕は聞いてないけど……気になるの、ユウナ。
 サクが否定しリュカの顔がなにか暗くなっていくのなら、ユウナはこの話題についてそれ以上は追及することが出来なくなった。

 サクが遠くなれば、リュカとの距離が縮まる。
 サクが素っ気なくなれば、リュカは情熱的になる。
 リュカの男としての接近は、この一年で増えた。
 抱擁だけではなく、美女でも通るその美麗な面差しに男の艶めきを取り混ぜて、ユウナの肌に唇を寄せたがった。
 照れくさいなりにもそれがリュカなりの愛情表現だと受け入れれば、リュカの手が服の上からユウナの胸の頂きに触れ、
――ユウナ……。
 乱れた熱い吐息を零す。そして艶めかしい唇をユウナの唇に重ねようと、ぐっと力を込めて顔を近づけさせるのに驚いて、リュカの胸を手で押しやって拒めば、リュカは辛そうな顔をして、儚げに笑うのだ。
――ごめん。婚儀が待ちきれなくて。
 婚儀は明日だ――。
――僕が君の部屋に忍び込めれるように、本殿の鍵を開けていてくれないか?
 それを待てないというリュカの顔は、どこか切迫めいたものがあったのを思い出す。
 まるで今夜だから、そうしなければいけないという、頑ななる責務に追われているかのように。
 愛し合う男女がする行為がいかなるものか、ユウナにも知識はある。
 初夜を待てないというリュカの情熱は嬉しくは思うけれど、それでもリュカに抱かれるということに現実味を覚えない。
 それどころか、ユウナが好きな柔らかな笑みを消して、見知らぬ妖しげな男に豹変するのを、恐く思ってしまうのだ。
 婚儀は明日だというのに。
 これからはリュカを夫として、そして閨を共にするというのに。

 リュカのことは変わらず好きだ。
 会えない時は、いまだに寂しくてたまらない。会えた時は、本当に嬉しくてたまらない。
 リュカの笑みに心がきゅっと鳴る。
 だがそれは、リュカと出会ってから今までずっとそうであったのだ。
 だからサクを連れて、リュカがよくいる書庫に頻繁に会いに行ったのだ。
――恋をしているんです。……リュカに。
 いつぞやのサクの言葉が蘇る。
 言葉の内容というよりも、自分から離れ行こうとしているようなサクの、その声音に……胸がきゅっと締め付けられた。
 自分はなにか、婚儀に迷いがあるのだろうか。
 ユウナは考え込んだ。
 リュカを受け入れることに不安があるのだろうか。
 才知溢れる美貌の智将。
 あんなに優しい笑みを向けてくれ続けているというのに。リュカから、愛を感じているというのに。
 リュカへの不安や迷いが、不吉さに満ちた月の影響であるのなら、きっとその不安を払拭できるのはリュカ本人しかいない。
 もしかするとリュカも、リュカを拒む理由としてユウナのそうした迷いのようなものを感じるからこそ、婚儀の前に想いを確認し合うことを望んでいるのかもしれない――。

 だとしたら、ユウナが取るべき術はひとつ。
 鍵を開けよう――。
 不吉な夜に、すべての不安を捨てきるために。
 明日の婚儀を、心からの笑顔でリュカと迎えるために。
 そうすればきっと、サクもまた戻ってきてくれるから。また笑ってくれるから。

――ああ。やったな、僕達!
――すげぇな、姫様とリュカがいれば、無敵だっ!
――ええ。無敵よ、あたし達は!!

 また三人、昔のように笑って過ごせるようになるから――。
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